正信偈 - みる会図書館


検索対象: 教行信証入門(正信偈・上)
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1. 教行信証入門(正信偈・上)

どくじゅ 朝夕の読誦聖典 しようしんげ 今日から「正信偈」について一緒に勉強していきたいと思います。正信偈 は正式の名称を「正信念仏偈」と ) しいます。正信念仏偈、略して正信偈は、 きようぎようしんしよう ご承知のように親鸞の主著『教行信証』の中の詩句です。『教行信証』も略 けんじようどしんじっきようぎようしようもんるい 称で、『顕浄土真実教行証文類』というのが正式の名前です。 『教行信証』は、六巻からできていますが、第二巻目の「行巻」の終わりに ある六十行、百二十句の詩句が正信念仏偈です。この正信偈が終わると、第 三巻目の「信巻、が始まります。親鸞聖人、畢生の主著であります『教行信 証』の中の、このような大事な部分に人っているのですから、正信偈が深い 第一章親鸞の生涯と求道 ひっせい

2. 教行信証入門(正信偈・上)

慈雲尊者画像大阪・高貴寺蔵 まり「正信念仏について、それから「正信念仏偈」の五字について、その 二通りについて六合釈を適応しているのです。 最初の四字説に四つの意味があるという。どういうことかといいますと、 「念仏を正信する」という意味、これは「念仏〔の行〕に依るの正信」という えしゅしやく 依主釈に基づくものです。それから二番目の「正信に念仏する」という意味 も、「正信が〔の〕念仏」という依主釈による。三番目の「正信という念仏」 じごっしやく は、正信即念仏だから持業釈による。それから四番目の「正信と念仏と」と、 そういしやく 並列して読むのは相違釈による。このように四通りもあるのです。香月院深 む 勵はそのうち、最初の「念仏を正信する」という存覚の解釈を採り、これは を 正義である、正しい読み方であるとしています。 仏 - それから「正信念仏偈という五字説においては、四字の「正信念仏 , が 依主釈であり、五字の「正信念仏偈」も依主釈であるから、五字の場合は二 重の依主釈になるというように解釈しているのです。そのように大谷派の香名 月院は六合釈を取り上げております。 さいぎん の、つけ・ また本願寺派の方でも初代能化 ( 学頭 ) の西吟という人が、六合釈の説を出い 第 したというようにいわれています。 その後十八世紀の初めの、月筌 ( 一六七一—一七二九 ) という人は三つの説 げつせん

3. 教行信証入門(正信偈・上)

読み方をめぐって 前章は正信偈の『教行信証』における位置づけをお話しましたが、ここで は「正信念仏偈」の題名をどう読むかということをお話したいと思います。 坂東本の正信念仏偈を見ていますと、親鸞は漢文の著作に対しては、必ず 返り点とか送り仮名をつけて、しかも大事なところには意味を示すために左 訓までつけています。当時のどんな田舎の学問のない人でも読めるようにと いう配慮をしています。今日、私どもが正信偈の訓読をするときには、棒読 みではなく、親鸞のつけたとおりに訓読しております。 ところが、『教行信証』の中の「正信念仏偈 , も『浄土文類聚鈔』に掲げる 第二章題名「正信念仏偈」をどう読むか

4. 教行信証入門(正信偈・上)

