たねーとか「元気にしてたか」とか一言える人ではなかった。 正月休みはアッというまに終わり、東京に帰る日になった。帰る時も、私の「じゃあ、帰るか らねーという挨拶に、父は、「うん」と頷いただけだった。 帰京の汽車が十分くらい東京に向かって走ったあたりが田舎の家だった。小高い丘の後ろに家 はあった。汽車の窓から、「あの辺がそうだな」と思って見ていた私は、ハッとした。丘の上に、 汽車に向かって大きく手を振っている老人の姿があった。 父であった。父が私に手を振っているのだ。「丘の上で手を振るからね。と言ったわけではな い。窓から、私が見ていなければ、全く無駄なことであった。恐らく父は私が気づくか否かは、 どうでもよかったのだろう、私の乗っている汽車に手を振ることで、別離を惜しむ気持ちを表現 したかっただけなのだろう。他人には、「なんだ。つまらないとしか思えない話かも知れない。 しかし、私には、今でも、いに残っているとっておきの話である。 頑固で一人よがりの父は私には反面教師だった。「父のように生きたくない」、そう思って育っ た。でも、この気づかぬかも知れぬ我が子に手を振る父の姿は、私の父への反発がお釈迦さまの てのひらの中での反発でしかなかったことを思い知らせた。その父ももう亡くなり、七回忌も過 ぎた。誰にも言さずとっておいた「私の、いに残るとっておきの話」である。 の 丘 263
「床屋のおじいさんに、『喉仏が右へ寄っている』と、言われた」 と、鏡をのぞいている。 このおじいさんは、一年近く入院していたが、元気になってまた店を手伝うようになり、昔か らの馴染客の散髪を始めた。そして夫の喉の異状に気がついたのだ。 言われてみるとその通りなので、早速かかりつけの医院に行き、事の次第を話した。すぐにレ ントゲン撮影をした結果は、甲状線の癌だった。そこでは、 「少し異状があるようですが、大きい病院で精密検査を受けて、早目に治療しましよう」と、東 京の大学病院を紹介してくれた。 数日後に上京して検査を受けたら、ここでも病名に変りはなかった。そこで東京に世帯をもっ ている娘と相談して、癌末期の治療をよくやってくれるという病院に移ることにした。 新しい病院で再々度の検査をおこなった。わかったことは、癌の位置が手術のむずかしい場所 だということ。そこで放射線治療をすることになった。放射線と言われて、本人も自分の病名に 気付き、病院のべットで眠れない夜をあかした。病状や治療については、娘の夫が対応してくれ たので、私も娘も病名にはふれないですんだ。 五週間の放射線で、病人は後遺症に参り、私も疲れ果てた。治療の結果は効果のないままに終 った。本人には多少、希望的な説明があって退院ということになった。 退院後四十日目の検査では、病状はより進んでいると言われた。そんな中でも放射線の外傷だ 142
池内はじめ 明治三八年生 ( 東京都 ) 無職 年号が昭和になって二年程たっていた。私共一家は、内地から関東州 ( 旧満州 ) の大連に移っ て来て、ようやく住みなれようとしていた頃である。 そこは日本の東京にも匹敵するような、美しい国際都市であったが、それでもその頃の冬は雪 が多く、戸外の冷気は格別身にしみた。 夫は活動写真が好きだった。当時はもちろんテレビなんかなかったので、多忙な公務のあいま 手を縫 0 て、映画館や劇場に出かけるのを楽しみにしていたが、独りでは行かない、必ず一家総出 字であった。 文 それは雪のちらっく寒い日であった。家ごとに日の丸の旗が出されて、道行く人の防寒服も新 しいようだったから、多分正月であったと思う。 横一文字の手 だいれん 157
雪女と母 窮地を脱してホットした私は、命拾いをしたような安堵と同時に、恐布におののいたくやしさ と、一難のがれた喜びともっかない涙があふれて来たのでした。そして私は一目散に山を馳け下 りて家へ帰りました。それにしても悪魔に襲われた茶山の一時を機知とも頓知ともっかない奇策 で身を護ることができて、今あらためて手柄話のように思い出されるのです。 あれから五十年がたちましたが、私の二十五歳の夏の出来事でした。今まで誰にも話さなかっ た、これは私にとってまさにとっておきの話、「南無妙法蓮華経」に助けられた話です。 私の故郷は北海道の小樽です。雪国です。 降っては解け、降っては解けて、なかなか積もらない東京の雪を、どうしても雪とは思えませ んでした。本当の雪は、故郷の海や山や町に降りしきるあの雪が、雪だと、いまもかたくなに思 雪女と母 小林美代 大正一五年生 ( 東京都 ) 主婦 101
