私は他人の目やロを気にして生きたことは一度もない。たとえそのために困難を生じたとして も、私はこの生き方を変えようとは思わない。自負をもって私はそうしてきたのだ。それがどう して堂本にはわからないのかと私はもどかしく思う。 私たちはホテルを出たが、別れかねてまた暗い道をうろうろと歩いた。 「どうしよう」 堂本が始める。私は書かなければならない原稿のことを思う。だがそれをいいかねて歩く。 「この家、とてもいいわねえ。古いけどどっしりしてて。品格があるわ」 通りすがりの邸宅の前で突然、私はいう。 「立ちゃんはこんな家が好きなのか」 「この頃のいい家というのはこれ見てくれ、ってところがあるでしよう。あれがハナモチならな いわ」 私は二年前に堂本が建てた家をそれとなく当てこすった。それは堂本の妻の好みが反映してい るらしい白亜の、華美な外観だ。 絵「あなたはアメリカ風が好きね ? 」 の 福「別に好きってわけじゃないけど」 幸 堂本は何も感じぬ様子で、 ( もしかしたら感じていたのかもしれない、と後で思うが ) 「どうする ? 」
と私は答える。疲れている私は町子が満足するような返事をしてやれないが、町子はそれに馴 れて自分のしゃべりたいことだけをしゃべる。 「それから松井さんは田島さんのところの鹿の脚も折っちゃったのよ」 「どうしてそんなに壊すの ? 松井さんはおとなしいいい子なのに」 「ママは松井さんのこと、好き ? 」 「そうよ。おとなしくていい子よ」 私は同じことをいう。町子は少し黙った後でいった。 「ママ、今度貧乏になったら、あのてんぐのお面、売る ? 」 みやげ 田所がまだこの家にいた頃、友人の南方土産だといって貰って来たくりぬきのお面が壁に懸っ ている。黒い丸顔に曲って長い鼻が不格好についていて、目とまくれ返った厚い唇が白いのが不 気味である。町子はくり返した。 「ねえ、ママ、今度また貧乏になったら、あれを売る ? 」 にとん 田所の事業が失敗した後、私たちの家の中の目ぼしい物は殆ど売り尽した。父親と母親が毎日 のようにいい争いをしたり、また仲よく金策の相談をしたり、家の中の物が次第になくなってい くさまを町子は見ていたのだ。やがて父親はこの家を出て行った。父親が残していった借金を払 わなければならなくなった母親が、昼も夜も髪を逆立てるようにして仕事をしているさまも、何 もいわずに見ている。そんな町子を憐れと思う気持は、必死の生活の建て直しの中では浮かんで
118 「カタカタはよかったな。その通りだよ、坊や」 私は比呂子を抱いてしやがんでいた。タ陽が洗濯物を取り込んだ後の物干竿の上に、まるで顎 を乗っけたように、ぼうと鈍い赤さで懸っていた。物干場の後ろは何もない。そこは切り立った ゅうもや 崖の上で、下は田圃だった。タ靄に濁った果しない空間の中に、ぼうとかすんだ太陽を支えて、 によっきり突っ立った物干柱のある風景が呼び起す寂寥感に、私はじっと耐えていた。 またいら 戦争に負けて三年目のその夏は、雨のない灼熱の日がつづく夏だった。起伏のないただ真平に 地平線まで続く甘藷畑の、黒ずんで見えるほどに茂った緑の上に照りつけていた太陽の静寂。甘 藷畑の左手に白い舗装道路が地平線に向って走っていた。道路は少しずつ上り坂になっていき、 そうして下るのだろう、地平線で空に向って浮き上り、ふいに切れている。それが私の家の西の 窓の外に見える景色だ。 その家は戦争中、この甘藷畑を飛行場にするために編成された陸軍航空本部の航空基地設営隊 の隊員の宿舎だった。汽車のように横に長く、真中に廊下。その左右に部屋が三つずつ、突き当 りに台所、反対側の突き当りに玄関がある。どの部屋の押人にも重い木の戸がついている。床の 間も棚もない殺風景な部屋だ。その家と並んでもう一棟、同じ間どりの家が建っている。私たち 夫婦は、もとこの航空隊に所属していた将校であったために許可された帰農者で、隣に住む二組 の夫婦も同じ帰農者だった。 二軒の家の間には共同井戸があった。私はその井戸端で洗濯した。野菜や米も洗った。風呂の
