人生も半ばにある私は、この幼女に向かって尋ねた。 「ええーと、誰と遊ぶの . 私は思わず身を乗り出していたようだった。上半身を少し丸めていたに違いない。またもや私 は、ドキンとした。彼女はゆっくりと右手を上げながら、その手で、私を指さすのである。とっ さの事なので、私はドギマギした。どのように言ったらよいのか、私は返答に困った。 ここで初めて、私は彼女が間違いでなく、私の家を目あてに訪ねてきたことを知った。知った とは言っても見知らぬ来客に、私は半信半疑である。 腑に落ちない。見知らぬ幼女が、どうして私を訪ねたのか。私の家を知っているのか。私の住 む団地は、二千世帯もある。人口にして、五千人以上はいるに違いない。団地は、 いくつかの棟 に分かれている。一つの棟には、六十から百の世帯が入居しており、私の棟には、百世帯が住ん でいる。どこの棟も同じような造りだ。大人でさえ慣れないうちは、間違えて他人のドアを開け てしまうことがある。私にもそんな苦い経験かあった。だから、初めて見る幼女が、私と同じよ うな失敗をしたのではないかと思ったのだ。 だが、彼女は私に「遊ば」と誘っている。どうやら、彼女のほうで私を知っているらしい。私 ただ は確認するように、右の人差し指で自分の顔を指さし、「このばくと : と聞き質した。幼女 ひとみ ろうばい は黒い瞳をきらきらと輝かせて、首を大きく、こくんと縦に振った。私は狼狽した。どう答え たらよいのか、言葉を失った。
っちくれ 紅の彩りも、クリームの香も知らず、赤貧の譜に諦観の舞いを舞いながら土塊のようになって 大地に還った母が今更ながらなっかしく思い出されるのです。 あの暮しの中で最高の望みだったろうに。なぜもっと、やさしく、ていねいに教えてやれなか ざんき ったのだろうか。悔いがさいなむ極限の自虐と慙愧。「おっかあ。すまなかったよう。許してく んろなあ」。 どうこく ひとこま しやがん 歴程に刻んだ少年時のあの一齣が初老となった今、蓬髪赭顔の母の面とともに慟哭を伴ってよ みがえってきます。 ひょごと 日夜毎イロハニホへト唱えいぬ 母の遺影に香華手向けて 枯れないハラ 山本裕 昭和六年生 ( 清水市 ) 元小学校教師 242
とこか気品が残っている。淡いべージュの軽 のある顔ではない。艶のある白髪は乱れていない。。 そうなカーデガンも、首に掛けたペンダントも好みがよい。中肉中背でどことなく繊細さが感じ られる。杖を用いなければ串」者に見えない。無為に過ごして平気でおれる人とは思えない。文学 でもたしなむ人だろうか、とふとわたしは自分の精神の飢えを蘇らせた。ほくは八十八歳だから 悪いことはできない、安心して散歩しませんか。わたしは慌てた。老齢でいて男性から無視され ないことは嬉しい。全身が緊張して、衰えた内臓が活発になる。だがわたしはとまどった。行き ましよう、と彼はうながす。大丈夫ですか、お疲れになりませんか、わたしは廩みがないかなと しゅんじゅん 逡巡もしたが障害者は例外だと割り切った。傍の戸口から庭へおりた。わたしは手をとられて 散歩道へ出た。丈の高い木が繁って道に陰をつくっている。斜光が射して繁みの奥は明るんでい る。彼の歩調に揃えて歩いていると、僕はあなたの環境を知りたい、僕はあなたに好感をよせて いる、あなたは立派だ、あなたのサーカムスタンスを聞かずにいられない。彼は椎の実のような 黒い瞳を、かがやかせたリスのような子供つほい顔付きで、わたしの反応を待っている。寄り添 ってくるような気配があった。わたしは手を振り離さなかったが一歩間隔をひろくした。人恋し そうな老人には優しくなろうと思う。サーカムスタンスなんて、そんな一言葉知らないわ、何とな のく純情な老青年みたいね、あなたは、婆さんでも女性と手をつないで歩くのは楽しいですか。あ 吊あ、楽しいね、柔らかな手だ、と老人は言って、わたしの手を強く握りしめた。体まで抱きたい 宙 素振りだった。杖が邪魔であった。八十八歳の性は最早本能ではない。意思によってどのように 237
九〇円の痛み 私は思う、子供は大人を認めざるをえない。嫌いだろうが好きだろうが、尊敬の念を忘れては いない。見上げるほど大きく、知らないことが何ひとつないようにさえ感じられたあの頃、なん とかしてくれるのは、いつも父であり母であり教師であり、それは大人たちだった。 だが、偉大なる一人の大人より、無邪気でありつづける子供達によって救われることだってあ るのだ。意味のない笑顔が、親切な幾つもの言葉より、差し出された手のひらのように、大きく 温かく心を優しく包みこんでしま、つことだって : いつもと変らぬ笑い顔が、笑い声が、濡れ衣をきせられた私の心を救ってくれた。 「皆、知らん顔してくれたけど、やつばり私がドロボーって思っとるよね 放課後のグランドで半べそをかいて、学級委員のかずえちゃんに私は言った。 「誰も、そんなこと思ってない。犯人なんて思ってないよ。私だって、絶対に思ってないー 体育館の大走りに並べた赤いランドセルに手をかけてかずちゃんは言った。 「でも、先生が : : : 」 「よしつ、帰ろう。もうすぐ雨が降るよ」 黒目がちな大きな瞳が、くったくなく笑っている。 賢そうな顔が、純真な眼差しが、私を真っすぐにみていた。 私を疑ってはいない。 185
