夕刊に由利の顔写真が掲載されていたところで、背後から抱きおこした安立はろくに男の顔を見て いないのだから、同一人物かどうかわかるはずがないのだが、男が着ていた洋服のライト・・フルーの 地色だけは鮮明に覚えていた。 「鎌倉と京都で二度死ぬ奴がいるわけはないのだから : : : 」 ロの中で、安立はぶつぶっと呟いた。 「同一人物でないにきまっている。だが : : : 」 それでも、洋服の地色と死亡推定時刻だけは、早く知りたい と、安立は思った。その二点を確 認すれば、自分がしでかしたミスの始末をすつばりと諦めることができる。 昼前から、安立は何度も同じことを呟いていたのだが、とうとう辛抱しきれなくなって乱暴な手つ きでダイアルをまわしはじめた。 まわしおえた十桁の番号は、回線を、京都市五条警察署につないでくれるに違いなかった。
( まあ、むつかしいクイズを解くつもりで、根気よくやってみよう ) と、自分で自分に言いきかせながら、安立はゆっくりと砂浜を左の方向にむかって歩きだした。 海岸のはずれから石段をのぼり、小道を抜けて、昔は海面であった広大な埋めたて地を歩いて行く ーナの停泊地がある。 と、もう一度、海面になるあたりにヨット専用のマリ あのときに見たモータ 1 ポートの船型を、お・ほろげではあるが紙に書けるくらいの記憶は、安立に、 は残っているから、船型を見れば、それとわかる自信はある。 必要なら、警察手帳をち まず、所有者を訊き出して、それから先方の素性を洗いだせばいい。 らっかせればいい。 ( それにしても、まったく無駄足になるかもしれんな : : : ) とも考えた。その可能性は充分にあった。 マリーナは、これから行くところだけではなく、葉山海岸にも、その先の佐島海岸にもあるのだし ' 勝手にヨット : カ停泊しているところでは三浦方面の海浜もある。 ( 江の島にも停泊港があったはずだ ) 折角の非番をつぶして、何カ所かを訪ねまわって目撃した船型を見つけだしたところで、それで何 かが解決するという保証はどこにもないのだし、それより何より、倒れていた男が最初考えたように 一時的な失神状態であったのなら、問題は振出しにもどってしまうことになる。 あのとき、うしろから男を抱きおこしたとき、体はぐにやりという感触で、死体らしい冷たさも硬行 直も感じられなかったのを、安立ははっきりと覚えている。それに男の体にはどこにも傷がなかったカ し、出血もみとめられなかった。顔はのそきこまなかったが、毒物による吐血などがなかったのは確準 実だっこ。 ( 阿くさい興味などおこさないで、下宿で寝ころがっているのが、利ロ者のすることかもしれんそ )
る期日まで明言したセルゲイの情報なら、充分に信ずることができるはずだと馬場は考えている。そ れなら、それを利用すれば、いまからでも大同商事の寝首をかくのは可能であるに違いない。にもか かわらず、大石はいままで以上のことをするのは危険だと断言した。な・せなのか ? 「常務、それはなぜでございますか ? 」 「君は以前、セルゲイ・デニソフが、自分の情報というかデータというか、それが外部に洩れている ような気がするといっていたと、わしこ 冫いったことがあったな」 大石は、馬場の質問の答えにならないようなことを、突然いいだした。そういわれれば、馬場にも 記憶がある。もっとも、大石が何をいおうとしているのかまでは、馬場にはわからない。曖昧な表情 で頷きながらいった。 「確かにそういっておりました」 何かのかかわりでもありますかーーーという言葉は喉の奥にのみこんで、馬場は大石の口元を見つめ - 」 0 「わしもあのときは、セルゲイが妙に気をまわしすぎて、そんなふうに思っているのではないかと考 えただけだったが、いま君の話を聞かせてもらっているうちに、彼の疑惑は当っていたのではないか と気がついたのだ」 中 空 馬場は小さく叫んだ。大石が何を警戒しているのかが、馬場にもやっとわかりはじめてきた。 な 「それでは : 「察しがついたようだな、馬場君。セルゲイの好意はべっとして、われわれがこれ以上の無理はでき見 ないという理由が : : : 」