込 正信偈入門早島鏡正現代の聖典五帖お文 著者の幅広い仏教研究の成果をもとに、「正信偈」の意 細川行信・村上宗博・足立幸子 4 月刊定 味をわかりやすく説き明かす。現代語訳と詳しい語註五鮎お文八十通のすべてをわかりやすく現代語訳し、 一三 00 円語註と解説をつけた新しいテキスト。 を付した格好の入門書。 予ニ八 00 円物 正信念仏偈講義正信偈のこころ蓮如上人遺文 三ニ 0 0 円 宮城顗一 5 ニ巻 6 月刊金治勇 稲葉昌丸編一五四五 0 円新 三 5 五巻 ( 既刊 ) 一六五 00 円 正信偈講義楽しくわかる正籀蓮如上人行実 六 0 0 円 和田真雄 八ニ四 0 円 稲葉昌丸編 五六六五円 香月院深励 正信念仏偈の研究正信偈の話蓮如上人御一代記聞書講話蔵 浜田耕生 六六九五円 七 0 0 四円 蜂屋賢喜代 正信偈講話正信偈のおしえ蓮如教学の研究 ニ五 0 円 入 蜂屋賢喜代全 2 巻各一八五四円柏原祐義 稲城選恵 5 月刊予七五 00 円 正信偈の講話子どものための正信偈 暁烏敏 三九 0 〇円青柳田鶴子 判机上判一九 000 円面 一六。円真宗新辞典 四六判一五四五円区 ズ釈尊の生涯豊原大成五一五円真宗小事典 京 下 一聖徳太子の生涯細川行信五一五円総合佛教大辞典日本仏教人名辞典 市 ニ五 000 円 ン法然の生涯高橋良和五一五円全 3 巻五四五九 0 円 ( セット ) 京 涯親鸞の生涯豊原大成五一五円佛教学辞典真宗人名辞典 三六 00 円 近刊定価未定 蓮如の生涯東澤眞静六〇〇円

5. 教行信証入門(正信偈・上)

うのは、「念仏を正信する〔人を讃える〕偈」であります。要するに念仏を正 うざいしやく 信する人、そのように読む読み方は、六合釈の中の有財釈という解釈法にな るのです。文類偈も同じように「念仏を正信する偈ーと読みますが、その場 合は依主釈という解釈法になります。 「念仏を正信する人」ということは、要するに模範とすべき念仏者です。こ れは正信偈の中で讃えられている人々のことです。そうでなければ親鸞がな ぜ行巻の終わり、信巻の初めに「正信念仏偈を置いたかという意図を探る ことはできません。 む えきようだんえしやくだん 依経段と依釈段 を かもん 正信偈全般を昔の人は科文という分け方で分けております。お経にしろそ幻 しようしゅぶんるずうぶん のほか注釈書にしろ、昔の人は、序分、正宗分、流通分、つまり序文と本論信 と結論というように分けたのです。さらにまたそれらを細かく文章に即して名 題 分け、第一章の中に第一節、その中にまた第一項というように分けて見出し をつけています。そういう分け方を科文とゝ しいます。科文の分け方は人によ章 第 ってみな違います。しかしだいたい正信偈の科文の分け方は共通しています。 まず最初に大きく依経段と依釈段に分けられます。依経段はお経による、 念

6. 教行信証入門(正信偈・上)

存覚 ( 一二九〇—一三七三 ) 父覚如とともに越 前、三河、信濃などで布教活動を行なう。親 鸞の主著『教行信証』に最初の注釈を施して『六 要鈔』を著したが、親鸞の教義を時代に即応さ せようと神仏習合に傾き、父から再度にわた り義絶された。 「念仏正信偈にしても、親鸞は題名をどう読むかということを示していない これはどのように読んだらいいのかという疑問を私はかねがねもっていまし た。そこで、昔の学者が、正信念仏偈をどのように読んだのかということを 調べてみたことがあります。そうしたら大変おもしろいことがわかりました。 かくに小 ご承知のように、親鸞聖人から三代目の覚如上人の長男の存覚 ( 光玄 ) とい ろく う人ですが、この人が『教行信証』に対するいちばん最初の注釈書である『六 よ、つしよう 要鈔』を著しました。 げしやく その中で存覚は、「これ三朝高祖の解釈によりて、ほば一宗大綱の要義を述 む ぶ」といっています。つまり三国の七高僧の著述に基づいて、浄土真宗一宗 を の要を詩の形で述べているのが正信偈であるというのです。 それから約百年後、十五世紀の中頃、蓮如上人が出て、正信偈に対して『正仏 信 信偈大意』という短い書物を著しました。その中で、存覚上人の『六要鈔』 名 の正信偈の解釈をほばそのまま使っています。 題 ところが、いずれにしても、正信偈の題名については、はっきりしたこと はわかりませんが、それでもよくよく『六要鈔』を見ますと、存覚は正信念 第 仏偈の題名を「念仏を正信する偈、と読んだようなところがあります。蓮如 もその説をそのまま受け継いでいます。 かなめ