わが家も例外ではなく極貧下にありました。猫の額ほどの小作の野良では生活の糧にもならず、 父母は日雇い、山仕事、土方などなど、わが家の仕事を従とし、生活の糧を外に求め細々と暮し ていたのでした。このような環境下で母が抱いた小さな向学心は春が過ぎ、また多忙な夏がきて も細々と続きました。一日の労苦に疲れ果てた母が、その疲労も冊わず、吊りランプの下で私の 読方の本に頭脳を傾けるのでした。 とっとっ イ、ロ、 ト。紙上に這わせる節くれ立った指が一字一字をなぞりながら訥訥 ほ - つはっ と声にする。汗くさい蓬髪を傾け、赤銅色の面を紅潮させながら一生懸命に挑む母でした。 しんし でも、その真摯さに反比例してその覚えの疎いこと。そして忘れ去ることの、なんと早いこと。 がんぜ 頑是ない腕白盛りの私には、この母の心を知るにはあまりにも幼なかったのです。 あまりの疎さに業をにやし、声を荒らげる私に母は寂しそうに言う 「めんどうくさい力しー のでした。その面には悲しさがいつばい漂っていました。その様子に子ども、いにもハッとさせら れ、渋々とまた続けるのでした。 このよ、つなことが、しばらく続きました。 でも前述のように覚えるより忘れ去るほうが多かったのです。無理もありません。年も年だし、 きそれに日中精いつばいの労働の後のことです。そして、ますます度合を深める貧窮に母の手習い あは途絶えてしまったのでした。 そうです。一字も一読も自分のものにせず、終止符を打ってしまったのです。 ごう 241
てしまおう。ちょうど子供達もおひる寝だし、プロバンガス二ロではとても間に合いません。今 では、知る人も少ない豆炭と練炭を、三つの七輪におこしました。下の子は十一カ月ですから、 余り関係ないけれど夫と上の子は、私の料理をとてもよろこんでくれます。まして、一年に一度 のお正月料理、また新しいメニューも加えようなどと、たのしくはり切っていたのです。ところ が、頭痛がしてきました。 「風邪かしら ? 今日ばかりは、そんなこといっていられない、がんばらなければ 余りの痛さにセデスをのみました。はき気がしてきました。心はあせるのですが、これでは仕 事になりません。時計をみて、とにかく三十分だけ休もうと、七輪の火を弱め、居間のこたつに 入り、横になりました。このいそかしい時に、本当に困ってしまう・ : 。頭のなかで、これからの 用事を考え、どうしてこんなに頭が痛いのかしら ? と思う。アッ一酸化中毒 " 】戸をあけなけ れば " 】おき上がろうとしたのですが、すでに、手も足も、まったく動きません。上を向いて寝 ていたのですが、横に寝がえりをうつことも出来ないのです。目をあけて、きたない天井をみな がら、あー、これで死ぬのだ・ : と思いました。不思議と、布くも悲しくもありませんでした。 気がつくと、頭の痛いのも、はき気もなくなっています。頭がポーツとして、むしろ平和な気 分です。美しい花園が見えます。今まで見たこともないような、美しい花園です。強いて言えば、 公園の花壇でなく、モネの絵を、もっとキラキラと輝かせたような感じです。美しい黄色の上に、 けしの花のような花々が咲きみだれ、輝かしいのに、不思議と静かな感じです。「これが天国か
野蛮人の如く思われているのはまことに残念なことである。それがそのまま日本の歴史の一頁と して子孫に伝承してゆくのは忍び難いことである。 私共は小学校時代「日本人は物のあわれを知る民族である」あるいは「日本は東海の君子国と 言われる」と教えられ、日本人として生れたことを誇りとして育った。 日清・日露の戦争においては海にも陸にも多くの美談がある。だが第一一次大戦には美談はほと んど聞かれない。日本の、いはなくなってしまったのかと心配する人が少くないと思う。 近代戦においては、戦いの様相が一変し、美談の生れにくくなったことは事実である。だが第 二次大戦においても世に伝えたいほどの話は幾つもあることを私は知っている。だが長期にわた る戦争が敗戦に終わり、各艦の幹部がほとんど戦死してしまったので、そうした話を証言出来る 人がいなくなってしまったのはまことに残念である。 我が国は四季の変化がはっきりし、四季おりおりの花が咲き、鳥がうたう美しい風土に恵まれ ている。この中で生をうけて来た日本人は本来心の美ヒい優しい民族であるということを内外の 人々によく知ってもらいたいと思う。そしてその事実を歴史の上に残し、子々孫々に伝承してゆ きたいと希求してやまない。 116
