て口にくわえた。火を差し出してやる。軽く会釈して火をつけ、数服うまそうに吸った。ジャケ ットのサイド・ポケットから仁丹のケースを取り出し、いかがですかと勧めてくれる。四、五粒 もらった。一一人とも黙って仁丹をしゃぶる。 わたしは今年 , ハ十二歳になる。将来のことを考えて引っ越しをするかどうかの悩みはあった。 ふと老人の心境を確かめてみたくなる。話を促すように声をかけた。 「横浜の住み心地はいかがですか ? 」 老人ははなみずきのほうへ目をやったまま静かに考え事をしているふうだったが、含み笑いを しながらわたしのほうを向く。 「それがですよ。みんなよくしてくれるので文句は一一 = ロえないんです。困りました」 わたしは驚いて老人の目を見つめた。老人は気にするふうもなく、ゆっくりと語る。 家内は横浜へ来ても新潟のときと変らなかった。最初のうちは娘のしりについて行動していた か、このごろは独りで出歩き、横浜のほうがすることがいつばいあって楽しいとうそぶく。まも なく五十歳に手の届く娘ともしよっちゅうやり合っているが、なかなか譲らないとこばしながら も顔は笑っていた。 わたしはなにも困ることはないじゃないかと思い、″よろしかったですね″と合の手を入れて 次を待つ。老人の表情が複雑に変った。言いにくそうに小声になる。 「それがですね。わたしのほうはすることがなにもなくなってしまったんですよ」 190
紙と鉛筆を使いなから、まるで劇でもしているように、手足を大きく動かしながら操君は話し てくれた。話では、一時間ほどのことだが、ヾ ノイク免許のために操君が費やした時間の多さを思 うと、私たちは、ただただ驚くばかりであった。 この話に、ろう学校のある教師は、「卒業生のことで、これにはまいったと思うようなことは、 そうはないが、操君のバイク免許の話には、脱帽だ」と言っている。 あの言語力で、バイク免許を取得した操君のことを思うと、私たちには、もっともっと出来る ことかあるのではないかと思ってしま、つ。 操君は、今、もう一つ上のバイク免許を取ることをねらっているという。一方、将棋の力を伸 ばすことも怠らないのだそうである。彼が毎日電車に乗る時間は、一一十五分ぐらいだが、その車 中の半分はバイク免許のために使い、後の半分は、将棋上達のために使っているのだという。目 標を持って生きている操君の生き生きしている瞳が美しい。この瞳は、みんなの宝だ。 「すごいね。操君 [
は私を許し受け入れてくれるのです。 ろうべん 母の在宅介護をして四年目です。当初は「中度から重度の症状でこれから失禁、徘徊・弄便等、 介護が困難になる問題行動がでてきます。余命も一般には三年位と短いです , と医師から宣告され、ビクビクと心臓の緊張を伴った介護がはじまりました。ところがどうで しよう。現在、問題行動もそれ程なく、日中動きまわるアルク ( 歩く ) ハイヤーの母も若干、精 神の安定が見られ、私さえ疲労で倒れなければ、在宅介護を続けようと思う気持ちになっている のです。公的私的な援助を受けながらこうなったら「杲けの正体ーにつき合ってみたいものです。 私は介護に当り好条件が幾つかあったのです。それはまず「人を許し受け入れ、共に楽しむ ことのトレーニングをある学習会で体験したことです。他に専業主婦だったので母に一日中密着 ちほう できたこと。母の寝室を設けられたこと。積極的に痴呆の学習を受ける環境にあったこと。娘で あるため母の幻覚・幻想の舞台となる古い記憶につきあえたこと。成長できた家族がいたこと。 近所の人々に「呆け」を隠さない勇気があったこと。マーフィーの法則を信じない性格、等々で すが、一番大事で忘れてはいけないことは、痴呆になる前の母との親子関係がとてもよかったこ にとです。 と人はみな公平に老いていきます。老いた時こそ人にやさしくされたいものです。それにはふだ のんから「人を許し受け入れ共に楽しむ」、そんな感性を持ち続けたいと思います。 149
