紙と鉛筆を使いなから、まるで劇でもしているように、手足を大きく動かしながら操君は話し てくれた。話では、一時間ほどのことだが、ヾ ノイク免許のために操君が費やした時間の多さを思 うと、私たちは、ただただ驚くばかりであった。 この話に、ろう学校のある教師は、「卒業生のことで、これにはまいったと思うようなことは、 そうはないが、操君のバイク免許の話には、脱帽だ」と言っている。 あの言語力で、バイク免許を取得した操君のことを思うと、私たちには、もっともっと出来る ことかあるのではないかと思ってしま、つ。 操君は、今、もう一つ上のバイク免許を取ることをねらっているという。一方、将棋の力を伸 ばすことも怠らないのだそうである。彼が毎日電車に乗る時間は、一一十五分ぐらいだが、その車 中の半分はバイク免許のために使い、後の半分は、将棋上達のために使っているのだという。目 標を持って生きている操君の生き生きしている瞳が美しい。この瞳は、みんなの宝だ。 「すごいね。操君 [
あれは終戦の翌年、昭和二十一年の初冬であった。 終戦後北朝鮮の新義州にいた私は、その後一年三カ月の間、現地での生活苦と闘ってやっとの 思いで日本の博多にたどりついた。父は終戦直前に応召していたので、母と五歳の弟と三人で ( 私は中学一年であった ) 、晴れて日本の土をふんだのはよいが、引揚者であるから日本に我が家 はない。母方の里である山口県の田舎に、一時身を寄せることにした。軽便鉄道、木炭バス、牛 車等を乗り継いで、山奥の祖父の家に着いた時は、思わず涙が出るほど嬉しかった。母には兄妹 週が大勢いたので ( 全員引揚者 ) 、その子供達も含めて十名以上の男女が祖父と柤母の世話になっ 置 ていた。 に運んだ。こうばしい香りと熱い湯気に、まっげの先がばわっとかすんだ。 置逃げ 立ロ勝旧 昭和七年生 ( 熊本県 ) 音楽教師
九〇円の痛み 私は思う、子供は大人を認めざるをえない。嫌いだろうが好きだろうが、尊敬の念を忘れては いない。見上げるほど大きく、知らないことが何ひとつないようにさえ感じられたあの頃、なん とかしてくれるのは、いつも父であり母であり教師であり、それは大人たちだった。 だが、偉大なる一人の大人より、無邪気でありつづける子供達によって救われることだってあ るのだ。意味のない笑顔が、親切な幾つもの言葉より、差し出された手のひらのように、大きく 温かく心を優しく包みこんでしま、つことだって : いつもと変らぬ笑い顔が、笑い声が、濡れ衣をきせられた私の心を救ってくれた。 「皆、知らん顔してくれたけど、やつばり私がドロボーって思っとるよね 放課後のグランドで半べそをかいて、学級委員のかずえちゃんに私は言った。 「誰も、そんなこと思ってない。犯人なんて思ってないよ。私だって、絶対に思ってないー 体育館の大走りに並べた赤いランドセルに手をかけてかずちゃんは言った。 「でも、先生が : : : 」 「よしつ、帰ろう。もうすぐ雨が降るよ」 黒目がちな大きな瞳が、くったくなく笑っている。 賢そうな顔が、純真な眼差しが、私を真っすぐにみていた。 私を疑ってはいない。 185