7. 教行信証入門(正信偈・上)

浄土真宗開祖親鸞。『教行信証』を骨子とし、意味のある詩句であろうということは容易に想像がつくと思われます。 ろく 阿弥陀仏の浄土に往生する念仏の教えを説い 今から五二〇年ぐらい前、文明五年 ( 一四七一一 l) のことですが、それまで『六 じらいさん ぜんどう て、絶対他力の救いを強調した。親鸞滅後、 時礼讃』という中国の善導大師 ( 六一三—六八〇 ) の書物を、読誦聖典としてい 彼の廟所を中心に教団が形成された。徳川家 康の宗教政策により本願寺は東西二派に分け たのが、それに代わって、蓮如上人は正信偈を朝晩拝読するようにしました。 られ、その他高田派・興正派・木辺派・出雲 正信偈が終わると、続いて親鸞の和讃と念仏をそえて、多くの人々が読誦す 路派・山元派・誠照寺派・三門徒派・仏光寺 るようにしました。そういう習慣が今日まで浄土真宗の人々の中に伝わり、 派があり、真宗十派といわれる。 すべてとは申しませんが、多くの方々が、朝は正信偈を拝読することが習わ しとなっています。 きみようむりようじゅによらい 年配の方で、私は小さいときに「帰命無量寿如来」で育ちましたといわれ る方がよくおります。 なもふかしぎこう 正信偈は「帰命無量寿如来南無不可思議光、で始まります。幼いときか らこの「帰命無量寿如来、をあげないと朝ご飯が食べられない、学校に行け涯 ないというような仏教生活を、おじいさん、おばあさん、お父さん、お母さ んからしつけられた、その思い出かおとなになっても消え失せないというこ とをいわれます。 しいまし 正信偈、すなわち正信念仏偈は『教行信証』の中の詩句であるとゝ もんるいげ たが、正信偈によく似たものに「文類偈」というのがあります。これは親鸞 親鸞画像 ( 熊皮の御影 ) 重文、奈良国立博物 館蔵 れんによ

8. 教行信証入門(正信偈・上)

このように、仏さまは見捨てないというのです。相手がそっぱを向いたカ ら、もうそれでいいというのではなくて、見捨てずに幾生に渡っても、そな たを救いましよう、と。 これが利他の働きなのです。仏さまは、相手を救うこと、衆生を救いの相 手として、自分と同じ悟りをひらくために、 いかなる手段を講じても働きか ける。それを利他というのです。ですから仏は利他行を実践の内容とし、救 いとるまであきらめないのです。 これまで申しましたように、浄土は悟りの世界であり、浄土は悟りそのも のの働きが形をあらわしたものですから、西方浄土の働きがこちらに働いて いる。私に対して、真理の世界、真実の世界に気づかしめるため、いろいろ な手立てを設けて、さまざまな働きをあらわして働いている。そういう働き に、こちらが何かのきっかけで出会ったときに、そうかとうなずかされるの です。こちらがちっとも気かっかず、あいにく受信機が故障していると、真 実の世界からの呼び声が聞こえないのです。 たまたまさるべきご縁があって、ともどもに正信偈を学ぶことができるの は、前世からのお育てがあったからだと受け取ることが、大乗経典の心に沿 うことたろうと思います。

9. 教行信証入門(正信偈・上)

