。どうやら変死体の発見に受話器の向うが色めいているのが安立にもわか 連絡はすぐにとれた った。最近、街中ががさつになってきたといっても、それでも事故ででもなければ鎌倉市内で変死体 が発見されることなど、数年に一度あるかないかなのだ。色めいて当然だった。 そこから本署に連絡したあと、宿直の警官と現場にもどった。とにもかくにも、現場保存にあたら なければならない。 安立同様、一種の昂ぶりを感じているらしい若い警官は、あたりを見まわしながら、 「安立さん、死体なんてどこにあるんですか ? 怪訝な表情で訊ねた。 「どこにつて : 安立は愕然とした。そこが現場であるのは間違いようがない。それなのに、さっきまで横たわって いたはずの死体が消えてしまっているのだ。 「こ、こんな馬鹿な : うめくように安立はいって絶句した。死体を発見してから十分ほどしか経過していないのだ。好き で読んでいる推理小説のなかでなら、死体消失は珍しいトリックではないにしても、それが現実に突 発したとなると、安立にも説明のしようがなかった。 最前、見たときよりは、干潮につれてモーターポートが海岸からの距離を遠くしている。それに乗 っている男たちは制服の警官と安立が何かしきりにいいあっているのに興味をもったらしく、一人が キャビンの中に入って船首を岸のほうに向け、五十メートルほどの近さにまで進めてきて、そこで停 止した。どうやら、それから先は干潮で底が浅くなりすぎ、前に進むことができないという状況のよ うだった。 安立は呆然とした思いで、そのモーターポートの様子をながめていた。ポートの男たちは海岸の光
理解できないが : : : 」 それには答えずに、フランクはまるでべつのことをいいだした。皮肉ないい方をすれば、そのほう が馬場を驚かせることができるとフランクは計算しているのかもしれなかった。 「リスクということにだけかぎっていえば、ほかにもあるよ。アメリカ政府は、この商談に三国物産 が参加することを喜んでいないのだ」 「なぜ ! あまり断定的な調子でいうフランクの言葉に、妙な予感を感じながら馬場はフランクににじり寄っ こ 0 「なぜなのかは私にもわからないが、僕の友人はそういっていた。ここで無理おしをすれば、三国物 産に対するアメリカ政府の印象がわるくなるのではないかな」 脅迫でもされているような具合だ、と馬場は思った。 それにしても、フランクのいっていることには無理がある。アメリカ政府がいくら自由主義諸国圏 の盟主格であるにせよ、他国の企業のビジネスに干渉するわけがないし、第一、そうしたければ、ア メリカ政府が公式に日本政府に申入れればすな話なのだ。それをうけて産業省が三国物産に認可しな ければ、巨大商社の三国物産にしたところが動きようがない。 「そういうことではないのかね ? 「そこいらあたりまでは、私にもわかりません。とにかく、馬場、アメリカ政府は三国物産がこの商 ししよいよとなれば、外交手段によらない方法をつ融 談に参加しないことを望んでいるのは確からし、。、 剰 かってでも妨害する気でいると、私は友人から聞いているー 「外交手段によらない方法に」 想像もしていなかったフランクのいいまわしに、馬場は叫んだ。
熊谷が年内に仕上げなければならないのは、「ドレッシングーの最終操作だけだった。 年末の銀行の繁忙な支店業務を総括しながらそれをするのは容易なことではなかったが、そのあた りは東和銀行東京事務所駐在の副頭取、渡海清充が察しているらしく、異例すぎることではあるにし ても、支店長業務は渡海が担当してくれることになった。 いわば、熊谷は「ドレッシング」だけに専念すればよいという体制を、渡海はつくったことになる。 それだけ、これからの「ドレッシングーの操作はむずかしい作業だともいえた。いままでは、丸ノ 内支店を始発したさまざまな取引先の受取手形の清算分、あるいは小切手を十二の支店を通過させて、 貸出総額に対する預金総量の不足分量を帳簿の上だけで埋めることで収支のバランスをとり、理想的 な「預貸率ーを維持すればすんだが、これからはそう簡単にはすまないのだ。 健全な預貸率のままでいったら、たとえば短期的でもあれ、東和銀行が資金不足をするわけがない という結果になってしまうし、そうなれば当然、国立中央銀行に短期融資を求めて駆けこむというロ 実がなくなってしまう。 熊谷は、まず十二の支店を経由する総金額はかえないかわりに、それを細分して丸ノ内支店から送 り出した。それを数日つづけながら徐々に総金額を減額し、年末のあたりに送り出す回数をふやし、 商 金額が従来の五十。ハーセント程度になるように操作をつづけなければならないのだ。 さらに来春一月中旬までは回数もへらし、金額も最初の総金額の三十パーセント強にまでヘらして窪 いけば、何の不自然さもなく、一月末あるいは二月初旬には帳簿上の貸借表は短期資金の不足を生じ はじめる。
