廻向 - みる会図書館


検索対象: 教行信証入門(正信偈・上)
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1. 教行信証入門(正信偈・上)

て還相廻向を説きます。第二十二願が還相廻向の願です。しかも還相とは浄 土に生まれてこの世に戻り、どういう衆生済度の働きをするかということに 関しては、『浄土論註』の菩薩荘厳四種ーー浄土の菩薩たちの特性四種ーーーを 出しているだけです。親鸞は証巻において具体的に、だれだれがこういう衆 生済度の働きをする、などとは一つも記していないのです。 ですから今日、還相廻向をもっと具体的にはっきりすべきであるといわれ る向きもある。特に信後還相といって、信心を得た後の働きはみな還相廻向 第二十二願 なのだというような説明になってくると、例えば、あの人は還相廻向の菩薩 たとい、われ仏となるをえんとき、他方の仏土 くきよう しゅ だといっていたとしたら、いやになってしまうでしよう。ですから、親鸞は のもろもろの菩薩衆、わが国に来生せば、究竟 して必す、一生補処に至らしめん。 ( ただし ) そそういうことを考えたのでしよう。浄土の菩薩の ( 経論に出てくる ) 還相廻向 味 の本願、自在に他 ( 益 ) せんとするところの、衆は述べているが、我々のあり方としての還相廻向は、何も示していない 意 しやく 生のためのゆえに、弘誓の鎧を被り、徳本を積 方では、親鸞は法然上人をあたかも還相の菩薩として讃えておられる。けれ土 し、一切を度脱し、諸仏の国に遊んで、菩薩の ども、『教行信証』の中で具体的に還相廻向ということは説いていないのです。生 行を修し、十方のもろもろの仏・如来を供養し、 ′ ) うじゃ 恒沙の無量の衆生を開化して、無上正真の道に 『教行信証』の教巻の最初に、「謹んで浄土真宗を案するに、二種の廻向あ あんりゅう 章 ( 安 ) 立せしめ、常倫の ( 菩薩 ) に超出して、諸地 しゅじゅう り。一つには往相、二つには還相なり、と説いている。往相の説明はずっと の行現前し、普賢の徳を修習せんものを除く。 第 続けて述べられ、証巻の終わりになって、還相廻向とはこうだと述べている もし、しからすんば、正覚を取らじ。 ( 仏説無量寿経上岩波文庫 ) のです。ということは、往相はそのまま還相になるからです。浄土に往って る らいしよう

2. 教行信証入門(正信偈・上)

ら、その悟りの働きが、私を迷いの世界に趣かせる。それを「還相廻向と いうのです。還るすがたも皆本願力の恵みによるのです。 このように、親鸞は「往還の廻向は他力に由る」と、往相も還相も二つな がら阿弥陀如来の本願力によるという。そうすると、私が仏になるのも本願 しゅじようさいど 力だし、仏になって衆生済度の利他の働きに従事することができるのも本願 力だというのです。 正定の因はただ信心なり 親鸞は後半の六句の初めに「往還廻向由他カーー往還の廻向は他力に由る」 と、まずポンと出しています。往くも還るも他カぞ、と。そして「正定之因 唯信心ーーー正定の因は唯、信心なり」といわれる。「正定の因 , とは、親鸞が 意 そんごうしんぞうめいもん 『尊号真像銘文』の中で、「正定の因といふは、かならす無上涅槃のさとりを土 生 ひらくたねとまふす也」と説いており、「まさしく定まる」 ( 正定 ) とは、私が 往 浄土に生まれて、仏となる原因は信心一つだというのです。浄土の教えは、 章 お釈迦さま以来、信心による悟りの道を回復したものです。信心によって 第 る、その道を浄土の教えが回復をしているということです。 この場合の「信心」も、実は阿弥陀如来の願心、真実心が本願の心となっ

3. 教行信証入門(正信偈・上)