たねーとか「元気にしてたか」とか一言える人ではなかった。 正月休みはアッというまに終わり、東京に帰る日になった。帰る時も、私の「じゃあ、帰るか らねーという挨拶に、父は、「うん」と頷いただけだった。 帰京の汽車が十分くらい東京に向かって走ったあたりが田舎の家だった。小高い丘の後ろに家 はあった。汽車の窓から、「あの辺がそうだな」と思って見ていた私は、ハッとした。丘の上に、 汽車に向かって大きく手を振っている老人の姿があった。 父であった。父が私に手を振っているのだ。「丘の上で手を振るからね。と言ったわけではな い。窓から、私が見ていなければ、全く無駄なことであった。恐らく父は私が気づくか否かは、 どうでもよかったのだろう、私の乗っている汽車に手を振ることで、別離を惜しむ気持ちを表現 したかっただけなのだろう。他人には、「なんだ。つまらないとしか思えない話かも知れない。 しかし、私には、今でも、いに残っているとっておきの話である。 頑固で一人よがりの父は私には反面教師だった。「父のように生きたくない」、そう思って育っ た。でも、この気づかぬかも知れぬ我が子に手を振る父の姿は、私の父への反発がお釈迦さまの てのひらの中での反発でしかなかったことを思い知らせた。その父ももう亡くなり、七回忌も過 ぎた。誰にも言さずとっておいた「私の、いに残るとっておきの話」である。 の 丘 263
私は恥ずかしくなりました。おじいちゃんを憎らしく思った日もありました。嫌だと思った日 もありました。今、ここで、修行された方に、心の底を見透かされた思いで、本当に恥ずかしく、 申し訳ない心になりました。私も及ばずながらも信仰させて頂いている人間です。 「有難うございました。必す、そうさせて頂きます , と心からお誓いさせて頂きました。 それから早速、明日迎えに来てくれる方に断って頂きました。そして、おじいちゃんに心から お詫びを致しました。 「おじいちゃん、かんにんしてね。おじいちゃんを他所へ預ってもらおうなんて思って。でも、 もう決しておじいちゃんを他所へはやりません。私が最後までお世話をさせてもらいます。かん にんして下さいーと叫びました。涙が溢れて来ました。私は行き届かぬ嫁でした。自分が精一杯 やっていると思い上がって、私の真心なんて、ちっともこもってはいなかったのだと、心から懺 海しました。涙がとめどなく頬を伝いました。おじいちゃんは相変らず何も言いませんでしたが、 私には仏さまに見えました。手を合わせて拝みました。 それから心をとり直し、いろいろ集めて作った荷物を片付け、夕食になりました。例によって、 半身を起こしてタ食を食べてもらいました。食事が終ると驚きました。 「ごちそうさん」 おじいちゃんの口から言葉が出たのです。今まで一度も言われなかったことを、おじいちゃん がたった一言、それだけ言ったのです。頭はかなり痴呆が進んでいるのです。それだけではあり 268
なぜ電車を一台あとにしなかったのかなどと、同じことを際限もなく思いつづけていた。 緊張がつづいて、ぎこちなくなっていたのであろう。ひざの上に乗せていたハンドバッグがコ ロリと床に落ちた。ハッとしたその時、はじめて二人の男の話し声が耳に入ってきた。細目をあ けて、急いでバッグを拾うと、また目をとじた。二人の話し声がはっきりと聞こえてくる。 「よわったよーと一人が言っている。 「おれもだよ」ともう片方の男。 「物かいいか、金がいいか」 私はいよいよ身を硬くした。小さくいひきぐらいかいた方かいいのだろうかと、真剣に田 5 った りする。 「全く、人さわがせだぜ」と一人。 「ひでえやろうだ」ともう片方。 私はひざがしらがふるえてきた。 「どうしてくれる ? 」と一人。 ン レ「母の日なんか、考え出したやろうはどこのどいつだ」 プ の の 電車は止った。二人の男は「よいしよ」とかけ声で立ち上がると、ドタドタと降りて行った。 母 , ハ本木の駅であった。 かね
愛する姪へ つくり、元気なひなどりをたくさん産んでくれることです。そしてそのパパ鳥かいつまでも長生 きしてくれることです。自分のひなどりほどかわいいものはこの世にありません。自分のひなど りを見ているだけで、えさを取ってくる苦労は一瞬のうちに忘れてしまうのです。だから、ママ 鳥は自分のかわいい二羽の子鳥もその幸せを味わってほしいのです。 奈々ちゃん、話は変りますが、よくママやおじいちゃん、おばあちゃんが「良く考えて行動し なさい」と言うと思いますが、「良く考えて行動する」というのは、実際はどうすることかわか 、り・ます・か。 おばちゃんも子どもの頃、よくそう言われましたが、何をどうしたらいいのかよくわかりませ んでした。でもいろいろな経験をした今のおばちゃんにはバッチリわかりますので、教えてあげ ましよ、つ。 簡単に言うと、よく考えて行動するということは「これをすると次はこうなる」といろいろシ ミュレーション ( 同じ状況を作ってやってみること ) することです。 たとえば奈々ちゃんが、流しにたまった汚れたお皿を見て考えます。 もし、わたしがこれを洗ったら、 ママが帰ってきて喜ぶ。 2 ・ママはこのお皿を洗わなくてもよい。 173
