妙好人浅原才一の銅像島根・温泉津福田 徳郎撮影 本物を見極める智慧の光 みようこうにん 模範とすべき念仏の人というと、すぐ「妙好人」ということばを考えると ふんだりけ 思います。「最勝人」とか、「分陀利華ーっまり泥中に汚されすに咲き続ける 白蓮華とか、希有人など、最勝人、妙好人、上上人というように、仏典では すぐれた念仏の人を表現しています。 江戸時代末期に、純粋な念仏生活と自己犠牲的な生き方の無名の人々の信 仰篤い姿を描いたものを、『妙好人伝』 ( 全六篇十二巻 ) にまとめて、この人々 を以後、妙好人というようにいっております。『妙好人伝』に載らなかったそ の後の人たちは妙好人でないのかということになりますが、では新たに『妙 好人伝』を編集して、続々々ぐらいにしてくれればいいのです。ついでに私 ひとりぐらい人れてもよさそうだと思わなくもないでしようが、しかし自分 で名乗ったのでは妙好人とはいえないでしよう。後日、人々から「あの人は 立派な人たった」といわれるものなのです。 あさはらさいち 妙好人といわれる人は、自分で法語を残しています。浅原才市さん ( 島根の 下駄造りの職人で信仰の篤い人 ) ですら、いろいろ書いています。もっとも全 く書き残さなくても、立派なお念仏の人と仰がれる人がいます。
また、そういう立派な念仏者を「広大勝解の者ーといいますのは、無量寿 経の別訳である『如来会』 ( 下 ) というお経に、「広大勝解者」と出ておりま にんちゅう す。さらに観無量寿経の中に、「人中の分陀利華ーということばがあるのを、 親鸞は「分陀利華ーと使っております。これは「プンダリーカ」の音写で、 白蓮華のことです。 そして「邪見橋慢悪衆生」というのは、無量寿経の下巻の終わりに、三毒 段・五悪段という箇所があります。そこにはお互い人間が道徳を守らず、仏 法を聞くこともなく、ただおのが欲望のままに日ぐらしをして生涯を送る人々 がいかに多いかということを、三毒の煩悩と、五つの悪徳を繰り返して、仏 法に耳を傾けないで生涯を送る、そういう人のあり方を具体的に挙げて、長々 と説いています。 それが終わり、「だから世の人々よ、阿弥陀仏の本願の教えを信ずべきです よーと、お釈迦さまのすすめが最後に説かれるのです。そのおすすめの中に、 「もし、この経を聞かば、信楽受持すること、難の中の難、この難に過ぎ たるはなけん という経文があります。その経文を親鸞は、「信楽受持甚以難難中之難無過 斯と、ほばそのまま詩句の形に採用しているのです。
浄土真宗開祖親鸞。『教行信証』を骨子とし、意味のある詩句であろうということは容易に想像がつくと思われます。 ろく 阿弥陀仏の浄土に往生する念仏の教えを説い 今から五二〇年ぐらい前、文明五年 ( 一四七一一 l) のことですが、それまで『六 じらいさん ぜんどう て、絶対他力の救いを強調した。親鸞滅後、 時礼讃』という中国の善導大師 ( 六一三—六八〇 ) の書物を、読誦聖典としてい 彼の廟所を中心に教団が形成された。徳川家 康の宗教政策により本願寺は東西二派に分け たのが、それに代わって、蓮如上人は正信偈を朝晩拝読するようにしました。 られ、その他高田派・興正派・木辺派・出雲 正信偈が終わると、続いて親鸞の和讃と念仏をそえて、多くの人々が読誦す 路派・山元派・誠照寺派・三門徒派・仏光寺 るようにしました。そういう習慣が今日まで浄土真宗の人々の中に伝わり、 派があり、真宗十派といわれる。 すべてとは申しませんが、多くの方々が、朝は正信偈を拝読することが習わ しとなっています。 きみようむりようじゅによらい 年配の方で、私は小さいときに「帰命無量寿如来」で育ちましたといわれ る方がよくおります。 なもふかしぎこう 正信偈は「帰命無量寿如来南無不可思議光、で始まります。幼いときか らこの「帰命無量寿如来、をあげないと朝ご飯が食べられない、学校に行け涯 ないというような仏教生活を、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さ んからしつけられた、その思い出かおとなになっても消え失せないというこ とをいわれます。 しいまし 正信偈、すなわち正信念仏偈は『教行信証』の中の詩句であるとゝ もんるいげ たが、正信偈によく似たものに「文類偈」というのがあります。これは親鸞 親鸞画像 ( 熊皮の御影 ) 重文、奈良国立博物 館蔵 れんによ