・、、精度の点となったら、このごろではソ連の謀報機関が製造しているもののほうが高いそうです」 「ありがとうございました。私のほうで何か判明したら、すぐにご連絡します」 「よろしくお願いします」 あまり期待もしていないらしい声で五条署の刑事はいった その日の昼すぎから安立は一人きりの捜査をはじめ、今日、三国物産に連絡するまでに、かなり確 信することができる推論を自分なりに組立てていた。 海面をゆっくりと消えていったモーターポートが死体を積みこんでいたとすれば、陸上からの視界 の広い場所で停泊するわけがないのだ。 とすれば、 そんな悠長な真似をしたら、あの時刻では死体を陸揚している場面を目撃されかねない。 逗子の小坪、葉山、佐島のマリ ーナは適当でない。三浦の魚港の場合はあるいは可能かもしれないが、 魚市場の竸り売買が早朝からはじめられるから、人眼にふれる危険が大きすぎる。 ( それならば、江の島だ ) と、安立は思った。 東京オリンビックにあわせて新設された江の島のヨットハ しハーは、弁天宮にの・ほる坂道に入らず に左折し、さらに右折した突端に整備されている。材木座海岸からならモーターポートの出力をあけ て航走すれば三十分もかかるまい。おそらく午前六時三十分前には到着したに違いなかろう。 ともすれば、日中でも人影の少ない場所なのだ。その時刻に観光客がいるはずがないし、島内の旅 館に宿泊した人たちにしても、あのあたりまで早朝の散歩をするわけがない。散歩というには距離が はなれすぎている。 それでいて、道路幅は大型車を通すのにも充分な広さだし、島内の飲食店、商店への商品運搬車を ーまで よそおえば、多少、早い時刻に島までの大橋を渡りきり、開店時刻を待っふうにヨットハー、 168
しはん 「す、すると、常務」 「そのとおりなのだ。警察からの連絡では、由利君は他殺の疑いが濃厚だといってきている」 「濃厚 : : : というのは、まだ確証がとれていないというだけのことなのですか ? 」 「まず、他殺であるのは間違いないと思っていいようだ。死亡推定時刻は今日の午前二時前後らしい 死斑はまだあらわれていないが、青酸性毒物の反応はすでに顕著に見ることができると、先方から連 絡があった」 死斑というのは、人間が死亡したのち、六時間から十二時間を経て皮膚組織にあらわれる紫紅色の 斑点だということは、戦中派で空襲の経験がある馬場の記憶に、こびりついている知識といってもい だから、午前二時前後が由利の死亡時刻ということであれば、まだ死斑があらわれていないという うなず のは容易に頷くことができる。 、刀 ( そんな時間に、部長はなぜ木屋町通など歩いていたのだろうか ? ) 東京発十三時二十四分、広島行ひかり一三五号の座席にすわってからも馬場の疑問はつづいている。 麻布六本木あたりの街路を歩いているわけではないのだ。午前二時などという時間、木屋町通を上 おいけ って御池通に出るあたりとなったら、酔客ならいざ知らずひとり歩きをする人間などほとんどいない に違いないのは、学生時代の四年間を京都ですごした馬場はよく知っていた。 体 由利が宿泊していたのは御池通を渡ってつきあたりのホテルだったから、その道を由利が歩いてい読 たこと自体には何の不思議もないのだが、翌日、早朝から重要な会議に出席するはずだった由利がそえ ばんとちょう の時刻までバーやクラブのたぐいを飲み歩いていたとは考えられないし、祇園か先斗町あたりの茶屋 ということであれば、深夜に客を帰すのに車の手配をしないというはずがない。 あが