他カ廻向の信心 天親菩薩を讃える句の前半がまだ少し残っていますので続けます。すでに 申しましたように、天親菩薩の願心は、親鸞にとっての真実信心を明らかに しました。それは天親菩薩のことばからいうと、「一心」に収まる。この「一 さんいち つの心」ということについて、親鸞は『教行信証』の信巻の中で、三一問答 という問答を起こしています。無量寿経の第十八願に「至心信楽欲生」とい う、他カ廻向の信心を明かす願文がありますが、「至心信楽欲生」の三つの信 心のすがた ( 特相 ) は、真ん中の信楽に収まる。その信楽の一心というのは、 実は天親菩薩の一心にほかならない。だから、三と一、つまり、無量寿経の 十八願の「至心信楽欲生、の三心 ( 三信 ) のうちの中心は信楽の一心であり、 の 信楽の一心は天親菩薩のいう一心である。その一心はまたひっくり返してい薩 じくん うと、他カ廻向の真実の信心のことなのだということを、ことばの上、字訓 ほうぎ じゃく 釈で説明すると同時に、今度は阿弥陀仏の心にそって解釈をするという法義 しやく 章 釈との二通りの解釈によって、三心即一心ということを明らかにしています。 第 ですから、親鸞は真実信心というものが、他カ廻向のものであって、私ど もが信心、信心というのは、そういう如来の真実心が私に至り届いて私の信

4. 教行信証入門(正信偈・上)

3 おうげん 本願力による往還ニ廻向 曇鸞大師の徳を讃える後半の六句に入ります。 おうげんねこうゆたりき えこ、つ 往還廻向由他力「往還の廻向は他力に由る。 しようじようしいんゆいしんじん ただ 正定之因唯信心正定の因は唯、信心なり。 わくぜんぼんぶしんじんぼっ 惑染凡夫信心発惑染の凡夫、信心発すれば、 しようちしようじそくねはん 証知生死即涅槃生死即涅槃なりと証知せしむ。 ひっしむりようこうみようど 必至無量光明土必ず無量光明土に発れば、 第 + 三章往生浄上の意味 かなら 3 ほっ 186

5. 教行信証入門(正信偈・上)

い特性から成り立っているので、三厳二十九種の荘厳といいます。 ごねんもんごくどくもん 五念門と五功徳門 その荘厳を天親菩薩は詳しく讃えて、そういうすばらしい阿弥陀仏の浄土 に、私も、また私以外の多くの人々も、ともに浄土に往生しましようよ。そ のためにはどのようにしたらできるかという、浄土往生の行を述べたところ が「五念門」というところです。 散文 ( 長行 ) のところで、天親菩薩は五念門の行について述べております。 、わい↓画 ) それはどういう行かというと、礼拝、讃嘆、作願、観察、廻向です。ます阿 弥陀仏に礼拝をする。それから阿弥陀仏の徳を讃える。その場合は阿弥陀仏 の名前を称えることが阿弥陀仏を讃える讃嘆にあたります。作願は、願を成 すのですから、浄土に往生したいという願いを起こすことです。それから、 そういうすばらしい種々のしつらいに対して観察をする。そして以上の礼拝、 ぎよう・」う 讃嘆、作願、観察というもろもろの行業を積んだ功徳を、浄土に生まれるた めに自分だけではなくて、世の多くの人々にも振り向けて、自他ともに浄土 に往生しましようというのが最後の廻向ということばになります。廻向とは ぎよう 礼拝、讃嘆、作願、観察という行を積んだその功徳を、みんなに振り向けて 142

6. 教行信証入門(正信偈・上)

また利他の働きに従事することができるということで、それが願生偈のすべ てになっています。 親鸞の解釈 ところが、『浄土論』を注釈した曇鸞大師の『浄土論註』を読んだ親鸞は、 みすから『浄土論』と『浄土論註』の心というものを通して、次のように把 握しました。 だれでもが五念門を修して、五功徳門を得るのではなく、すでに我々に代 わって、法蔵菩薩が五念門を修せられて、その結果を我々に「信心」とし、 また「称名」として、廻向してくださっているのだ。だから、我々が浄土に往 生する因も果もすべて他カ廻向のものである。 このことを天親菩薩は述べようとしたのだと、『浄土論』を解釈しています。 つまり、『浄土論』をそのまま地で読んでいくと、一人ひとりがこれから五 念門を修して、浄土に生まれようという方法論を説く書物と読みますが、親 鸞の解釈を通して『浄土論』を味わってみると、そうではなく、すでに法蔵 菩薩が、あらゆる浄土願生者を代表して、五念門を修せられたのだ、修行さ れたのだ。その結果、私どもが浄土往生するための因は信心一つだよ、念仏 144

7. 教行信証入門(正信偈・上)

