コーヒー - みる会図書館


検索対象: 幸福の絵
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1. 幸福の絵

と話を戻す。 「今日は帰りましようよ」 私の中には家の話題から惹き起された彼への反発がつづいていて、 「ね ? 帰りましよう よそよそしくいい切った。 「じゃ、コーヒーを飲んで帰ろうか」 「それがいいわ」 「あの、はやらない店へ行くか」 「そうしましよう」 そのコーヒー店は堂本が探し出してきた、ひどくはやらない店だった。六本木の外れの裏通り の、不動産屋の脇の細い暗い階段を上るとき、すり減った木造の急な階段はゴトゴトと荒っぽい 音を立てる。そこを上って行くとやがて漂う暖かなコーヒーの香は、いっか私には懐かしいもの になっていた。 私はその店の粗末な固い木の椅子に坐るたびに、時代が逆行して、昭和初期のミルクホールに いるような気がするのだった。空色の布を張った衝立の後ろから、あどけない丸顔の娘が現れて 注文を聞く。ミレーの晩鐘の複製が壁に懸っている。コーヒーと書いた縦長の紙が張ってある。 娘は衝立の後ろからコーヒーを運んで来ると、すぐその後ろに消える。滅多に客がいないので私

2. 幸福の絵

無造作に白ペンキで書いたコゲ茶色の看板に、粉雪が舞っている。その時、ふいに車の中に強い コーヒーの香が漂ったような気がした。と同時に私の胸は締木にかけられたように痛んだ。どう 引き止めるすべもなく、過ぎて行く時間の大きな影が擦過して行くのを私は感じた。 こうして過ぎて行く : 私は思った。そうして更に胸は締めつけられた。 「コーヒーが嫌いだなんて、珍らしいね」 堂本の声が蘇ってきた。 「珍らしい ? そうかしら ? 」 私がいった。 「これからコーヒー好きにしてやろう」 「ならないわ、きっと」 私はいった。 「でも、コーヒーの香りだけなら、好きになるわ」 焼丸太を並べただけの何もないテラスが寒そうに小雨に濡れて光っていた。そのテ一フスと汚れ たガ一フス戸で隔っている食堂にはおが屑のストープが燃えていた。丸太壁に古色蒼然としたピア ノが押しつけられ、その上にマンドリンを抱えている大きなフランス人形が埃をかぶったように

3. 幸福の絵

「ええ」 私たちはそこにあった小さなコーヒー皆に人った。ウェイターがコーヒーを運んで来て、去っ て行くまで、私も堂本も黙っていた。 「見た ? 腕の内出血の跡」 「うん」 と堂本はいっただけだった。 耐二夫婦が午後の診療のために帰って行った後、堂本は比呂子の病室に二分ほど顔を出して帰 って来たのだった。病院を出てから比呂子について私たちが交した一一一口葉はそれがはじめてだった。 そしてそれ以上、二人とも何もいわなかった。 「このコーヒーは案外うまい」 と堂本はいい、 「そう ? 」 といったきり、私は目を窓の外のビルとビルの間の濁った空間に向け、もう夏が終るわね、と 呟くと、ふいに泣き出しそうになって口を閉じた。 私は比呂子に訊ねてやらなかった。これまで比呂子には楽しいことが沢山あったか、悲しいと 思ったことはどれくらいあったか、比呂子は私に訊きたいことがあったのではないか、いいたい

4. 幸福の絵

いう気持の強さよりも、堂本が私に会いたいと思っているその気持を拒むことが私には出来ない のだった。私は五分でも早く堂本の待っているコーヒー店へ行きたかった。一刻も早く堂本に会 いたいというよりは、堂本を待たせるのが辛いのだった。そんな私がタクシーを探す姿は、人の 目には不吉な大事を抱えている人間に見えたかもしれない。 「忙しいんだろう、大丈夫かい」 それが私に会ったときの、堂本の口癖になっていた。そういわれると私は嘘をついた。 「ううん、大丈夫なの、今日は」 「原稿はいいの ? 」 「うん、今日の分はもう書いちゃった」 「そうか、それはよかった 堂本は安心したようにいう。今日の誘いを断ると、次はいっ会えるかわからない。その気持が 私に無理をさせた。 しかしそんな風に無理をして出て行っても、私たちに与えられる時間はせいぜい一時間か二時 の間、例の「はやらない「ーヒー店」でコーヒーを飲んで別れるだけのことが多かった。 ( 堂本の 福ために、私は嫌いだったコーヒーを飲むようになった ) 彼の劇団が秋の芸術祭参加作品として上 演する新作の話や、テレビ映画のフキカエの苦労話などを私は聞いた。私は相槌を打ちながら、 堂本がタ・ハコケースからタ・ハコを抜き取るたびに、