たねーとか「元気にしてたか」とか一言える人ではなかった。 正月休みはアッというまに終わり、東京に帰る日になった。帰る時も、私の「じゃあ、帰るか らねーという挨拶に、父は、「うん」と頷いただけだった。 帰京の汽車が十分くらい東京に向かって走ったあたりが田舎の家だった。小高い丘の後ろに家 はあった。汽車の窓から、「あの辺がそうだな」と思って見ていた私は、ハッとした。丘の上に、 汽車に向かって大きく手を振っている老人の姿があった。 父であった。父が私に手を振っているのだ。「丘の上で手を振るからね。と言ったわけではな い。窓から、私が見ていなければ、全く無駄なことであった。恐らく父は私が気づくか否かは、 どうでもよかったのだろう、私の乗っている汽車に手を振ることで、別離を惜しむ気持ちを表現 したかっただけなのだろう。他人には、「なんだ。つまらないとしか思えない話かも知れない。 しかし、私には、今でも、いに残っているとっておきの話である。 頑固で一人よがりの父は私には反面教師だった。「父のように生きたくない」、そう思って育っ た。でも、この気づかぬかも知れぬ我が子に手を振る父の姿は、私の父への反発がお釈迦さまの てのひらの中での反発でしかなかったことを思い知らせた。その父ももう亡くなり、七回忌も過 ぎた。誰にも言さずとっておいた「私の、いに残るとっておきの話」である。 の 丘 263
から半休にして帰ろうかと思って 明日の私の通院に同行しようかという提案なのだ。そんな心遣いに接するのは、子育てが始ま って以来、初めてのことではないのか。優しいいたわりの言葉ではあるが、あまりの唐突さに戸 惑うばかりで、残念ながらこそばゆい想いか先になって、どうにも素直になりきれない ガンと思ってもらってもいいという腫瘍で、胃の三分の二を切除してから一年半になる。体重 は九キロ、腰まわりも七センチほど縮まって、この回復の兆しは全くみえてこない。その上ここ へきてまた少しばかり体重が減って、不調への黄色の信号がともっていた。体調も疲れやすく低 血糖症候群のようで、教壇に立つのもつらく夏休み入りを指折り数えて過ごしていたほどだ。 この半年、胃の調子もいまひとつで、三分の一になった胃袋が頭の中から消えなかった。この 二週間は最悪で、二度ほど吐いたりもした。「すわ再発か」という懸念がちらついた。再発とな ればガンの増殖だから、「これで、お陀仏か . という想いが先に立つ。シュンとした。 定期検診の日に担当の医師に報告したら、それは一大事ということで、即刻エコーの検査や わか 血液検査などが行われた。その結果が、明日の午後の診察で判るのだ。再度おかしくなった時は 絆終わりと独り決めしていたから、術後にして初めて味わう心中穏やかならぬ不安があった。 婦そんなあれやこれやの経過があっただけに、悪い診断結果だったらへなへなになって、一人で は帰宅できないのではないか。ふっとそんな想いが、仕事中の子の心を駆けめぐったらしい
思いがけない場面に遭遇したのは、その時である。 何と O がバッターポックスに入って二度、三度素振りをしている姿が目に入ってきたのである。 仲間の子どもたちは、それが当然のように平然としていて、違和感が全く感じられなかった。 O は楽しげに、しかし気力をみなぎらせてバッタ 1 ポックスに構えていた。歩行も困難な彼が これからどうするのかと思うと、興味がわいてきて動けなくなった。 一球目、投手が投げた球は極端に低くて、 0 は手を出さなかったが、驚いたのは相手の動作に 少しでも手加減しているようすがまるで見られないことだった。 ターか O だからといった、だらけたしぐ 守っている子どもたちも一様に真剣そのもので、 さは少しも、つかか、つことかできなかった。 二球目、 0 が強振すると打球はサードの頭上をゆるく越えてレフト前にころがっていった。 O が打った瞬間、彼の背後から突然ひとりの子が走り出し全力で一塁をかけぬけていった。気がっ ス ク くと、二塁にいたが本塁に戻ってきて O と手をたたきあって喜んでいた。一塁上の、代りに走 ポってくれた子に向かって、 o はガッツポーズを見せ相手も嬉しそうにそれにこたえていた。 o の タ 表情は生き生きとして、満面に喜びがあふれているのが私にもわかった。そこには学校で見せた ことのない、かげりのない明るい O の素顔があった。私は、その時うけたこみあげてくる感動を る今でも忘れることはない。 あ 教師も考えおよばなかった、今ふうに表現すれば方式、そして代走ルールをいとも見事に
