ひょうじようねんか 氷上燃火のたとえ しようそくむしよう 「往生ーする浄土とは、「生即無生」の悟りを得る世界であると述べていま す。「生」は、私どもの生まれを いい、私どもの生まれの世界は、生滅の世界 です。生と滅、生じたり滅したり、滅したり生じたりする、その生滅の滅を 略すと「生 [ となります。ところが、西方極楽浄土は悟りの世界ですから、 それは生滅を超えていますので、不生不滅というのです。生ぜず滅せずでし よう。不生不滅の不生のことを「無生」とも申します。生滅の滅を削り、不 生不滅の不滅を削れば、生と無生になる。すなわち、生がそのまま無生であ る。煩悩がそのまま菩提であり、生死がそのまま涅槃であるという表現があ るが、これと同じです。ですから、往生浄土とは私どもの人間の迷いの世界 に生まれるような、そういう生まれ方ではないという生まれ方なのです。 我々の生滅の世界を超えた世界が不生不滅でしよう。このことばに則して しいますと、我々が人間として迷いの世界に生まれるような、そういう生ま れ方でない生まれ方、それを「無生の生ーとゝ しいます。浄土は無生の生のも のである、と。いわゆる不生不滅の世界で、そういう世界に生まれるのだと いう意味です。 194
例えば、極楽浄土のしつらいの中で、仏国土は、広大にして無辺際である。 つまり、悟りの世界ですから際限 我々の尺度からははかることができない がないというのです。阿弥陀仏そのものも光明無量、寿命無量ですから。 ところが、私ども人間のものの考え方は、すべて限量のあるものでないと しくらで計れるかとい一つ、量りに 理解できません。限量があるというのは、ゝ 際限があることが私どもの知識なのです。ところがはかれない世界は私ども には理解できません。そのはかれない世界が悟りの世界であり、浄上なので す。 また、阿弥陀仏をとりまく菩薩たちとはどういう人たちかというと、いっ駐 る も浄土から迷いの世界に飛び出していって、仏法の行なわれていない世界ー す ーそれを無仏の国土というーーー仏のいない世界に行って、仏さまのごとき利 の 他の働きをして帰るのです。ですから、先生 ( 阿弥陀仏 ) のふるまいをして、 大 また浄土に戻ってきて阿弥陀仏につかえる。これも立派な阿弥陀仏の本願力、鸞 仏力のしからしめるところです。 そういうことが全部、三厳二十九種のしつらいの中に出ている。それをす 第 べてしばってみると、曇鸞大師は、「清浄の一法句」に収まるというのです。 「清浄」は清らか、二法句」は一つの真理のことばです。清浄という一つの
つまり真実という悟りの世界を明らかにするために、「それは浄土教を通さ なければ、私どもにとって真実の世界は明らかにならない。そういう意味で 〈浄土真実〉をあらわすところの教と行と証だ」と、このように『教行信証』 の題名をつけたのです。阿弥陀仏の本願力によって、我々が真実の世界に帰 入して、その真実の世界に生きる、真実の私になるということ、それを親鸞 。日らかにしようとしたのです。 親鸞の九十年の生涯は、大乗菩薩道の菩薩と同じように、求道の道でした。 道を求めるあり方というのは、ことばを換えていうと、真実を求めていくあ り方です、親鸞にとっては、阿弥陀仏の本願力、すなわち念仏によることが 真実の道を歩むことなのでした。 私はかねがね仏教を学んでまいりまして、気づいたことがあります。それ 、えと′、 は、仏道というものを会得するためには、「道あり。、つまり「悟りの世界あ涯 の り」と信すると同時に、りという道に向かって「歩んでいく人」、あるいは 「すでに歩み終わった人の存在する」ことを信すること、すなわち「道ありと 信ずると同時に、得道の人ありと信する」、この二つがなければ、完全な信心章 だいはつねはんぎよう 第 ではないということです。このことは親鸞も、『教行信証』の中で大般涅槃経 に説かれているところを引用しています。