跡 奇 まさより 尾崎正若 大正一二年生 ( 熊本県 ) 大学名誉教授 はるみ 平成四年の春三月十九日の夕刻、「につほん丸ーは晴海埠頭を出発した。小笠原群島は父島ま で鯨を求め、現れた鯨の写真を撮るホエールウォッチング・クルーズである。暮色迫る東京湾か らの美しい夜景を右舷に眺め、久し振りの船旅に期待は私の胸を海のように満たして余りあった。 その晩は、低気圧が太平洋上を移動しているとの気象情報があり、妙なうねりを感じつつも、 「鯨に関する比較動物学」や「写真の撮り方ーなどの講義を楽しく受けた。船はゆっくりと南下 し、東京から千キロの航程を、約三十時間もかけて、二十一日の朝、父島の二見湾内に入った。 港内のプイに繋留された本船から艀に乗り移り、数分で島に上陸した。 午前中マイクロバスで島内を一巡した。緯度は沖縄と同じくらいだが、気候はハワイを思わせ、 バイア、モンキーバナナを 湿度は低く、木陰に入ると涼しかった。島には亜熱帯植物の椰子、 奇跡
空はどんより曇っていた。 自分がどんな服装をしていて、そのころ長かった髪をどんなふうに束ねていたか、季節は春だ ったのか、それとも秋だったのか全く思い出せない。 しかし、灰色の雲にすつほりと覆われた、新校舎の二階の教室の雰囲気を、今も、この先も忘 れることはないだろう。 開けっ放した窓から差し込む日ざしも遮られ、夕暮れのように薄暗い午後の教室がそこにあっ 十八年前、私は小学四年生だった。 天井を埋め尽くす幾つもの蛍光灯が、連鎖反応を起こしたように、バチ。ハチパチバチと音をた , 」 0 九〇円の痛み 清家志保 昭和四二年生 ( 東京都 ) フリーター 178
石田波郷 と と印刷した暑中見舞をくれたことがある。その時、私にとって紺の彼方とは何であろうかと考 それはわが少年期、すなわち小学校期ではないかと、自問自答したことを、今思い起 生えた。 とうしょ 先 こしている。紺色といっても小学校を三度も変った。これは親の職業の関係である。島嶼部の村 7 や町、山村という多様な経験は友人の幅を広めることとなり、クラス会などは多岐にわたるので ひでほ 西原榮穗 大正一〇年生 ( 三原市 ) 前教育委員会委員長 十年ぐらい前であったか、東京の友人が紺色の朝顔のカットのかたわらに、 朝顔の紺の彼方の月日かな ララ先生のこと
昭和六十三年は静かに暮れていた。 師走も近い十一月のある夜、赴任先の名古屋で私は突然倒れた。救急車で病院に担ぎ込まれた。 脳内出血であった。 しばらくは死線をさまよったようである。とぎれとぎれの意識の下で死が間近にあるのを感じ ていた。法えはなかった。「こんなにアッケないものか」、そんなことを思っていた。歩んだ歳月 にが短くも、また長くも思えた。多くのことが一度に思い出された。遠い少年の日の風景があり、 やけすさ 果つい先日の風景もあった。懸命に生きた時も、自棄で荒んだこともあった。それらの景色が浮か の んでは消えた。一つ気がかりがあった。妻子の姿が見えないことである。「会えないまま死ぬか もしれない」、急にそんな気がした。航空自衛官であった私はその時、妻子を千葉に残して愛知 まど 惑いの果てに おび 永野章 昭和一六年生 ( 東京都 ) 航空自衛官 129
祖母の手の中 は少なく、いつもとはまるでトーンの違う不思議な雰囲気でした。そんな仲間達の肩ごしにツツ リで知られるの顔がありました。ふてくされたように苦笑しているのゆがんだロもと。そ 卩こ中司と一緒にさよならをしているんだ。あの顔 んなを目にしながら「は今、消えていくしイド は泣いている顔だ」と私は思いました。今でもそう思っています。 ヨハンナ・スピリのいうように、やはり別れる時が一番美しいのかも知れません。そしてまた、 人間のだれもが心の奥にやさしさを秘めているのだなと思わずにはいられません。 中田雅子 昭和一一年生 ( 東京都 ) 主婦 小学校 , ハ年生のときのことである。学校から帰宅すると、私はまず一冊の本を手にして、茶の 間で縫い物をしている柤母の傍らにすわった。 私は祖母に『神州天馬峡』を読んで聞かせていたのだった。 祖母の手の中 125
三、四年前、臨死体験という言葉が、ちょっとした流行語になったことがありました。テレビ でも、それをとり上げ、三日連続の番組がくまれました。私は、そのことに関心がなか 0 たので、 見るつもりはありませんでしたが、その次の時間帯に見たい番組がありました。片づけものをし ていたので、うつかり時間を見過ごさないように、早目にテレビのスイッチを入れました。用を していても、テレビの音声や色が、断片的に、目や耳には入 0 て来ます。「アアきわもの的な取 験りあっかいではないなア、と感じたことを思い出します。そして、ある時点で、私は、テレビの 死画面に釘づけになってしまったのです。 る振り返れば、四十余年前の十二月二十八日、昼過ぎ、私は、台所で奮闘していました。 あ 今日で夫の会社はお休みになります。だから、今日の夕方までに、お正月料理の荒ごなしをし ある臨死体験 西澤みさを 大正一一一年生 ( 東京都 ) 主婦