ソウル・メイト あるのかもしれない。そこには安らぎとか鎮魂とよばれるような、静かでおだやかな心の里があ った。 「この血液検査とエコーの二つの検査からは、どこも悪いところは診られません」 つまず 担当医師からは、晴天の診断がくだった。ちょっと石に躓いたようなものだから、気にせず、 しばらく様子を見ましようということで終局になった。生身の人間だもの、いろんなことがある のだろう。 石に躓いたことで、またひとつ、キラリと輝く「優しさ」と「ぬくもり」が掌のなかに戻って きた。神様は、手のこんだ味なやり方をするものだ。 昔から、華やかなものが好きで、ひとり遊びも、おゅうぎやバレーのまねごとをして過ごした ソウル・メイト おおやうちさちこ 大谷内幸子 昭和一〇年生 ( 千葉市 ) 主婦
桑原加代子 昭和一八年生 ( 川崎市 ) 輸入卸し販売店経営 私がとても愛している妹は一一十歳の時に結婚し、二十三歳までに女の子を二人もうけました。 しかし、好事、魔多し、親子四人が幸せに暮らしていた最中、夫を交通事故で亡くしてしまいま した。上の子はその時まだ一一歳、下の子は四カ月でした。彼女はそれから、実家に帰り、病院で 検査技師として働いて二人の子どもを育てました。上の子は奈々といいますが、高校に入学した ころから少し脱線しはじめたのです。妹とその家族にはいつも幸せでいてもらいたいと願って、 私はこの手紙を姪に書きました。 天高く、馬肥える秋となりましたが、奈々ちゃんも、淳ちゃんも、ママもお元気でご活躍のこ とと思います。 愛する姪へ 170
池内はじめ ( 八九 ) 無職 横一文字の手 小西忠彦 ( 六七 ) 無職 ある少佐殿 一戸冬彦 ( 四七 ) 大学教員 卒業文集最後の一一行 桑原加代子 ( 五一 ) 輸入卸し販売店経営 愛する姪へ 清家志保三七 ) フリーター 九〇円の痛み 山田喜彦 ( 六一 I) 無職 孤独 わたしのサンタクロースさん明尾昭吾 ( 五九 ) 地方公務員 佐々木英一 ( 六八 ) 元公務員 アナタ 川路ゆさ ( 五五 ) 会社員 天使の手 雑賀美代子 ( 四八 ) 主婦 ハツ工と父 斉藤絃子 ( 五〇 ) 主婦 アザの神様 豊永裕 ( 七〇 ) 農業水墨画指導 大往生 江口一男 ( 七一 ) 無職 お母さん 一七〇 一九七 二〇〇 一五七
卒業文集最後の二行 飛行機乗りだよ。皆に名乗れる者じゃないよ」と言い、最後に、「縁と命があったら、また会い ましよう」と、につこり笑って足早にその場を立ち去って行った。 これは半世紀前の敗戦直後に町の片すみで起こった小さな出来事であったが、同じ将校でも、 片やかっての栄光の夢が忘れられず、その影をひきずっており、片や現実の敗戦をまともに受け とめている両極端の人間の姿があった。現場に居合わせた当時まだ十七歳だった私の脳裏には、 今もこの場面の映像が焼付いており、最後に少佐が言った「縁と命があったら、また会いましょ う」という一言 ( 戦時中軍隊ではよく使われた言葉ではあるが ) とともに、今でも忘れられない 強烈な思い出として昨日のことのように思い出されるのである。 一戸冬彦 昭和一三年生 ( 東京都 ) 大学教員 " 思い出となれば、みな懐かしく美しい。と俗にいわれるが、それは過去を美化しているか、時 卒業文集最後の一一行 いちのヘ 163