5. 幸福の絵

その夕方、堂本と私は、名古屋の、そこがどこともよくわからない街角に立っていた。喧騒と 埃の向うに濁った太陽が傾いていた。太陽はびつくりするほど大きくまん丸で、その暗くぼんや りした赤さは不吉を感じさせた。誰もそんな太陽の色には気を止めていなかった。今日も一日が 終りに近づいているのだ。だが街を行く人々は、一日が終ろうとしていることにも気を止めてい ない風だった。誰もが忙しそうに歩き、信号で止り、また気忙しく一斉に動き出す。 「どうする ? 」 堂本がいって煙草に火をつけた。 「コーヒーでも飲むかい」 「そうね」 私の気のない返事に堂本は疲れたかいといった。「疲れたかい」と堂本がいうのを今までに何 十度聞いたことだろうと私は思った。堂本はそれが癖になっている。そしてそう問われると「う ううん」と私が首を横にふることも。しかし「うううん」ということは今は私の疲労の印のよう 絵 「帰れるかい」 の 福と堂本はいたわるようにいった。 「帰れるわ」 「コーヒーでも飲むかい」

6. 幸福の絵

来たなんて ! あなたは平然として、『部屋、ありますか』などとおっしやった。それにこの部 このテープルの厚み、椅子の古ぼけよう、見てよ、鹿鳴館とまではいかないにして 屋はどう , : タイムマシンでどっかに戻ったとしたら、一民り過ぎじゃな も、でも大正のお化けが出そうー いかしら : : : 」 「こっちへ来てサンドイッチをお食べよ」 堂本が銀のポットからコーヒーを注ぎながらいった。 「そうだわ、あの汽車に乗ったときからはじまったんだ 私はしゃべるのをやめなかった。 「神さま、戻しすぎです。もう少し手前に戻して下さい。私たちの故郷の野球場と海のある町に 戻して下さい。あ、見えてきたわ。マスゲームよ。県下中等学生体育大会 ! あなたは人文字の トップだわ。白帽の中で赤い帽子をかぶったのが一人ずっ立って行くと、皇軍・ハンザイって字に なるのよ。私とお杉は双眼鏡で見てる。あ、いる、いる、お堂がいる、キャーツと叫んで、笑い こけてる。なぜ笑うのかわからないけど、笑うんだわ。女学生ってそういうものなのよ」 「サンドイッチをお食べよ。しようのないお嬢さんだな」 の 福堂本は久しぶりに「お嬢さん」という言葉を使った。私は堂本の前ではしゃいだりふざけたり することを、もう長い間、しなかったことに気がついた。私は静かになり、コーヒーを飲んでサ ンドイッチを食べた。サンドイッチは。ハンが乾いていてまずかった。

7. 幸福の絵

要が減っていっているのか私は知ろうとしなかった。仕事に対して情熱的でなくなったので、堂 本は頻々と私の家へ来る。私はそのことが嬉しかったのだ。堂本は昼前から来て、私が来客に応 対している間、所在なさに洗面所の棚の戸を直したりしている。 「こんなこと、うちじゃあ一度もしたことがなかったんだぞ」 そんな堂本の言葉を聞いた人がいるとしたら、その人は私たちの関係がすっかり安定している ものと思っただろう。 週に何度か堂本が来て泊っていくようになってからは、私は仕事を消化するために睡眠時間を 削っていった。堂本のために作る料理の時間、一緒にビールを飲み、用意した料理だけでは足り ないのではないかと心配し、台所 ( 立って行ったり坐ったりしながら、忙しく頭を働かせて堂本 のロに合うものをまだ作ろうと考え、食後は一緒にテレビを見る。それらのために消えていく時 間を、私は惜しいと思ったことはなかった。テレビを見ていながら、私は時々上の空になった。 原稿の書き出しの文章をそっとメモしたりした。私はコーヒー好きの堂本のために何度かコーヒ ーを沸かし、果物をむき、そうしてさりげなく時計に目をやる。 「今日はどうするの ? 泊っていくの ? の 福と私はいい出しかねている。泊らずに帰るといえば、失望がひろがるが、泊っていこうかとい われると、原稿のことが頭をよぎる。 「大丈夫なのかい。原稿の方 : : : 」

