言葉 - みる会図書館


検索対象: 幸福の絵
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1. 幸福の絵

「七時頃羽田に着くね」 「そうね」 「じゃあ、迎えに行くよ。銀座へ出て食事しよう」 私は習慣となった言葉を口にした。 「ほんとなの ? 冗談でしよう ? 」 「本当だよ。その日は暇なんだよ。それとも、立ちゃんは疲れてるかな」 「私は大丈夫だけど : : : でも : : : 羽田には大勢いるわよ」 「またはじまった : : : 」 堂本は大きな溜息をつき、それから気をとり直したようにいった。 「いいんだよ、見られたって。もう離婚したも同然の身だものー 「でもまだ離婚してないじゃないの」 「同じだよ」 堂本は悠然といった。私は言葉を探した。 あなたはいつもそんな風にいっては、いうばかりで実行出来なかったじゃないの、いっかの時 ・ : と私は決して忘れたことのない幾つもの過去の例をいい立てたくなるが、しかし「離婚し たも同然」という堂本の言葉に、また希望を持たずにはいられないのだった。 札幌は晴れ渡って、凜烈な寒気に包まれていた。私にはその鋭い冷たさが快かった。私は暇を

2. 幸福の絵

「ーーすまない : 私は言葉を失った。堂本は「すまない」といったのだ。彼は私に謝った。なぜ謝るのか。 彼は彼女の夫だからだ。彼らは夫婦で私は他人だ。だから彼は私に謝った。 私は堂本に謝ってもらおうとしてその話を出したのではなかった。私は堂本を立ち上らせたく なかっただけだ。だが堂本は私に謝り、それから思いきったように勘定書を手にした。 「もう、そんなことはさせないからね」 その言葉がどんなに私を傷つけるかを知らずに彼はいった。 「約束するよ」 彼が立ち上って階段を下りて行ったので、仕方なく私もその後からついて下りた。 「じゃあね」 小暗い舗道で堂本は私を見下ろして、悲しいほどに優しい目をして徴笑した。その目を見返す 私の心臓は、自分でも理不尽とわかっている憤りのために高鳴っていた。私は堂本の足をそこに 釘づけにさせる痛烈な言葉はないかと探した。 絵 「帰らないで」 の 福とは私にはいえなかった。 「この次ね : : : ゆっくりしよう」 堂本は何かを察したようにいうと、

3. 幸福の絵

たに無理いうたり、束縛したこと、いっぺんもないやないの。あんたは自由ゃないの。したいこ としてるやないの」 : 私は我儘よ」 「お杉のいう通りやわ。そう思う : すぐ私は同意した。「私のいう自由はそんなことではない」とは私はもういわなかった。そし てその時から杉枝は、私にとって遠い友達になった。 惰性となった愛執が私を縛っている。それを振い落して自由になりたいという渇望が、私を残 酷にしていった。私は半ば覚悟を決め、堂本に向って私たちの関係を世間に公表するといった。 その時の堂本のうろたえようが、私を絶望させた。 「やつばりそれがあなたの正体だったのね」 私は叫んだ。更に私を絶望させたことは、堂本の方もまた、私が「正体を現した」といったこ とだった。 そうだ、とうとう私の正体は現れてしまった。私は堂本の前に立ちはだかってわめいた。 「そうよ、私たちはお互いの正体を見極めるのに三十年かかったってわけよ ! 」 私は胸底からこみ上げてくるままに罵倒の言葉を連らね、長年、胸の中に潜めてきたその言葉 をとうとうロにしたことによって、更に激昂していった。 小心者、不正直、わからずや、スター気取り、世間体病、カッコつけ : もっといいつづけようとし、あせって言葉を見失い、吃ったり絶句したりした。