大酒呑みというのではないが、いままでにも由利が何度か前後不覚といってよいほど泥酔したこと があるのは、馬場もっきあった酒席で見たことがある。文字どおり泥酔としかいえないような状態で あったが、翌日になって由利は、それをまるで記憶していなかった。 部長は照れかくしで、覚えていないといい張っているのじゃないのか。 と、馬場だけではなく、誰もがそういって話のタネにしていたが、あるいは由利にしたら本当に記 憶を喪失していたのかもしれないのだ。そうであ 0 たとすれば、あの泥酔状態で、いくら浅瀬にしろ 川に落ちこんだとしたら、状況次第で溺死する可能性がないことはない。 馬場はそのことを大石に訊ねた。 「部長は、何かの事故にあわれたということなのでしようか ? 」 「単なる事故死であるならいいんだがね」 大石は少し苦しそうな口調でいって、一度、声をきったが、由利の遺体を引取りに行かせる馬場だ けには事情を正確に理解させておかなければならないと考えていたらしく、囁くような調子にな 0 て 「事故死なら君にまで迷惑はかけない。大阪支社にも由利君の顔を承知している者はいくらもおるの だからな」 一瞬、虚をつかれたような感じで馬場は返事をすることができず、黙ったまま大石の表情をうかが ( そんな、まさか ! ) わけもなく否定しようとしたが、馬場の予感の正しさは、苦渋にみちた大石の表情が雄弁すぎるほ どに証明していた。 っこ 0 0
いかないのは馬場にもわかっている。 「ご苦労だが、それでは頼んだよ といったあと、なぜか大石はしばらく沈黙していたが、やがてゆっくりとした調子で声をつづけた。 「君のことだから如才はあるまいが、変死となれば、警察でもいろいろと訊ねてくるだろう。その応 答は、慎重にしてくれたまえよ」 大石は念でも押すように、変死ということを強調するようにい 0 た。大石がわざわざこの部屋に馬 場を呼んだ真意は、このことをいうためのように思われた。 高瀬川の水面に死体にな 0 て浮いていたのだから変死には間違いないが、大石の言葉の = = アンス には、それだけではないものが感じられた。そのあたりが漠然としてわからないのだが、場合が場合 だけに、そのことが馬場の不安をかきたてはじめているのは事実だった。 大石の前に立ちつくしたまま、馬場はそ 一口に「変死」といってもさまざまのケースがある。 のことを考えていた。 自殺も変死に該当するが、あと何年かたてば三国物産の重役になるのは確実とみられていた由利明 体 が自殺というような馬鹿な真似をするわけがない。とすれば、事故死としか馬場には考えられないが、 わからないのは、身投げする気で飛込んでも死ねそうもない浅さの高瀬川で、由利が死んでいたとい読 うことである。 もっとも、三センチの水深があれば溺死する人間もいるということを馬場は読んだか聞いたかした 覚えがあった。
のつぎほがなくなってしまう。 相手は暫く沈黙した。 ( どうしたのだ ? ) ようやくもどってきた返事は安立が想像すらしなかったほど意外なものだった。 「それは貴方の間違いでしよう。彼女がそんなモーターポートを持っているはずがありません」 「持っているはずがないといっても : : : 私はエミリア・エルダーさんが所有者だと管理者から聞いて 電話をしているのですよ - 「しかし、あり得ないことです。彼女にそんな高価なものが買えるはずがないのです。なぜなら、彼 女はまだ若いし、私の秘書をしているだけですから、収入もかぎられています」 「秘書 ? エルダーさんは社長ではないのですか ? 私はそう聞いたのですが : 受話器の奥から笑い声が聞こえ、相手はそのままの口調でいった。 「貴方が、何か錯覚しているのは、そのことだけでも明らかです。ここの社長は私、フランク・ウ インで、エ ミリアは私の秘書です」 安立は瞬間、耳を疑った。 フランク・ウイン : 由利明と東京駅から京都駅まで同乗したという外人が、その名前であったことを思いだしながら、 安立は動揺を先方にさとられないようにいった。 「どうも私の聞き違いだったようです。もう一度、管理者に訊きなおして、本当の所有者に会うこと にしましよう。失礼しました」 「お役にたてないで残念です」 、口調でいって、フランク・ウインが受話器を台におく音が聞こえた。 ひどく愛想のいし = = プレジデント 204
もしおもわしいものでなければ、相応以上の報酬を渡して、以後は相手にしなければそれでいいのだ。 セルゲイも文句はいわないだろう。 「わかりました」 微笑をうかべながら、馬場は返事をした。 「われわれにしても、無報酬で貴方の情報を聞かせていただこうなどとは考えておりません。おそら く、ご満足いただけるだけのものを用意します」 「日本の商社マンは、理解が早すぎますね。なるほど、あなた方の依頼で新しく調査するのなら、私 も相応の経費は請求しますが、私が現在まで取材したことを提供するのならば、格別の報酬などいり ません」 「まさかそういうわけにも : : : 」 いかないだろうーー・ー自分の予想がはずれたことで軽い狼狽を感じながら、馬場はうっすらと笑って いるセルゲイの表情をながめた。 「フランク・ウインは私の特別な友人です。馬場がフランクの友人であるからには、あなたも私の友 人ですー ( 特別な友人 : : : ? ) とは、どういう意味なのか。馬場は判断に苦しんだが、そんなことを訊ねるわけにもいかなし このとき、それを訊ねなかったこ 必要もあるまいと思いなおして、馬場はべつのことをいった。 とで、フランクとセルゲイ : 、 カそれそれ仕掛けてきている罠にはまりこみはじめたことは、無論、馬 場は気がついてもいなかった。 「ミスタ ・デニソフ、そうおっしやっていただければ、私も気が楽になります。それでは率直にお 訊ねしますが、貴方はわれわれに何を望まれているのですか ? 」 130
