だが、昼食もとらずに閉店時刻の午後三時ちかくまでかかって、十一月末までをチェックしおわっ たとき、熊谷も大石の言葉を信じてもよいような気分になってきた。 熊谷が一番に心配していた新規取引の六社は、確かに受取額より支払額のほうが多いが、それは昨 年中にわかっていたことで、そのほかには別段の異常さは感じられない。 そのことをべつにすれば、六社の手形はスムーズに動いている。各社とも、一度取引先に支払って から割引して買いもどし、再度、別ロの支払いにまわしたらしい支払手形が三国銀行中央支店に集中 しているが、これも六社の従来の金融取引がそこをメインにしていたのだから、疑うような筋合いで 来月末以降は、それが東和銀行丸ノ内支店に集中してくるはずなのだ ( どうやら、俺の思いすごしだったらしいな : 机の面積の三分の一を占領して山積みになっている日計表をながめながら、熊谷がそう思ったとき、 机の上におき場所がないまま床におろしておきつばなしにしていた電話機が呼出し音をたてはじめた。 熊谷はのろのろとした仕草で体をかがませて受話器をとりあげた。 「支店長に大同商事の野田常務からお電話でございます」 「ああ、すぐっないでくれたまえ」 一瞬、とまどったが、熊谷はすぐにそう指示した。実際、野田が直接に熊谷に連絡してくるなど、 異例といったほうがいいのだ。 野田あたりが直接に通話してくる相手となると、東和銀行本店でも役員だろうし、東京事務所でな ら、まず副頭取の渡海が該当するくらいだろう。大同商事の常務と東和銀行の一支店長では格という へつに卑屈感からというわけではないのだ。 ものが違いすぎる。熊谷がとまどったのは、。 ( 何の用だろうか ? ) 226
十一月の末になった頃だった。三国物産の系列企業で新たに東和銀行丸ノ内支店と取引をはじめた かげ 例の六社の当期口座に、一種の翳りがあるのに熊谷は気がついた。 先月末につづき、今月末もまた、六社とも受取手形よりは支払手形の額面のほうが上まわるような 気配があるのだ。ということは、この丸 / 内支店で判断するかぎり、各社とも収入より支払いのほう が多いと考えざるを得ない。要するに収支がつぐなわれていないということになる。 収入額と支払額の差がマイナスなのである。一言でいってしまえば、各社とも赤字を抱きこんでい るにしても、由利明はイーグルⅡ改戦闘機の国への輸出入に熱心でなかったために、ソ連諜報機 関に始末されたのかもしれないのだ。となれば、馬場がイーグルⅡ改の売込みに熱心になりすぎた ら、今度は馬場が米国諜報官の手で消されないという保証はどこにもないことになる。 ここまで考えたとき、馬場の頭脳の片すみでひらめくものがあった。 ( フランクは、それを俺に警告したのではなかったのか ? ) エージェント とすれば、フランク自身が諜報官ということになる。だが、そんな馬鹿な話があるわけがないこと にすぐ気がついて、馬場は苦笑した。 二十年前、フランクは三国物産欧米総支社に現地採用されていたのは間違いないのだ。日本独特の 商社という構造を覚えこんで、貿易会社を経営するのが目的であった。それも間違いない。事実、フ ランクは貿易商になって来日している。ちゃんと辻褄は合っているのだ。 何も疑う余地はない。かりに馬場がフランクに「君は諜報官か ? 」などと訊ねたりしたら、彼は仰 天して笑いだすだろう。馬場は、ばかばかしすぎる妄想を払いのけようとした。 200