専修念仏法然上人がひろめたもので、もっ時礼讃』とか、いろいろ善導大師の書物がありますが、それを筆写しました。 みようごう ばら南無阿弥陀仏の名号すなわち念仏を称え 自ら写すということが実は勉強になるわけで、今日、私どもはコピーの機械 ること。専称と同し。 に頼ってしまいがちですが、やはり自分の手で写し取っていくことが、そこ に思索も加わり、大変勉強になるのです。 しゆっちゅう 今日、親鸞がその当時勉強された観無量寿経と阿弥陀経の集注 ( 書物の注 釈を集めたもの ) が国宝として残されています。いかにも細かい字で経文のわ きに、善導の注釈文がこまめに書き込まれており、我々は勉強のあとを知る ことができます。 せんちゃく 法然画像 ( 足疋の征影、 卩 ' 〉莫本 ) 鎌倉・光明寺法然上人門下にいるときに、親鸞は、師の主著『選択集』 ( 正式には『選択 ほんがんねんぶっしゅう 本願念仏集』 ) を書写することが許されました。つまり上足 ( 高弟 ) のお弟子 せんじゅ の中に加えられたのです。ところでその当時、専修念仏の教えというものは、 なんと ほくれい 出家仏教の人々から批判を受けていました。南都、北嶺、つまり比叡山とか 奈良の興福寺などから非難されて、とうとう法然は四国に、親鸞は越後の国 府 ( 新潟県上越市 ) に流罪になります ( 建永の法難 ) 。 流罪になり越後に下りますが、そのとき ( 承元元年〔一二〇七〕 ) 親鸞は三十 五歳でした。その後 ( 建暦元年〔一二一 一〕 ) 三十九歳になって許されたのです ぐとく が、そのときに「愚禿親鸞ーと名乗りました。これからどうしようかと考え
サンチーの仏塔 ( 第一塔 ) 旱丁 みとく 味得と修行 さて、大乗経典はどうしてできたかといし ゝますと、大乗仏教の人々の間で は、最初は仏塔信仰から興ったと、戦後の研究ではそうなっています。紀元 前後頃に、お釈迦さまの遺骨をまつり、今でいえばパゴダですが、そういう 【仏塔がインドの各地にありました。そこに、お釈迦さまの生涯や徳を慕う出 家の人も在家の人も、皆集まったのです。もちろんほかにお寺もありますが、 特にチェーティヤとかストウーパと呼ぶ仏塔を崇拝する人々が中心となって、 大乗仏教が興りました。お釈迦さまの徳を、仏舎利を中心として礼拝すること きえ は、お釈迦さまに対する帰依のあらわれであり、仏塔崇拝は今日の仏教徒も かわりありません。こうしてお釈迦さまに対する信心の生活に賛同する出家 ・者たちも、在家の人々のグループに加わっていったのです。 . 第専門家が加わり、出家の専門家によって、新しい経典が編集されます。そ 一、の中には信心による悟りの道を、新しい経典によって回復するわけですから、 あごんぎよう しろいろな 阿含経の中に出てくるほんの短いことばを、数百年後の人々は、ゝ 角度からドラマチックに拡充して経典を編纂したのです。 ですから、法華経にしろ華厳経にしろ無量寿経にしろ、お釈迦さまの心は 第い 130
阿弥陀仏を讃える経典が編集されていきます。 もとをたどるとお釈迦さまのいう、真実の世界にともに生きる人になりま しようということです。それをもっとわかりやすく大乗仏教の人々は、阿弥 陀仏という仏を立てることによって明らかにしようとしたのです。 このようにお釈迦さまの説法を、私どもがさらに身近に聞くことができる ようにと、大乗仏教の人々は努力してくれた。つまり大乗仏教の人々は、お 互いがともに手を携えて、求道の道ーー仏への道、すなわち仏道を歩んだの です。このようなことから、みなお互いをポーディサットヴァ ( bodh 一 sa ( ( va 、 音写して菩薩 ) と名乗っています。菩薩とは求道者のことなのです。 したがって、なぜ大乗仏教で、そのほか、大日如来とかお薬師さまとか、 たくさんの仏さまが立てられたか、その意味がおわかりになったかと思いま す。 47 「第 3 章ト・・・・仏に成るということ
往生浄土の念仏の教えにほかならなかった。このように、「仏教は念仏である」 ということを明かそうとしたのが、七高僧の心であります。 日蓮 ( 一二二二、・八一 l) 日蓮宗の開祖。房州月 しかも、その七高僧の心を親鸞みずからも自分の仏教観としましたから、 湊に生まれ、十六歳で出家。鎌倉・京畿 ( 特に 正信偈においてもそのような主旨を貫こうとします。 比叡山 ) の諸宗に学び、帰郷ののち、独自の法 きこん 私どもの機根っまり能力に応じた教えが阿弥陀如来の本願の教えであると 華経観による仏教体系を樹立する。また正法 による国作りを目的として『立正安国論』を草 いうのは、中国の高僧も口をきわめていっています。およそ仏教にはたくさ にんにんかくかく して幕府に示したが、流罪に処せられるなど、 んの教えがありますが、その教えは、それぞれ人々各々の能力に応して説か 数度にわたる法難を経験。晩年、身延山に人 り、著作や書簡の執筆、弟子の養成に努める。れた教えが集められて一切経となっていますから、「このお経こそがこの私の 日蓮画像 ( 波木井の御影 ) 身延・久遠寺蔵 教えである」とうけとる、これが仏教本来の主旨なのです。 以上のような点を念頭に置きますと、ここでいう「仏教は念仏である」と いう七高僧の方々や親鸞の心がわかると思います。 もちろん、これは他の宗派の開祖の方々の表明にも通します。例えば道元 しかんたざ 禅師なら、「仏教は只管打坐である」、ただひたすら坐禅に打ち込むことであ部 る。あるいは日蓮上人なら、「仏教は題目である」という心と同じなのです。