教一何信証冓話 定価九、 0 0 0 円 師の五〇歳から五二歳の三年間に情熱を傾け、教行信 証の総序・教巻・行巻を身読された未発表の講演の記 る 2 録。今、現に語られているような新鮮な感動を覚える。 寺川俊昭著 ( 大谷大学学長 ) 4 教行信証の思想 田 3 定価四、五〇〇円 寺 2 親鸞の仏教の特質は、往・還一一種の回向である。回心区一 ~ 星 5 の内景をし 親鸞の一一種回向を明らかにしている。 師の聞思の学びの確かさを教えられる聿日である。 市 c. 寺川俊昭著 市民と読む教一何信証全四巻 各巻定価一、五四五円 教義学的関心に立っことなく、親鸞の信仰表白の書と して、朝日カルチャーで市民と共に禁眦み語られた記録 真宗興隆の願い 真理の一言 大いなる讃嘆 Ⅳ世に勝てるもの 藤場俊基著 顕浄土方便化身土文類の研究 『弁正論』 定価四、五 0 〇円 『教行信証』の化身上巻に引かれた弁正論の解読を通し て親鸞が開顕せんと願った浄土真宗に迫り、新しい親 鸞像を模索した書。 金子大栄著 文栄堂書店 教行信証講義録 大江淳誠述定価 15450 円 教行信証の意訳と解説 高木昭良著教行信証の原文・文意・読み方・意訳・ 語釈と解説をする。総論では親鸞聖人と教行信証、教 行信証の製作年時・諸本・概要を述べる。定価 9270 円 教行信証講義教行 三木照国著教巻・行巻を全文にわたって、本文・延 書・大意・語釈・現代語訳をかかげ、大江・金子両師 の解説を加え、著者の私解を論述。定価 10094 円 親鸞聖人著作用語索引教行信証之部 龍谷大学真宗学会編定価 1236 。円 正信偈の意訳と解説 高木昭良著正信偈の原文・文意・読み方・意 訳・語旬・出典と解説。親鸞聖人と正信偈、教 行信証と正信偈等を述べる。定価 2 0 0 0 円 ~ 一私の正信偈 藤正導著正信偈の原文・読み方・主要語句 こ振の解明、通釈・解説とわかりやすい言葉で、初 定価 6 0 0 円 学者に好評書。 昌区 。 " こころお正信偈に学ぶ 文下 市徳永道雄著定価 350 円 正信偈を仰ぐ -0 こ一二ロ 畑輝く讃歌 フ電賞雅哲然著定価 1751 円

10. 教行信証入門(正信偈・上)

空華轍浄土真宗本願寺派の学派の一。空華を出し、しかし自分の説としては、「正しく仏〔恩〕を信念する偈である、と、 廬と号した僧鎔 ( 一七二三—八一一 l) の開いた学派 「恩」をよけいに入れた読み方をしています。「正しく仏恩を信念する偈」、お で、「能所不一一なるを以て他カ弘願真実」の大 もしろい読み方をしています。苦労した読み方です。 行を掲げる。門下は繁栄し、特に柔遠は越中 じゃくりん で、また道隠とその門人性海は堺で布教に努 それから同門の知空門下の若霖 ( 一六七五—一七三五 ) という本願寺派の学 くうげてつじゅうおん める。 者は、「正信による念仏」と読んでいます。そのほか、越中空華轍の柔遠、堺 どうおん 空華轍の道隠など、いろいろな人がいろいろな説を出しています。十九世紀 こうりゆ、つ 前半に興隆という人が出て、「正信と念仏とーと並列して読むべきだ、といっ ています。 親鸞聖人はだいたいサンスクリットを学ばなかったのですが、のちの宗学 の人々は、サンスクリットの文法学を適用して解釈をするようになったので す。しかし、江戸時代の終わりから明治になりますと、そのようなことはほ とんど忘れられてしまいました。 今日、大正・昭和にかけても、正信念仏偈をどう読むかということに関し て、宗派の学者は何もいいません。我々はどう読むかわからないわけです。 親鸞の返り点を知りたいのですが、親鸞はつけていません。 そこで、なんとか親鸞聖人の心に沿って読んでいったらどういうことにな るか、というのが私の思いです。先ほど触れましたように、正信念仏偈とい