東和銀行は、三国物産と大同商事の関連会社との新規貸出を成立させたことで、それそれの当期ロ、 座が激しくうごきだした。 十一月という時期的な関係もあって、各社の受取手形が頻繁に当座を通過し、支払手形は当座に殺 到してきた。 当期口座の動勢を把握するための日計表を見ても、その活発なうごきようがよくわかる。日計表を 読みわけてチェックするのは複雑な業務のうちだが、二十年以上の業務経験がある熊谷にすれば、そ れほどむずかしいことではない。 新規融資分の金が動きだす段階になって、熊谷は数日それをつづけたが、べつに不審なというほど の動きは感じられない。まず安心してもよい状態だった。 ただ、熊谷がちょっと気になったのは、三国物産系列中の新規取引をはじめた六社の当座を、しき球 りに三国銀行中央支店の発行した手形用紙を使った支払手形が、廻し手形の恰好で通過しているとい控 な・ うことであった。 廻し手形といえば、普通なら取引先から受け取った支払手形を自社が裏書きして、べつの取引先の見 どこかに支払代金として渡す手形のことをさしている。 とすれば、その六社はそろいもそろって、自社振出しの支払手形を、もう一度、取引先から買戻す 見えない空中戦 まわ
というよりは、おそらく額面を割引いて引きとり、それをさらに別ロへの支払いにあてているという ことになる 0 ( ずいぶんと煩雑な真似をするものだな ) と、熊谷は思ったが、そういう操作を疑ったわけではない。確かに煩雑かもしれないが、自社の支 払手形を割引いて買戻せば、金利分をべつにした利益を計上することができる。 市中金融に持ちこんで、何だかだと手数料から高金利まで差しひかれて、額面の三分の二程度の現 金しか受けとれないのを考えれば、二十。 ( ーセントくらいの割引料で買戻したほうが楽であるにきま っているのだ。 支払指定銀行が三国銀行中央支店になっているため、東和銀行丸ノ内支店を素通りしていってしま うのが残念といえばいえるにしても、それは仕方がない。 要するに、新規取引をはじめた六社の経理内容は、三国物産の営業本部長・大石悠紀夫が、 当社が支援、融資していた会社なのですから、そちらの審査基準に合わん場合は、ご遠慮なく はねつけてください。私どものほうで配慮することにしますから と、電話ロで熊谷に確言しただけに、充分な余裕があるに違いない。あのとき、熊谷は、大石が自 けんせい 分を牽制するためにいっているのかと思っていたが、なんのことはない。牽制は牽制でも、あれは商 . 社金融のうま味を手ばなしたくないという大石の本音だったかもしれない。いま、熊谷はそう考えて そう考えてから、熊谷は四、五回ほどそれらの手形の裏書人を確かめてみたが、額面が百万円単位 であるにしては、見覚えのない社名ばかりだった。 ( 額面は大きいが、ことによるとこの六社は、相当にあくどい割引をやっているのかもしれんな ) 熊谷は苦笑をうかべながら、そう思った。実際、裏書の社名のいくつかを見ればそう思わざるを得 8
年があけてからのことにしてくれないか かなり強い口調でいって、馬場は乱暴に電話をきった。馬場にすれば、 ( こうすることで手を切りたいという俺の意志を敏子が察してくれれば一番面倒がないのだが ) と勝手なことを思っていた。 まず、自分の安全を一方的に馬場が願っているのは確かだったが、それは東和銀行丸ノ内支店の支 店長席にすわっている熊谷にしても同じことだった。 もっとも熊谷の場合は、銀座のクラプ「エルドラド」のママ、相馬景子との情事をべつにすれば、 銀行内での情事関係がないだけ、馬場よりは余裕があったし、年内に果たさなければならない仕事も、 まずは順調に進行していた。 三国物産営業本部長・大石悠紀夫の紹介で新規取引をはじめた三国関連六社の経理担当者はつぎつ ぎに丸ノ内支店にあらわれ、「当店で各社それそれの受取手形・支払手形を一括して扱いたいので、 以後の振出し分を東和銀行発行の手形用紙にきりかえてもらえまいか , という熊谷の要望をいとも容 易に承諾してくれていた。 とはいっても、現在すでに振出し分の支払手形で三国銀行中央支店あるいは他行の手形用紙を使用 したものと、これもすでに他行の支店に取立依頼、あるいは割引依頼をしたものについてはどうしょ うもない。 「来年二月末以降はご希望どおりにしますから : : : 」 と、それそれの経理担当者がいったのは当然といえる。熊谷もべつに異議のある話ではない。 ( これで三月からは、当行が各社の主力銀行ときまったわけだ ) 満足感と安堵感につつまれながら熊谷はそう思うことができた。 ・ハンク 214