親鸞のいたたいた往生行 そのほか、親鸞は曇鸞大師の『浄土論註』によって『教行信証』を制作す るに際して、いろいろのヒントを得ているようです。 『教行信証』には、二十四か所ほど『浄土論註』をそのまま引用しています。 そして先ほど申しましたように、我々が浄土に行く「往相」、それから浄土か ら戻ってくる「還相」、その往相と還相という二つをどのように『教行信証』 でまとめているかというと、真仏土と化身土の巻があります。 さて、『教行信証』の「教、とは無量寿経 ( 親鸞は大無量寿経と呼ぶ ) のこと です。「行」は、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えるという意味です。「南無阿弥 陀仏。と称える称名の根底にあるものは、如来の真実心です。つまり如来の靺 真実心が、称名、ロに称える「南無阿弥陀仏」となって、私どもに形をあら土 生 わしているわけです。ですから、「南無阿弥陀仏 , と口に称えられる称名は、 往 如来の真実心が私どもに働く手立てとなっており、称名 ( 行 ) と如来の真実心 章 をいただいた信心 ( 信 ) とは別々のものではない。形は違いますが、一つのも 第 のです。だから、「行信」の二つは不離なるもので、離れないものである。 すれも如来によって廻向された ( 他カ廻向 ) ものであるといわれるのは、こう

8. 教行信証入門(正信偈・上)

いうことです。 「行信」によって浄土に往ってりを得る、と先ほど申しました、浄土にお いて無上涅槃の吾りをひらくのは、ただ信心によって得ることができる。し かし、浄土に往生する行は、称名によるとされますから、「南無阿弥陀仏と いう称名行は、私が浄土に往生するための実践行なのです。 その実践を七高僧にさかのばっていうと、天親菩薩は五念門として示され た。曇鸞大師も、五念門の往生の五つの行業ーー礼拝、讃嘆、作願、観察、 廻向ーーーを我々が実践することによって、そのまま浄土に往生できるとすす められた。その中の観察門というのがありますが、その観察の対象が三厳二 十九種の荘厳なのです。 ところで親鸞は、こうした三厳二十九種の荘厳・・・ーー・曇鸞はいちいち説明し ていますけれども は、阿弥陀仏の四十八願をいろいろ分配してまとめた ものではあるが、しかし四十八願の一番大事なものは三つの願であることを、 曇鸞の指摘によって教えられました。その三つの願とは、第十八願と第十一 願と第二十二願である。第十八願は、至心信楽の願で、信心を誓っている。 第十一願は正定聚と必至滅度を誓った願である。第二十二願は還相廻向の願 です。 198

9. 教行信証入門(正信偈・上)

天親菩薩 ( 七高僧像部分 ) 神奈川・善然寺蔵 こうゆほんがんりきえこう ひろ 広由本願カ廻向広く本願力の廻向に由りて、 どぐんじようしよういっしん あらわ 為度群生彰一心群生を度せんがために、一心を彰す。 現代語訳 天親菩薩は、その著『浄土論』冒頭の帰敬偈 ( 願生偈の第一偈 ) において、「世 尊よ、私は一心に、尽十方無碍光如来に帰命したてまつる。私は無量寿経によって、 〃真実″を顕し、 " 真実。の働きである如来の大いなる誓願を開き示しましよう。 それは我々をして、横ざまに五つの迷いの世界を超え、仏の悟りを得させるもの だからである」と述べる。 つまり、天親菩薩は阿弥陀如来が我々に施しめぐらしたもう本願力によって、 広く一切衆生を救うべく、その本願のいわれを信受する信心を「一心」と表明 したのである。 ここは大変難しいと思われる箇所です。 天親菩薩という人はインド名でヴァスパンドウとい、 します。中国で初めに 訳された訳名は「天親 , といし のちに「世親」と訳されました。私どもに は「天親菩薩」という名前が聞きなれているのですが : ヴァスパンドウ ゆがゆいしき という人は龍樹菩薩に続いてあらわれ、インドの瑜伽行唯識派を大成した大 136

10. 教行信証入門(正信偈・上)

報恩講親鸞の遺徳を偲びその忌日 ( 旧暦十一 月二十八日、新暦一月十六日 ) に催す法会。第三 代覚如が「報恩講式」を著して形式をととのえ たのが始まり。御七夜とも。 コールなのだ、同義語なのだよということを親鸞はいわれる。天親菩薩は二 心」、善導大師は「金剛心」、曇鸞大師は「菩提心」とおっしやった。これら こ詠んでいるのであります。 は皆、他カ廻向の信心のことだと、和讃 ! = 170