彼女は妻以外の女を連れて 堂本につつけんどんな口の利き方をし、私を無視しようとしていた。 , 来る堂本を軽蔑しているように思われたが、あるいはもともとそんな愛想のない性格だっただけ かもしれない。 贅を尽して建てられたその離れ家は、私にはそれほど居心地のいい家ではなかった。しかし、 私たちにはそこがくつろげるただ一つの場所だった。ここ ( 来れば少くとも堂本は安心してのび やかになる。この家が堂本の気に人っているからには、私もそう思うことにしようと思う。ここ を見つけるまでの私たちは、まるで家なし子のように東京の街をさまよって夜を更かさなければ ならなかったのだから。 「ぼくはだいたい、役者になるような人間じゃなかったんだ。人生を誤ったよ」 夜更の道を歩きながら、堂本はよくそんなことをいった。 「じゃあ何になればよかったの」 「そうだなあ、教師かなあ」 堂本はいった。 絵「高校の教師になったら面白かったろうなあ。いや、小学校の方がいいな。ぼくはきっと生徒に の 福好かれるよ」 幸 「そうかもしれないわ」 小学校の先生になりたいという堂本の言葉の裏側には、演劇人の世界に溶け込めない彼の苦渋
昭和二十二年、十二月二十九日ーーその年月日だけは、私はいつまで経っても忘れない。その 朝私は高円寺の住宅街の、焼跡の中を歩いていた。焼け残った住宅の基礎石と基礎石の間の細い 泥道が、ぬかるんだまま凍てついて、私の安物の草履の下で尖っていた。私は荻窪の産婦人科医 のところへ、妊娠中絶の手術を受けに行くために歩いていた。高円寺には空襲に焼け残った姉の 婚家先があった。その前の日に私は千葉県の自宅から出て来て、姉のところで一泊した。汽車の 切符を買うには何時間も行列をしなければならなかったので、姉の家に一泊しなければ医師が指 定した時間に行くことが出来ないのだった。それほどまでにして荻窪まで行かなければならなか の 福ったのも、妊娠中絶が闇の中の隠徴な行為であったからだ。姉は私のために、現役を引退したよ うな荻窪の老医師を探してきてくれたのだった。 姉の家には私と一緒に浩一も泊っていた。手術の終った頃に私を迎えに来るために、一緒に家 五章
り相撲に終るのだった。 父が危篤になったので、私は東京の父の家へ駆けつけた。そしてそのまま、父の家にいつづけ た。私は村へ帰らなかったが、浩一は何もいって来なかった。私は比呂子を十九になる女中に預 けて出て来ていた。私がいないので、誰憚ることなく麻薬を使っているにちがいない浩一のこと を思って、私は憎悪で胸が張り裂けそうになっていた。実家に帰って来ると、浩一と共に暮すこ とはほとほといやになった。にもかかわらず浩一が帰宅を促して来ないことを、私は憎むのだっ こ 0 十日ほどして父は死んだ。私が打った電報で浩一は葬儀に出て来た。比呂子は十九の女中と一一 人で家に残ったのだ。数日前、女中は何を食べたのか、夜中に数回、下痢をしたという。古い飯 を油でいためて食べたのがよくなかったのだろうと浩一がいうのを聞いて、私はぞ、つとした。 「比呂子は ? 」 「比呂子は元気だよ。同じ飯を食べたらしいんだが、何ともないんだ」 浩一は気楽にいった。 「毎日、ひとりで廊下を走って遊んでるよ」 寂しがって泣いていると聞くよりも、古いいため飯を食べても何でもなかったということが、 哀れでならなかった。母親は今、子供のことを忘れて自分の人生について考え始めているという
もの静かな口調で路子が訊く。ューモラスな会話を好む耐二は、 「お母さんもたつぶりお休みになって、楽しゅうございましたか ? 」 とからかう。笑い声がひろがる。そのときは多分、貴志も笑うだろう。誰の目にも非の打ちど ころのない倖せを楽しんでいる一家の団欒の光景だ。 「お父さんは日曜日だというとゴルフに行くのよ。一生懸命にお母さんを誘うんだけど、お母さ んは行ったことがないの、それでもう肥っちゃって、こんな : : : 」 比呂子は両腕を身体の横にひろげて、いつまでも笑い声を立てていた。つられて私は義理に笑 いながら、笑っている自分の顔が次第に不自然にこわばっていくのを感じていた。比呂子の笑い は長すぎるーー・私はそう思わずにはいられなかった。 そんな風にして比呂子は私の生活の中に人ってきた。もう何年も前からこの家に出人している 人間のように、溶け込んだ。私や町子の留守に来ると、母の部屋へ行って話し込んだり、ひとり でテレビを見て帰ったこともある。私が家にいても、原稿の締切が迫っているために、やっと書 絵斎から出て来たときは、帰り支度をしているところだったりした。来る時は電話をしてから来る 福ようにといっても、いつも突然来た。彼女は必ずしも私に会う必要はないようだった。ただ私の 幸 家に出人していることでよかったのかもしれない。 町子を加えて三人で食事をした夜、私は通りすがりの小物屋で町子にガラスの黄金虫のプロー