るわけだ。 冫をしかない。各社とも取引の もっとも、それだから「赤字決算になるだろう」ときめつけるわけこよ、 あるのは東和銀行だけではないから、べつの銀行での当期口座は黒字にな 0 ているという場合もある。 ( そういうことだろう ) と、熊谷は無理に自分を納得させた。 東和銀行自体の預貸率は、熊谷が手筈をつけた「ドレ ' シング」をつづけることで、ほぼ理想的な ( ランスをたも 0 ている。これからも、それさえ巧妙にしてのければ、熊谷の将来のポストは保証さ れているのだ。 ( 何も気にする必要はない ) 羅列されている受取手形と支払手形の数字をながめながら、熊谷は内心で呟いた。六社ともに製造 加工業種に属している。設備投資に追われて、一時的に支払分が過剰になるということも考えられる し、現に融資中込書に添付されていた財務諸表のほかに、設備投資の今後の計画を説明している書類 もつけられていた。 それより何より、三国物産営業本部が六社の営業内容の将来性を評価しているらしいのは、当の営 業本部長・大石悠紀夫がかけてきた電話からも熊谷には察しがついている。心配することは何もある 戦 中 空 そうは思ってみたが、それでも熊谷には妙にひっかかるものがあった。 六社とも東和銀行以外に取引銀行があるのは間違いないが、貸付額から考えれば、東和銀行が六社な の主力銀行、過少に判断しても準主力銀行の立場にいることもまた間違いないのだ。にもかかわらず、見 六社の受取手形は、自社の支払手形を各個に割引、再割引して買戻すことで、手形用紙を発行した三 国銀行中央支店にあらかたが集中してしまっている。 、 0
そのあたりの経緯が、熊谷にはどうもすっきりとしないのだ。 ( 近々のうちに、一度、各社の経理担当者と個別に相談しなければなるまい ) 約東手形の支払決済ばかりを担当しているのでは銀行側のうま味も少ないし、第一、「ドレッシン グ」の操作にも余計な手間をかけなければならないことになる。 、くらオンラインシステムを操作しても、預金扱いにし 六社の当期口座から消減していく金額は、し て支店間を経由させることはできないからだ。 正確にいえば、それとてもできない芸ではない。丸ノ内支店内に完全な架空口座を設定して、支払 決済金額を一度だけ、その口座を通過させることで " 預金みに粉飾し、それをさらに十二の東和銀行 各地支店を経由させれば「ドレッシングーは可能になる。だが、操作が煩雑になるのは辛抱するとし ても、それではなにぶんにも目だちすぎて、露見する怖れのほうが強い。 うち ( とにかく、来年からは、受手・支手とも当行に一括させてくれという交渉をまとめてしまわなけれ ばならんな : : : ) それそれの会社の経理担当者を丸ノ内支店まで呼びつけるために、先方の都合を訊ねるつもりにな って熊谷は電話のダイヤルをまわしはじめた。 そうしながら熊谷は、何か戸惑うような気分になっているのをぼんやりと感じていた 戸惑うような感じに支配されているのは、非番を利用して東京永田町に近い内閣公安調査室の一室 で調査室員と向いあっている安立省吾にしても同じことであった。 ( もしかしたら : : : ) という安立の漠然とした予感が的中しはじめていることに、安立は満足するというより、むしろ戸 惑いを感じていた。 20 ?