祖母は幼いときから働いて、学校に行くことができず、読み書きができなかった。 生涯一冊の本も読めないなんてかわいそうと思った私は、この本を手にしたとき、自分が読む ついでに朗読して、祖母にも聞かせてあげようと思いついたのがことの始まりであった。 内容は、武田家の滅亡後、御曹子の武田伊那丸という少年が、敵の手をのがれながらお家再興 のために活躍する波瀾万丈の物語である。史実と創作が混然一体となったこの小説は、読み出す と止めるのが惜しいくらいに面白くて、私も祖母もたちまちこの本のとりこになってしまったの であった。 繕い物をしたり、古着を解いて別のものに仕立て直したり、物を粗末にしない明治の人のてい ねいな針仕事ぶりを傍に見ながら、ひざっき合わせて、私は毎日何ページずつかを読み進めてい っ一」 0 話が佳境に入ると、祖母は手をとめてじっと私の顔を見つめている。そして感嘆の声をもらす のだった。 「ああびつくりした。本当に死んだのかと思ったよ」「ああ助かったのかい。よかったね あるときなどは「ちょっと待ってておくれ。おしつこがもれそうで、もうこれ以上我漫できな いから」などと言って廊下を走っていき、私をおかしがらせた。 上巻が終わり下巻にはいった。最後の方に、一人の浮浪児が母親とめぐり会う場面がある。っ つばって大人の世界で生きてきたこの子が、幼な子のように母親に抱きついていくのである。 126
二や弘が代り番こに来てるし」 「そりや矢沢さんにすれば心配よ。子供が来るからってもんじゃないわ、夫婦ですもの、矢沢さ んはエリートコースに乗ってるから大変だなとは田 5 うけど 「そうなの。矢沢ったらね、この間、春の人事異動で部長昇格の内示があったんですって。なの そば に、部長になんかなると君の傍にいる時間がますます無くなる。辞退してひらに戻してもらえれ ば少しは君の面倒もみてあげられるから、そう申告してみるつもりだってそう一一一一口うのよ、叔母さ ん」 「私には何とも一一一口えないわ、矢沢さんの胸中を思うと 熱い湯のようなものが胸にこみあげてくる。 「とんでもない話だわ、そんな事させられる訳ないでしよ。上級試験を通ってから、上下の人間 関係でもみくちゃにされた矢沢なのよ。能力もあるし上司の信頼も強いのよ。第一私がいなくな った後どうするのよ。一時的なことで迷うことはないわ。私はね、もう充分にしていただいてい るの。二十五年の結婚生活で、初めのうちこそ共働きだの受験勉強の応援だのって、一方的お仕 えの年月もあったわ。けど、病気になってからは違うの。まるで違うの。この何年かは小康状態 輪が続いていたでしよ。私ね、彼が出張するたびに連れていってもらっていたのよ。北海道や仙台、 広島、沖縄も 指 化粧気のない英子の顔に若くて病気を知らなかった頃の表情が輝くように浮かんだ。 219
すがしい気持ちで池のほとりのべンチに腰を下ろした。そして弾む息を静めるようにいつまでも みなも 水面を眺め続けた。 もず ハタバタバタ、突然音がした。左岸の茂みから不意に一羽の小鳥が飛び立った。百舌のような と驚いた。空があまりに明る その鳥は垂直に空高く舞い上った。後を追い私も空を仰いだ。ハッ く輝いていたからである。倒れてこの方、こんな空を仰いだ記憶がなかった。いや、あることさ え忘れていた。その明るい空、輝かしい空が天地一杯に広がっている。驚きは感動に変っていた。 地上に目をやった。ここも輝いていた。桜は爛漫、名も知らぬピンクの花も咲き乱れている。 「ピヨーイ、ピヨーイ、木々の間にヒョドリも鳴いていた。芝生には小首を傾げた鳩もいる。 その夜、なかなか寝つけなかった。 先日、読んだ小説『織田信長』が思い出された。寂しそうな信長が去来するのである。頬はい っしか濡れていた。「俺だけが、自分だけがなぜ」、この二年間、そればかりを唱えていた。自分 だけというが、本当にそう一一一一口えるのか、あの鳩だって木や花だって、生きている以上寂しくなる こともあるに違いない。だがあのようにすがすかしく生きている。それに引きかえ自分はどうか 自己嫌悪が募った。 妻のことが思われた。明るく振舞い続けている妻、気丈と思われている妻、だが「一番寂しい のは実は彼女ではないのかーとフト思ったのである。 寂しげな信長がまた去来した。 かし 132