その「念仏一つ」とは、私自身にとっての教えですよということを、後序 ( 一 番最後の序文 ) の中で、親鸞はこのように述べています。 ごこうゆい 「弥陀の五劫思惟の願をよく / \ 案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけ り」、親鸞私自身のために五劫思惟の本願を立てられ、凡夫の私が救われて仏 となる教えを説いたのだと。「親鸞一人がため。と、これがここでいう「群生 海 ( 衆生海 ) ーの意味であろうと思います。 親鸞にとっての海の世界 親鸞は「海」ということばをよく使いますので、私は以前、親鸞の著作の 親鸞が上陸したと思われる地に建つ碑 中から海ということばを拾ってみましたら、おもしろいことに、阿弥陀さま の側を海にたとえるのと、凡夫の私どもの方を海にたとえるのと、二通りに 分けられることがわかりました。つまり、りの世界を海にたとえるのと、 」レ一・一凡夫 0 迷」 0 世界 0 方を海」たとえる 0 と、同じ「海、と〔う = とばでも、 全く正反対の迷いと悟りをあらわしている。 どうして、百八十度全く違った、仏の世界と我々迷いの人間の世界とを、 同じことばであらわしているのか。仏さまの世界をたとえるとき、弥陀の本 だいひがんせん 願海、本願一乗海、真実信心海、大悲の願船ーーこれは海を渡る船です 73 「第 5 章ト・・・・釈尊が世に出た目的
雲中供養菩薩極楽浄上。て妙なる音声を奏て る仏たち国宝、京都・平等院蔵 2 つまり、浄土に往生するのも、浄土に生まれて仏となって、再びこの迷い の世界に戻って有縁の人々を救うという利他の働き ( 還相 ) も、みな阿弥陀如 来の本願力によるのです。 また、極楽浄土とは、前にも申しましたように、悟りそのものの世界であ る。りそのものの世界に向かうこと、つまり往相とは、りの世界が私ど もに働いて、私をして浄土に向かわせているということです。妙声荘厳も前 に申しましたが、浄土にしつらえられているその妙なる音声は、実は私の耳 いつも働いている。だから、私はおのすと「浄土」といっ たり、「南無阿弥陀仏といったりしているけれども、それはそのまま私を浄 土に向かわせている働きなのだ。私が浄土に向かうことは、すでに、浄土そ のものが悟りの働きをあらわして、私を浄土に向かわせているのだ。それが 「往相廻向」です。 浄土は本願力によって、如来の願心によってしつらえられており、その本 願力の恵み、すなわち働きによって、私が浄土へ行けるのだと、親鸞は述べ ております。 今度は、浄土に生まれて仏となるやいなや、すぐさまとってかえして有縁 の人々を救う利他の働きに従事する。それも安楽浄土が、悟りの世界ですか 188
実」のことばを使っています。真理を悟ったということは真実を体得した人、 真実を求めて真実に生きる人になったということです。 仏は真実の世界に生きつつ、真実の世界に生きるようにと多くの人々を誘 いく、そういう人を求道者というのです。自分だけが真実を体得してい くのではなく、周りの人、多くの人々にも同じ真実の世界に人るようにと、 仏涅槃 ( ガンダーラ浮彫 ) ペシャーワル博物 館蔵 誘引していく働きをする人が仏であり、道を求める人なのです。 仏教では万人成仏といって、すべての人々が仏になることができます。し たがって、仏というのは、みな真実に生きる人ですから、「真実の自己を実現 した」、あるいは「本来の自己を実現した人」をさして仏というのです。真実 に生きる私になったところをさして、りをひらいた、あるいは仏になった しいます。 おうじよう 浄土教では、西方の阿弥陀仏の浄上に往生、生まれることによって仏にな る 成 ること、つまり、浄土において本来の私、真実の自己になるということが往 1 生成仏ということなのてす。 そのためには、すでに真実の世界に生き、真実を悟った先輩のことばに耳章 第 を傾けていくならば、必す真実の世界に生き、真実を悟る仏となることがで きる。こんなやさしいことはない。自分の先輩の言を聞くことによって、先 じようぶつ
ゆがぎようゆいしきは のを、よくよく味わいますと、天親菩薩は、瑜伽行唯識派の学者で、私ども の感覚でとらえられるような形ある浄土を説明していることがわかります。 ところが、私どもは、形あるものをとらえると、もうそれは単なる形でし かないと考え、その本質を見失いがちです。そこで、天親菩薩がなぜ私ども の視覚に訴えるような浄土のしつらいを説明しているのかという、その本を 抑えた曇鸞大師は、「空」の思想によって、それは単なる形ではなく、この真 実の世界、悟りの世界が私どもを悟りの世界、真実の世界に帰入させるため に、我々にわかるような手立て ( 方法 ) をもうけたのが、浄土のしつらいであ るととらえたのです。 したがって、天親菩薩の形による説き方は、もっと奥を知っておかなけれる す 明 ばならないと、曇鸞は説くのです。「極楽浄土には、八功徳水の池があって、 説 の 浄土に生まれると飲めや歌えができるという、楽しみのために浄土に生まれ るようでは、真に生まれることはできないのだ」ということを明らかにする物 ために、浄土は真実そのものの働きの世界であることを、「空」の立場で、理 章 一一ⅱ白に明らかにしょ一つとしたのてす 第 親鸞は、天親菩薩の心と曇鸞大師の心の両方をつかんで、正信偈の中で両 者の徳を讃えています。