実」のことばを使っています。真理を悟ったということは真実を体得した人、 真実を求めて真実に生きる人になったということです。 仏は真実の世界に生きつつ、真実の世界に生きるようにと多くの人々を誘 いく、そういう人を求道者というのです。自分だけが真実を体得してい くのではなく、周りの人、多くの人々にも同じ真実の世界に人るようにと、 仏涅槃 ( ガンダーラ浮彫 ) ペシャーワル博物 館蔵 誘引していく働きをする人が仏であり、道を求める人なのです。 仏教では万人成仏といって、すべての人々が仏になることができます。し たがって、仏というのは、みな真実に生きる人ですから、「真実の自己を実現 した」、あるいは「本来の自己を実現した人」をさして仏というのです。真実 に生きる私になったところをさして、りをひらいた、あるいは仏になった しいます。 おうじよう 浄土教では、西方の阿弥陀仏の浄上に往生、生まれることによって仏にな る 成 ること、つまり、浄土において本来の私、真実の自己になるということが往 1 生成仏ということなのてす。 そのためには、すでに真実の世界に生き、真実を悟った先輩のことばに耳章 第 を傾けていくならば、必す真実の世界に生き、真実を悟る仏となることがで きる。こんなやさしいことはない。自分の先輩の言を聞くことによって、先 じようぶつ
教行信証 ( 古写本 ) 真仏上人筆三書写本の釈 ) がはさまれています。ですからこれは立派な仏典です。 内の一つて、尊信書写と伝えられるもの重 ぼんぶ 文、三重・専修寺蔵 凡夫が仏になる道 要ー宿 『教行信証』は全部で六巻からできていますが、内容は、前五巻には全部「顕 ~ ー 4 心浄土真実」という文字が書かれています ( 第五巻に「顕浄土真仏上、とあるが、 上一夭支 ~ 「顕浄土真実仏・仏土」 0 意あを。 = 0 「顕浄土真実」と」う文字が前五巻 ー・ル海靨・れに出ているということについてはこれから申しますが、『教行信証』が、「凡 ー物夫が仏になる道」を明らかにした書であることを語 0 ているのです。それま 。でも出家仏教の人々は、「教え」 ( 教 ) と「実践」 ( 行 ) によって「仏となる」 →一 ( ネ光癶一 ( 証 ) という出家者の「教・行・証」というものを説いていました。それが凡 夫が仏になる「教・行・証」ということになると、それは阿弥陀仏の智慧、 顋ー ) 4 信えニ ( あるいは阿弥陀仏の本願力による「教え」 ( 教 ) であり、「実践」 ( 行 ) であり、 「仏の磨り ( 証 ) なのたということになります。そういう立場から『教行信証』 を制作されたのです。悟りという真実の世界に我々が帰入し、真実という世 半色月ナル專仡 当界の悟りを得るためには、阿弥陀仏の浄土に往生することを通して、凡夫が 仏になることができるのです。「顕浄土真実」ということばをそういう意味で 親鸞は使っているのです。
雲中供養菩薩極楽浄上。て妙なる音声を奏て る仏たち国宝、京都・平等院蔵 2 つまり、浄土に往生するのも、浄土に生まれて仏となって、再びこの迷い の世界に戻って有縁の人々を救うという利他の働き ( 還相 ) も、みな阿弥陀如 来の本願力によるのです。 また、極楽浄土とは、前にも申しましたように、悟りそのものの世界であ る。りそのものの世界に向かうこと、つまり往相とは、りの世界が私ど もに働いて、私をして浄土に向かわせているということです。妙声荘厳も前 に申しましたが、浄土にしつらえられているその妙なる音声は、実は私の耳 いつも働いている。だから、私はおのすと「浄土」といっ たり、「南無阿弥陀仏といったりしているけれども、それはそのまま私を浄 土に向かわせている働きなのだ。私が浄土に向かうことは、すでに、浄土そ のものが悟りの働きをあらわして、私を浄土に向かわせているのだ。それが 「往相廻向」です。 浄土は本願力によって、如来の願心によってしつらえられており、その本 願力の恵み、すなわち働きによって、私が浄土へ行けるのだと、親鸞は述べ ております。 今度は、浄土に生まれて仏となるやいなや、すぐさまとってかえして有縁 の人々を救う利他の働きに従事する。それも安楽浄土が、悟りの世界ですか 188