二や弘が代り番こに来てるし」 「そりや矢沢さんにすれば心配よ。子供が来るからってもんじゃないわ、夫婦ですもの、矢沢さ んはエリートコースに乗ってるから大変だなとは田 5 うけど 「そうなの。矢沢ったらね、この間、春の人事異動で部長昇格の内示があったんですって。なの そば に、部長になんかなると君の傍にいる時間がますます無くなる。辞退してひらに戻してもらえれ ば少しは君の面倒もみてあげられるから、そう申告してみるつもりだってそう一一一一口うのよ、叔母さ ん」 「私には何とも一一一口えないわ、矢沢さんの胸中を思うと 熱い湯のようなものが胸にこみあげてくる。 「とんでもない話だわ、そんな事させられる訳ないでしよ。上級試験を通ってから、上下の人間 関係でもみくちゃにされた矢沢なのよ。能力もあるし上司の信頼も強いのよ。第一私がいなくな った後どうするのよ。一時的なことで迷うことはないわ。私はね、もう充分にしていただいてい るの。二十五年の結婚生活で、初めのうちこそ共働きだの受験勉強の応援だのって、一方的お仕 えの年月もあったわ。けど、病気になってからは違うの。まるで違うの。この何年かは小康状態 輪が続いていたでしよ。私ね、彼が出張するたびに連れていってもらっていたのよ。北海道や仙台、 広島、沖縄も 指 化粧気のない英子の顔に若くて病気を知らなかった頃の表情が輝くように浮かんだ。 219
ソウル・メイト 人か、心の広い人でしよう。また、ライバル意識があるからこそ、上達もするので、ストレスみ たいなものも、多過ぎれば体をこわすが、全然なくてもふぬけになってしまいます。なかなか、 心底から安心してとけこめないものがあり、私は自分が年をとり、今さら何になれるという程の 者ではないと知った時、つくづく、心の許せる親友が欲しいと思いました。 私はそれからは、ただ友欲しさのサークルショッピングが始まりました。しかし、年をとって からの友人は、そう簡単には出来ませんでした。まして、ダンスの世界では、なおさらです。人 恋しさに、身をすり寄せるように、こちらから親しんでいっても、相手にとっては、わずらわし いだけだったかもしれません。 ーティ 1 も行かなくなり、家の中で過ごすことが 私は、次第に人ぎらいに陥っていきました。パ 多くなって、昔、子どもの頃遊んだおゅうぎごっこやバレーごっこのように、華やかな服を着て、 ひとりで部屋で、ワルツやタンゴ、ルンバを踊る、そんな女になってしまいました。 華やかな服といっても、自分で縫ったダンスウェアーやドレスです。好きな布地を買って来て は、好きな服を作り、鏡のある部屋でそれを身に付けてひとりで舞うのです。 年のはなれた兄や姉からみればひとりつ子のような存在で、誰もいっしょに遊んでもらえなか った幼い頃の思い出が年とった今の私に重なります。 ひとまわり以上も年上の夫とは再婚で、ストレス解消のため健康のために始めたダンスでした が、それがかえって逆効果にもなっていたようです。私達夫婦には子供はいません。今さら、孫
、つ人よ 母「あっ。私なのかい。そうだったね、フミ子は親孝行だね。泣けるよ」 水戸の大空襲の晩に小さかった姉一一人の手を両手に引き、私をおんぶして市内を戦火から逃げ 命が助かったのです。私も無力となった母の命に まわった母。私達姉妹はかすり傷ひとつなく、 添って介護をしてきました。母の頭の中は水戸に帰りたい気持ちでいつばいです。ですから母が 水戸に帰りたい気分の時に、私が佛にいないと母は一人で外に出てしまうかも知れません。その ゝつも密着介護をしなければなりません。今のところ、母 ため私は母の言動を受け止めるのに、し はいかい は一人で外に出ても、家の周囲を見まわし、掃除したりして、徘徊しないで戻ってきますので、とて も助かってます。このようなやり取りを一日中しております。 母「フミ子、夜になったね。水戸に帰るの、忘れてしまったよ。今晩泊めてくれるかい、どこ で寝るのかな」 私「眠くなったのね、さあ、こっちょ、ふとんは湯たんほ入ってるわよ」 母「すまないね、ありがとうよ」 と私「パジャマ着ましようね、さあ」 の夜になると母は赤ちゃんです。着がえをさせ、心理的に安心させる言葉がけをして、朝までぐ っすり寝てほしいのです。日中、太陽の下の二人での買物・散歩ー積極的徘徊と呼んでいるーの 147