8. 幸福の絵

「今、松阪肉を貰ったのよ。だからこれから届けようかと思って : : : 」 それでは野菜を用意しておくといって電話を切った途端に、電話が鳴った。 「立子先生ですか」 機嫌のいい堂本の声がふざけていった。 「これから出て来ないか」 「今 ? 」 「うまいステーキ屋を見つけたんだ。開店したばかりで客がいない」 咄嗟に答に詰っていると堂本は敏感に察して、 「原稿、詰ってるの ? 」 そう訊かれると、いつものように私は、 「ううん、そうでもない」 といわずにいられなかった。 「じゃあ七時半頃どうだい。いつものコーヒー屋で待ってる」 絵その瞬間、私は決意した。 福「行くわ」 幸 「じゃあ待ってる」 一瞬後には私は万年筆にキャップをかぶせて、もう立ち上っていた。

9. 幸福の絵

「どっか : : : いいところ、ないかな」 堂本が考えるのを私はぼんやり見ていた。小さなコーヒー店の椅子に向き合っている二人の間 を、音もなく流れて過ぎていく時間の気配を私は聞いていた。 「そうだ、蒲郡へ行かないか」 堂本がいった。堂本は海軍にいた頃、蒲郡に在したことがあったのだ。 「どう ? 行くかい ? 」 私は堂本を見た。 「行くわ」 と私はいった。 私たちは各駅停車の東海道線の普通車に乗った。長い夏の日は漸く昏れかけて、饐えたような タ闇の中を古びた汽車はゴトゴトと走っていた。こんな汽車がまだ東海道を走っているとは思わ なかったと私はいった。固い木の座席は、そこに坐って揺られ運ばれ、立ち去って行った無数の 乗客たちの体温によって、磨かれてすべすべとなめらかになり、あたたまっていた。その座席の 絵 感触が私に戦争の頃を思い出させた。天井の電灯は蛍光灯ではなく、昔ながらの黄色い丸電球だ の 福った。くろずんだ木枠の中のガラスに、黄味を帯びて薄暗い車内がぼんやり写っていた。戦闘帽 や朽葉色の国民服や、疲労の濃い男たちの横顔がその暗い窓に写っているような気がした。 「懐かしいわねえ、この汽車ー

10. 幸福の絵

とは、私はそれまで思ったことがなかったのだ。 「ぼくなら、家も金も女房にやって、家を出るがね。しかし、堂本のようなのが普通なんだ。、ほ くや君が特殊なんだ。みんないろんなことを怖がって生きてるんだよ。それが普通だ。ぼくらは 毒草なんだよ」 「普通の男が、なぜ新劇の役者でいられるの ? あの人たちは人間の真実について考えつづける 人間ではないの ? 」 「そんな女子学生みたいなこと、いうなよ」 男友達はなだめるように私の頭に手を置いた。私は眼尻の涙を押えた。私はいった。 「あなたと恋愛すればよかったかもしれないわね」 「君は男を見る目がないよ」 しかし私は思っていた。この人と恋愛をしても同じことだと。私は今、堂本を罵っているが、 罵りながら私にはわかっていた。私の烈しさはどんな男と恋をしても、やがていっかは破壊して しまうだろうということが。 さなか 絵 二月、私はまた札幌へ行った。札幌は暗鬱な長い冬の最中にあって、暗い雲の下に雪を被って の 福凍てついていた。黒いプーツに黒い長マントを着た大柄な女が、遅い午後の舗道に魔女のように 立っているのを、私は空港からホテルへ向う車の中から、荒涼とした気持で眺めた。まだ夕暮に は早いのだが、灰色に沈んだ街角の窓に、ぼーっと黄色く灯が滲んでいて、コーヒーショップと