同系列企業にも貸出枠の拡大を申し入れてきているものが十社ちかくある。 つまり、拘東性預金ということを考えずに銀行側が一方的に事をすすめるつもりなら、当然のこと たカ、融資をうける側は一も二もなく増額に同意するにきまっているのだ。多少、貸付金利を高くさ れたにしても文句はいわないだろうし、その結果、東和銀行の貸出総額は飛躍的に向上することにな ーセンテージが高くなり 無論、そういう処置をとれば、熊谷が頭を痛めている預貸率は貸出額のパ すぎる。預金額の増加が追いっかぬかぎり、そのバランスが悪化するのは明らかたといっていい。 実際、熊谷がどう考えても、ここで急激に貸出額を増加させれば、預金額がそれに追いつくわけは ないのだ。とすれば、東和銀行の経営収支のバランスは、早晩、破綻をきたすのは間違いない。 丸ノ内支店の各当期口座に集ってく が、それを回避する″手品のタネみは、あることはある。 る取引先各社の受取手形、あるいは支払手形の決済時に、丸ノ内支店だけで決済処理せず、正確にい えば、決済処理は丸ノ内支店ですませるのだが、それが終了した段階で、いずれにし , ても一時的には 取引先各社の当座で停止するぶんの金額を、銀行のオンラインシステムを利用して、各支店間をつぎ つぎと経由させていくという方法がそれに該当する。 金融業界で「ドレッシング」と呼ばれているこの粉飾法を使えば、かりに一億円が十支店を経由す れば帳簿上では一時的に十億円の流動預金が生じてくることになる。 丸ノ内支店の一億円が、他の九支店にも一時的にではあるが預金されるのだから、合計十倍になる 資 融 のだ。それが二十行を経由すれば二十倍になる。 極端な話をすれば、百億円をこのように十行で操作したとすると、東和銀行の預金総量は一千億円過 増加したと帳簿上でならなる。 もっとも、財務省銀行局はこの種の″粉飾方式〃は、金融の経営実態を把握するのに支障があるた
いいのだ。 「なるほど、君のいうとおりかもしれんな : : : 」 取引先への支払手形を割引、再割引で買いもどした体裁をつくり、最後にそれを受けとった取引先 ハー・カンハニイ の一社が、三国銀行中央支店に取立依頼をした恰好にして振込む。取立依頼をした会社が遊休会社 なら、その額面の金額は三国銀行中央支店の金庫に直行する。年末に動いた小切手の場合も同じこと なのだ。 東和銀行丸ノ内支店発行の小切手に金額を記入して、三国銀行中央支店に振込めば、自動的に中央 あとは三国銀行中央支店が、該当金額を引 支店の各社の当期口座に振替えられることができる。 きおとせばいい。簡単すぎる操作であったに違いない。 おそらく、各社が三国銀行からの借入金のうち、早急に返済を迫られている分について、そういう 形をとって各社とも返済をすませたのであろう。なんのことはない、東和銀行は焦げつきかかってい たかもしれない三国銀行中央支店の不良債権を好転させるのに、利用されていただけにすぎなかった ことになってしまう。そういう熊谷の説明は渡海も了承したはずだが、渡海はさほど狼狽はみせすに 言葉をつづけた。 「だが、そうであるにしても、当行の貸出総額と預金総量が伸びたことにはかわりはないはずだ」 この瀬戸際になっても、まだそんなことをいっている渡海の真意が見当もっかず、熊谷はきよとん とした表情になって副頭取の顔を見つめた。 しオしが、預金総量となると漸増したにすぎない。増加したのは「ド 貸出総額は確かに増えたに違、よ、 レッシング」による帳簿上でだけの話なのだ。 実際の漸増分だけで考えたら、六社が東和銀行丸ノ内支店から三国銀行中央支店に振替えた金額た 236
熊谷が年内に仕上げなければならないのは、「ドレッシングーの最終操作だけだった。 年末の銀行の繁忙な支店業務を総括しながらそれをするのは容易なことではなかったが、そのあた りは東和銀行東京事務所駐在の副頭取、渡海清充が察しているらしく、異例すぎることではあるにし ても、支店長業務は渡海が担当してくれることになった。 いわば、熊谷は「ドレッシング」だけに専念すればよいという体制を、渡海はつくったことになる。 それだけ、これからの「ドレッシングーの操作はむずかしい作業だともいえた。いままでは、丸ノ 内支店を始発したさまざまな取引先の受取手形の清算分、あるいは小切手を十二の支店を通過させて、 貸出総額に対する預金総量の不足分量を帳簿の上だけで埋めることで収支のバランスをとり、理想的 な「預貸率ーを維持すればすんだが、これからはそう簡単にはすまないのだ。 健全な預貸率のままでいったら、たとえば短期的でもあれ、東和銀行が資金不足をするわけがない という結果になってしまうし、そうなれば当然、国立中央銀行に短期融資を求めて駆けこむというロ 実がなくなってしまう。 熊谷は、まず十二の支店を経由する総金額はかえないかわりに、それを細分して丸ノ内支店から送 り出した。それを数日つづけながら徐々に総金額を減額し、年末のあたりに送り出す回数をふやし、 商 金額が従来の五十。ハーセント程度になるように操作をつづけなければならないのだ。 さらに来春一月中旬までは回数もへらし、金額も最初の総金額の三十パーセント強にまでヘらして窪 いけば、何の不自然さもなく、一月末あるいは二月初旬には帳簿上の貸借表は短期資金の不足を生じ はじめる。