このように、仏さまは見捨てないというのです。相手がそっぱを向いたカ ら、もうそれでいいというのではなくて、見捨てずに幾生に渡っても、そな たを救いましよう、と。 これが利他の働きなのです。仏さまは、相手を救うこと、衆生を救いの相 手として、自分と同じ悟りをひらくために、 いかなる手段を講じても働きか ける。それを利他というのです。ですから仏は利他行を実践の内容とし、救 いとるまであきらめないのです。 これまで申しましたように、浄土は悟りの世界であり、浄土は悟りそのも のの働きが形をあらわしたものですから、西方浄土の働きがこちらに働いて いる。私に対して、真理の世界、真実の世界に気づかしめるため、いろいろ な手立てを設けて、さまざまな働きをあらわして働いている。そういう働き に、こちらが何かのきっかけで出会ったときに、そうかとうなずかされるの です。こちらがちっとも気かっかず、あいにく受信機が故障していると、真 実の世界からの呼び声が聞こえないのです。 たまたまさるべきご縁があって、ともどもに正信偈を学ぶことができるの は、前世からのお育てがあったからだと受け取ることが、大乗経典の心に沿 うことたろうと思います。
おんりんゅげじもん 出ていく園林遊戯地門です。だからいつまでも浄土で百味の飲食を食べて、 もうよそへは行くまいなどというどころか、仏さまは一時も安んずることな 、衆生済度のために浄土から迷いの世界に飛び出してきて、働きづめに救 済活動をなし続ける。こういう活動を遊化ーーー遊び教化する という字で 示しているのです。 せいぜい浄土に行く前は、遊びたいことは大いに遊んでおく方が悔いは残 らないかもしれません。しかし浄土に生まれると、人のため世のためになす ことが無上の楽しみになる。これが仏さまの境涯でしよう。生死の世界、す なわち迷いの世界にいるときは、迷いの世界にいながら、浄土の仏さまの働 きを恋い慕うことが人間らしくていいかもしれません。 親鸞は、天親菩薩の五功徳門にそって、後半の句を述べていますが、よく よく後半の六句を味わってみると、初めの「功徳の大宝海に帰人すれば、必 す大会衆の数に入ることを獲」とは、次のようなことです。 げんやく りやく 信心を得た人がこの世において得る利益、つまり現益 ( 現世の利益 ) である、 正定聚不退転のくらいに住するーーもう仏になるに間違いのない位につかせ ていただく ことを、ここではいっているのです。 それから「蓮華蔵世界に至ることを得れば」から、「生死の薗に人りて応化 ひやくみおんじき 152
東国 ~ 向かう親鸞一行 ( 「親鸞聖人伝絵」 ) ドと呼び、私ども衆生の世界を海にたとえるのは、五濁悪時の群生海、生死の むみようかい 野国分寺を後にする重文、三重・専修寺蔵 苦海、無明海、愛欲の広海などがそうです。 仏典にもよりどころがあり、およそ親鸞は、海の働きを大きく二つに分け どんらん ています。これは中国の曇鸞大師の書物から引いたもので、海の働きには、 どういっかんみ ふしゆくしがい 同一鹹味の徳と、不宿死骸の徳と、二つあるというのです。 わかりやすく しいますと、たくさんの川の水が太平洋に入り込むと、私は 富士川だ、私は利根川だといって、みずからの出身の川水を主張することは できません。太平洋に注ぎ入ると、太平洋の海と同じ塩辛さになってしまう。 利根川の水だ、富士川の水だといって、出身の川水を主張できなくなる。っ 0 圦、、一にまり仏さまの世界と〔う海に人り込むと、す〈て一味平等の悟りの世界に人 り込むことになる。一味平等という海の働きによって、どの川水もみな同し 塩辛さになるからです。 さらに、海の働きとして、猫の死骸とか材木の切れ端とか、そういう汚い ものを、必ず岸辺に打ち上げてしまう。だから海はいつも清浄ならしめる働 しようじようしんじっ きをもっている。つまり仏さまの悟りの世界は、我々をして清浄真実のもの たらしめる、そういう働きをもっている。これこそ親鸞が阿弥陀さまのり の世界を海にたとえたよりどころです。 ′」、つ力し