4. 幸福の絵

私は堂本の考えの、その出処を探るために暫くの間黙っていたが、その間に私の表情は冷えて いったにちがいない。 ゆっくり会える部屋がほしいんだ 私は反芻した。それはどういうことか。堂本は家庭から出るということなのか。しかし彼は 「住む部屋」を探すとはいわなかった。「立ちゃんとゆっくり会える部屋がほしい」といった。 「立ちゃんと暮す部屋」ではなく、「ゆっくり会える部屋ーが。 私は暫く黙っていた後でいった。 「どうなったの、奥さんの方は」 堂本は気まずい顔になった。 「家を出て行くことだけは堪忍してくれっていうんだよ。女中部屋でいいから置いてくれってい うんだ」 私は一言葉を失った。 「親も兄弟もないから、行くところがないんだよ」 絵 親兄弟がない ? いったいあなたの奥さんは幾つなの、と言葉がこみ上げてくるのを私は抑え の 幸 「だって、あなただって、離婚するからには、あとあとやっていけるだけのことをしてあげるん でしよう」

5. 幸福の絵

私の胸に優しさが満ちてきた。 「大丈夫よ。そんなこと叱らない。そんなことで叱る人じゃないわ。耐二さんは : : : 」 「そうかしら : : : 」 「そうですとも。あの人は男らしい人よ。話のわかる人。しようがないなあ、もう一年、しつか り頑張れよ、で終るわ」 「そうかしら : : : 」 比呂子は納得しかねるといった風にロごもった。 「そんなに心配なら、今までどんな時に耐二さんに叱られたかいってごらん。それで判断してあ げる」 比呂子はカのない声でいった。 「叱られたことないもの : : : 叱られるようなこと、したことないから・ その言葉が私の胸を突き刺したとは知らず、比呂子は私が何もいわないので言葉をつづけた。 「私ねえ、自信がないの。医学の勉強が嫌いなのよ。私、お医者って : : : 嫌いなの」 比呂子はいった。 「お医者って、どういうわけだか、自分たち医者こそ、世の中で一番偉い人種だと思いこんでい て、それ以外の人を下目に見てるわ。私、それがいやなの、特権意識っていうの ? あれがとっ てもいやなの : : : 」

6. 幸福の絵

「うん、そうねえ : : : 」 私はいった。 「しかし私のあの年の頃には及びませんよ」 「はあ、すぐこれ。かなんねえ : : : 」 杉枝は古い友達らしくすぐに調子を合せ、それから改めていった。 「嬉しいでしよう、立子」 「うん : : : それはね : : : 」 なぜか私は素直に嬉しいとはいえないのだった。「嬉しいでしよう」といわれた途端に、私の 中で凝固するものがある。多分私にはそれはあからさまで率直すぎる言葉なのだ。その言葉を口 にすると、ロにしたことによって嬉しさが浅薄なものになってしまうような気が私にはする。 長い電話を終えて、私はべッドに横になった。もの足りなさがまだ身体の中を流れていた。ま だ眠りたくなかった。といって持って来ている本を読む気もしなかった。たとえそれが仕事の旅 であれ、旅に出たことで私はくつろいでいる。こんな時に堂本と二人でいたかった。苦しさを堂 絵本に訴えたいとは思わないが、嬉しさをひとりで受け止めることに私は馴れていなかった。 福「そうか、それはよかった」 幸 比呂子が来たといえば、おそらく堂本はいつもの、あの穏やかな声でいうだろう。 「立ちゃんもこれから、だんだんいいことが増えていくよ」

7. 幸福の絵

そういう堂本から私は目を外らした。 「奥さんは出て行かないわ」 結婚ということにはわざと触れずに私はいった。 「出て行くよ、離婚届を出した以上、もういられないよ」 「出しても出て行かないわ」 「今度は出て行く。もうこれ以上、いられないことを奴はしたんだ」 堂本はいった。堂本の妻は、勤めている履物店と同じビルの中にある洋装店の店長と関係が出 来た。店長の妻が堂本のところにねじ込んで来たことでそれが明るみに出た。店長は店の金の使 い込みをしていた。店長の妻はその使い込みの金を、堂本に弁償してほしいといってきたのだ。 私はかたくなに口を噤み、堂本の言葉を聞いていた。そうして彼の口から出る結婚という言葉 に対して、眉ひとっ動かさずに沈黙を守った。 「奥さんにはお金が必要なのよ。本当に出そうと思ってるんなら、借金してでもお金をあげれば いいんだわ。イマイマしがってないで」 それくらいのことをなぜしないのかと杉枝もいってるわよ、と口に出しかけたとき、堂本はい の 福った。 幸 「金はやった。だがもう使ってしまいやがったんだ」 「何に使ったの ? 」