五条署でほんの三十分ほど話しただけなのに馬場は、由利が京都についてから高瀬川で死体になっ て発見されるまでの経韓を、さらにかなりくわしく知ることができた。 もっとも、詳細にといっても、その間、由利の姿を見た者はかぎられているから、空白の時間のほ 、つが多一いといってしし 、、。それにしても、捜査には門外漢の馬場にも妙にひっかかる点があった。 ( いったほうがいいのかどうか ? ) 一瞬、馬場はためらったが、さすがに刑事は、そのためらいの表情を見のがさなかったらしく、お だやかな声でいった。 「何か気がっかれたことがあったら、教えてくれませんか。ちょっとしたことでも捜査には役に立っ のです」 由利の行動に多すぎる〃空白の時間みが、捜査活動を困難にしているのであろう。 ねんざ 「由利部長は、新幹線の車内で右手首を何かのはずみに捻挫されたようですね。宿泊票の記入はフロ から、部長さんのご家族はさぞ仰天されたことでしような ? 」 由利明の家族のことを馬場はくわしく知っているわけではないが、いっか由利自身の口から、 これから大学にやらなきゃならん倅もいるし、嫁に出さなきゃいかん娘もいる。これでなかな か気がやすまらんものだよ。 と聞かされたことはある。確かに、 ( これから家族もたいへんだろうな : : : ) 同じサラリ ーマンとして、身につまされるような気分になり、馬場は黙ったままで頷きかえした。 せがれ
窓の内側に障子と襖を二重にして外光をふせぐように仕掛けられているが、それでも朝の白い光が 部屋の中にこまかく射しこんできていた。 ( いま何時ごろだろうか : : : ) べ ッドの中でうつらうつらとしたまま、馬場はぼんやりと思った。 体をすらせて、棚の一隅にはめこまれている時計盤をすかすように見たが、室内がほの白くなって いるせいか、針と時数の夜光塗料がうすれてしまって読むことができない。 ( 仕方がないな、起きるとするか : : : ) 馬場は諦めをつけて身をおこした。窓の襖を開けば時計など見なくても、あらかた時間の見当なら つけられる。窓ぎわまで近づいて襖と障子を開いて見た外の光景は、そう早い時間というわけにはい よ、つこ 0 その窓から大橋をふたっすぎたあたりに京阪電鉄三条駅が見える。駅にむかって出勤途上らしい背 広姿が一つの流れとなって歩いていた。 か ? ) その背景には、通産局長・金丸章、ひいては衆議院予算委員長・藤井政友に対する三国物産の配慮 があるのだろうが、果してそれだけだろうか、 だが、その疑惑は現在の熊谷の脳裡からすぐに遠 のいた。 ( これで、行内における俺の立場は飛躍的に重くなるはすだ ) とだけ、熊谷は思っていた。 ふすま -4 ・
「なぜ : : : でございましようか ? 」 「そう息せききって、君までがあわをくうことはあるまい」 「とおっしやられても、そんなものがマスコミに流出したら、今度の商談を継続することが不可能に なってしまいます」 「そのときは、わしも例のリストを公表する。金額の大小はあれ、やったことは五十歩百歩の同じこ となのだ」 「抱合い心中をなさるのですか ? 」 「そんな一文にもならんことをわしがするとでも思っているのかね。君も存外に正直者だな。君を呼 ぶ前に、わしは三国物産の営業本部長に電話をかけたよ」 「今度の商談は三国物産にも魅力的だとみえて、なかなか派手に金をまきちらしておられるが、当社 と比較されてどんな具合ですかな、とね」 青木は、低いが悲鳴のような叫び声をあげた。野田は自分のカードの手の内をさらすことで、相手 どうかっ を巧妙に恫喝したのだ。凄じすぎる方法だが、大石は閉ロしたに違いない。 大石が大同商事の動向をばらすというなら、こちらもそれをすると野田は宣言しているようなもの 「大石営業本部長は、なんと答えました ? 」 「かろうじて、それはお互いさまでしようと皮肉めいた返事をしただけで、電話をきってしまった 「あとは何もいわんのですか ? 」 「ああ、何もいわん。当社のリストを見たのなら、総理大臣への政治献金額が群をぬいているのに気 208