「セルゲイからきいたことは、すぐにあなたのオフィスに連絡して、どこかで会って話をすることに するわ。まかせておいてちょうだいな。彼は私に首ったけなんだから、何でも話すにきまっている わー ラブ・ウイズ・ミイ デイプリー・ ミリアはひどく煽情的な発音でいった。そうすることで、 たけーーーというあたりを、エ 首っ 自分とセルゲイとの関係をカモフラージ = するつもりなのか。食事のあとの野田とのセックス・。フレ イを強調する気でいるのだろうか ? そのあたりは野田にも見当がっかない。 ミリア」 「とにかく、うまく頼むよ。わかっているね、エ エミリアは微妙なほほえみをうかべながら、黙ったまま野田に頷いた。 エミリアにすれば、適当な表現が浮かばぬために沈黙したまま頷いてみせたのかもしれなかったが、 その翌日の昼すぎ、鎌倉の喫茶店で三国物産の常務・大石悠紀夫、機械第二部長代行・馬場正次と向 いあっている鎌倉警察署の公安刑事・安立省吾の場合は、表現のしようがないために黙っているとい ったほうが正確だった。 ( そんなことがあるわけがない。途方もない話だ ) とは、公安刑事としては考えないにしても、大石が語った彼自身の推測については実感がわいてこ ない。推理仕立てのス。 ( イ小説のプロットでも聞かされているような気分のほうが強い。 それは安立にしても、合衆国政府が、国防上の配慮からいって、社が新型戦闘機ィーグル社 Ⅱ改を g-@国へ輸出することを嫌っているという理屈はわかる。三国間貿易方式で新鋭機を購入した対 行 国政府が、それを共産圏諸国に転売しようとしているらしいとなれば、合衆国政府が神経質になるの銀 は、当然すぎるほど当然であるといってもいい が、それにしても
をきくのは常識だろう。 秘書を同行してホテルに宿泊する客はいくらもいるだろうが、外国とは違って、女性秘書をつれて ながとうりゅう の宿泊となれば、長逗留であるだけにホテルの従業員のあいだで話題になっていると思ったほうがい いし、それを色目で見ている者もいないとはかぎらない。 おそらく、敏子は馬場にいわれたとおり京極通あたりに出かけたのだろうーー、とわかっていても、 受話器をこのままおいてしまうのはまずい。 「そうしてもらいましようか」 フロントにまわされた回線の向うからもどってきた返事は、馬場が予想していたとおりのものだっ こ 0 「馬場様の秘書の方は、買物をなさりにお出かけになられました。九時前にはおもどりになるとのご 伝言がございますー いかにも一流ホテルらしいてきばきとしたインフォメーションだったが、そんなところだろうと見 当をつけていた馬場にすれば、無駄な暇つぶしでもしたような気分たった。 冫、しオしが、馬場は一応、彼 九時ということは、敏子は夕食は外ですませてくるつもりでいるのこ違、よ、 女への指示を伝言したあと、電話をきった。 ほんとちょう ン . 先斗町あたりのクラブを飲んでさわぐのは後のことにして、馬場はます、四条繩手通を少し東に入 ウ った路地の奥にある懐石料理屋にフランクをつれこんだ。 白木の *-Ä字型のカウンターで、七客分の高椅子がおかれているだけの小ちんまりとした料理屋たが、ク 時間をきめて一時間半ずつ、昼は二度、夜は四度しか席を開かないのが自慢の店だけに、味も格別だ フ ようのない美しさは、フランクを歓ばせるはずだと馬場は見当 が、並べられる料理の見事としかいい をつけていた。 よろこ
受話器をもちなおしながら、そう思った熊谷の耳のそばで、屈託のない野田の声が聞こえはじめた が、用件といってもきわめて他愛のないものだった。 熊谷の新年の挨拶もろくに聞いていないような調子で野田がいいだしたのは、相馬景子が開いてい る銀座のクラ・フ「エルドラド」に、熊谷を誘うことであった。 オしカ今夜あたり暇をつくれないのかね ? 」 「たまには一杯やろうじゃよ、、。 熊谷にしてもイーグルⅡ改をめぐる商戦で、三国物産をねじふせた野田の上機嫌さが年を越して もつづいているらしいのがわからないわけではない。熊谷はすぐ承知した。 もっともこう誘われたからといって、大事な取引先の役員に店の支払いをさせることはできない。 「あの店では、私のほうが常務より先客ですからね。勘定のほうはまかせてくださるとおっしやるな ら、お供しますー 「そんなことはどうでも、 しいが、貴方もずいぶんと律気な人だな。