8. 幸福の絵

「だってあなたは、いつも人目を怖れてるじゃないの」 「怖れてなんかいないよ。気にしてるのは君の方じゃないか」 それは豹変としかいいようのない変り方で、私は呆れて言葉を失う。 「だって : : : 私は : : : いつもあなたが気にしてるから、だから、そんな風にしなくてはいけない んだと思って : : : 」 堂本は挑むように私の言葉を遮る。 「ぼくは平気だよ。ーー」 もどかしさとも口惜しさともっかない苛立たしさでいつばいになって私はロを噤む。私は堂本 の矛盾を追及したい。しかしそれを追及しても納得いく答を得られるわけではなかった。堂本は 自分の矛盾に気がついていない。抑圧されていた地の底のエネルギーが突然火を噴くように、堂 本の抑制が限界に到達する。私には唐突だが、堂本の内部では少しも不自然ではない経緯が踏ま れているのだろう。 だが噴火が鎮まれば彼はまた、世間を怖れる小心な、それゆえ世間からは「紳士」と呼ばれて 絵いる「スター」に戻る。堂本の抑制が限界に達した時だけ、私は晴れて明るい灯の下、衆人の中 福を彼と歩けるのだ。私はそれが腹立たしかったが、しかし同時に湧きひろがる嬉しさが不満のす 幸 べてを消すのだった。

9. 幸福の絵

に包まれた。 「これであなたって人の人間の程度がよくわかったわ ! 」 嘔吐のように言葉が出て来た。 「俗物は俗物の次元でしかものが考えられないのねー その言葉を面と向って投げつけることが出来ない口惜しさに胸をわき立たせながら、私は彼女 の肺腑を突く最も痛烈な罵倒を探していた。 「堂本正、何がえらい ! たかが役者じゃないか ! 」 私は声にして吐き出した。 「私はあなたとは違うのよ ! 」 私はそのような女の夫として、二十年も暮してきた堂本を侮辱したかった。 私の家の電話が昼夜を問わず、鳴りつづけるようになったのはその頃からだ。日によっては電 話は一一時間も三時間も、一定の間隔を置いて鳴りつづけた。受話器を取ると応答がなく、かける 絵 と鳴り出した。ときどきかん高い女の声が、私の在否を訊くことがあるという。そう訊くときは の 福必ず私の留守のときで、まるでどこかで見張っていて、出かけるのを見すましてかけてくるとし か思えません、と家政婦は気味悪がった。電話の女は、留守だというと行く先を訊ぐ。旅行に出 川たというとホテルの名を訊く。こちらから名前を訊ねると、答えずに切ってしまう。

10. 幸福の絵

「結婚するの ? 」 「どうかな。とにかく、その男と一緒に行くんだろ」 だが十二月になっても彼女は堂本の家にいた。彼女と二世の恋人との関係は、十二月までに冷 えてしまったのだった。 歳末の慌しさの中を、私は札幌 ( 行った。テレビ局のインタビ = ー番組のインタビアとして、 一泊二日で四回分のインタビ = ーをビデオ取りし、その間に対談をしてタ方の飛行機で帰京する という強行スケジールである。私は絶えず疲労していた。疲労しているのになぜ、そんなに仕 事を引き受けるのか、そのわけが自分でもわからなかった。 「また出かけるのかい、たいへんだねえ」 私が旅に出ようとするたびに堂本はいった。その「たい ( んだねえ」に私は他人を感じた。堂 本は私に、もうそんなに沢山仕事をするのはおよしとはいったことがなかった。彼は私の働きぶ りを感心して見ているだけだ。彼は心配をしたことがない。私は私の仕事仲間の男友達が、何げ なく、もうやめろ、そんなに働くのは、といってくれる言葉にふいに涙ぐんだりした。 「北海道はたいへんだよ、あったかくしてお行きし 福私は堂本のそんな言葉にも、もう以前のようには嬉しく思わなくなっていた。 「帰りは何時の便だい」 「五時三十分、千歳発ー