いなまれると私は、私の方から電話をかけることの出来ない立場を思って堂本を憎んだ。 「かければいいじゃないか。かまわないよ」 と堂本はいい争いのたびにいう。しかし彼が自分の家からかけてきたことは、いまだに一度も なかった。彼からの電話は、たいてい音楽やざわめきの中から聞えてくる。彼はかければいいじ ゃないかといいながら、自分の家から電話をかけないことによって、私を阻止している、私はそ う思わずにはいられない。そう思う以上、私はかけない。私はそういう女だ。そうして私はそん な気持にさせる堂本に腹を立てた。 多くの女の中には、かけてはいけないといわれていても、平気でかけることが出来る女がいる。 かければいいじゃないかと男がいえば、たとえその本心が想像出来たとしても、かける女は沢山 いるだろう。しかし私はかけなかった。金輪際かけないぞという決心を胸の奥に固めていた。家 が燃えてもかけないだろう。私はそんな時が来るのを待ち望んだことさえある。私が死んだ後で 何も知らずに彼が電話をかけてくる。家政婦がいう。 「立子先生は昨日、お亡くなりになりました」 その時、彼を襲う悔恨を想像して、私は死んでやりたいとさえ思うのだった。 の 福私は連絡がないわけをあれこれと思い煩った。考えられることは、堂本が妻に屈服したことだ。 旅先へ来た息子と妻を見て、自分が作ってしまった状況の切実さに動かされたのかもしれない。 1 彼は家長としての責任に目覚めたのか。それとも妻の狂乱に縛りつけられているのか。毎日私は
「ねえ、電話してみたら ? 」 比呂子は無邪気にいった。 「病気かもしれないし、もしかしたら時間を間違えて、今頃、羽田でうろうろしてるかもしれな いわ」 「電話なんか出来ると思うの ! 」 私は比呂子に食ってかかった。 「出来るわけないでしよ、あの人の家に」 「なぜ ? 」 「なぜって、そんなこと、わかってるじゃないの」 「じゃあ、私がするわ」 比呂子は少しも不自然でなく穏やかにいった。 「いいでしよう ? 私なら」 「かけられる ? 私は少し気をとり直したが、すぐにかっとなった。私は堂本の家の電話番号を知らなかったこ とに気がついたのだ。比呂子は電話帳で調べるといって階段を下りて行った。私は長襦袢のまま べッドに腰を下ろし、胸をとどろかせながら待っていた。胸の鼓動は怒りのためなのか、期待の ためなのかわからなかった。暫くすると開けたドアの向うに見える階段の途中に、比呂子の顔が
152 私は堂本の毎日の生活について、殆ど何も知らなかった。私にわかっていることは、堂本は家 庭で孤立しているということだった。二人の息子は、いい年をした父親が、いい年をした女に迷 って母を苦しめている事態を許すまいとしていた。息子たちは父親に口を利かなくなった。彼の 妻は息子たちの前で夫を罵り、私の名前を呼び捨てにして泣きわめいている。 それ以上に堂本は何もいわなかった。私も訊こうとしなかった。可哀想に。堂本は修羅場でひ とりぼっちだ。その思いが私の心を柔らかくした。ひとりぼっちの堂本を慰めるために、我が身 を削る用意は出来ているつもりだった。私には堂本に頼って暮したいという気持はなかった。私 のカで堂本を幸福に出来るのなら、私は喜んで自分の身を削るだろう。その頃まではまだ私は、 自分が堂本を幸福に出来ると思っていたのだ。 大晦日の夜、堂本から電話がかかってきた。彼は既に私の家の近くまで来ていて、通りの公衆 電話からかけてきているのだった。用事はないがちょっと顔を見たくなったのだと堂本はいった。 家庭からはみ出している男にとっては、大晦日の夜は身の置き所に困る長い夜にちがいない。堂 本の声には疲労が滲んでいた。私は書斎の煤払いをした時の、汚れたズボンにセーターを着たま ーを引っかけてすぐに家を出た。まだ店を開いていた八百屋でレモンを一つ まの格好に、オー 買ったのは、昼間、家政婦が買い忘れたのを買って来るというロ実をとっさにつけたからだった。