それじゃあ、ごちそうになるとし ようか。あらゆる点で、あの店では貴方が先輩らしいからー 「それでは、そうさせていただきますので : 一エルドラド」で落ちあう時間をきめてから、熊谷はさり気なく挨拶して電話をきったが、内心から しゅうち わきあがってくる一種の羞恥はおさえきれなかった。 どうやら野田は、熊谷と景子との特別な関係に気がついているようであった。女には達者なだけに、 直感的に判断したのか、あるいは景子のロを割らせたのか、そのあたりまでは熊谷にもわからないが、 商 いずれにしても、そのことで野田が熊谷に不快感をいだいていないのは確かだった。不快感をいだい ているのなら、正月早々、その女がママでおさまっている店に当の熊谷を誘ったりするはずがない。壽 ( ことによると野田常務という人は : : : ) そういう趣味があるのではないか と、熊谷は思った。女の体のすみすみまでを、互いに承知し
午後の日ざしが弱まってきた鎌倉材木座の海岸の砂浜にしやがみこんでいた安立省吾もまたゆっく りと立ちあがった。 先月、三国物産に電話をして、馬場から由利明の死体に凍傷らしい痕跡があったと聞かされたあと、 安立はさまざまな仮説をたてて思考を一本にまとめあげようとしていた。その結果、いまでは干満の 関係で波うちぎわではなく水面になっているあたりに、あの日の朝、倒れていたのは三国物産の由利 部長であったろうことは確信に近くなっている。 モーターポートで江の島のヨットハ --% ハ ーまで死体をはこび、それを岸壁に横づけしていた氷菓子 運送用の中型冷凍車に積みこみ、そのまま早朝の人通りの少ない道路を走って湘南。ハイバスに入り、 大井松田のインターチェンジで東名高速の車線にすべりこんだに違いない。 ( あの種のトラックだから、スビードは出せまいが : : : ) それでいいのだ。 夏の日長のことだから明るいうちに京都についたところで、死体を高瀬川に 浮かべることはできない。普通乗用車で東名・名神を大井松田から走って、山科のインターチェンジ を過ぎ、五条口から市内に入るとしてほ・ほ九時間前後はかかる。それが冷凍トラックということにな れば、走行速度から考えると、十一時間近くにはなるはずだ。 あの日、午前六時前後に江の島を走り出したとして、大井松田のインターチェンジに入るのが七時 過ぎになったであろうから、午後六時をまわったあたりに京都市内についた計算になる。 それにしても高瀬川に死体を浮かべるにはまだ早すぎるが、交通違反さえ用心すれば、冷凍庫に横 たわっている死体が腐臭を発するはずがないのだから、運転手は安心して市内を走りまわって時間を かせげばいい。 氷菓子運送の冷凍車が走っているからといって、疑う者がいるわけがない。 あるいは、一度、大阪市内にでてから、大山崎天王山の中腹を抜ける高速道路でも経由して京都に もどったのかもしれないが、いずれにしても、死体を始末するまでの時間は充分すぎるほどあったの
「 : ・ : ・そういう予感を由利君もまた抱いていたのかもしれません。一機が七十二億で二百機、総額一 兆四千四百億円の巨大な、それも一回での取引となったら、商社マンにしても一生一度の大仕事とい っていいのです」 「それはそうでしようね。もっとも、私には一兆四千四百億などといわれても想像がっかぬ金額では ありますが : 安立は苦笑しながら大石に相槌をうった。 神奈川県警察本部どころか、関東六都県の警視庁・県警察本部の年間予算を合計しても、その金額 にはおよばないに違いないのだ。実感がもてるような数字ではなかった。 ( が、だからどうだというのたろう ? ) 安立は唇をとじて、大石のつぎの言葉を待った。 「当り前ならば、由利君は夢中になって、この商談をまとめようと張りきってしかるべきたったので 「しかるべきだった : : といわれるのは、由利部長はそうではなかった、というふうに聞こえます 社 が」 「そのとおりなのです、安立さん。私が、由利君がある予感を抱いていたのではなかろうかといった対 行 のは、そこいらあたりに気がついたからなのです。極度に反共論者である彼が、アメリカ製の新鋭戦銀 闘機が再輸出されて、共産圏諸国の軍需を強化するタネに使われると予知したら、この商談に熱心に 9 なれるはずがなかったのですー