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検索対象: 教行信証入門(正信偈・上)
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1. 教行信証入門(正信偈・上)

ひょうじようねんか 氷上燃火のたとえ しようそくむしよう 「往生ーする浄土とは、「生即無生」の悟りを得る世界であると述べていま す。「生」は、私どもの生まれを いい、私どもの生まれの世界は、生滅の世界 です。生と滅、生じたり滅したり、滅したり生じたりする、その生滅の滅を 略すと「生 [ となります。ところが、西方極楽浄土は悟りの世界ですから、 それは生滅を超えていますので、不生不滅というのです。生ぜず滅せずでし よう。不生不滅の不生のことを「無生」とも申します。生滅の滅を削り、不 生不滅の不滅を削れば、生と無生になる。すなわち、生がそのまま無生であ る。煩悩がそのまま菩提であり、生死がそのまま涅槃であるという表現があ るが、これと同じです。ですから、往生浄土とは私どもの人間の迷いの世界 に生まれるような、そういう生まれ方ではないという生まれ方なのです。 我々の生滅の世界を超えた世界が不生不滅でしよう。このことばに則して しいますと、我々が人間として迷いの世界に生まれるような、そういう生ま れ方でない生まれ方、それを「無生の生ーとゝ しいます。浄土は無生の生のも のである、と。いわゆる不生不滅の世界で、そういう世界に生まれるのだと いう意味です。 194

2. 教行信証入門(正信偈・上)

ところが、我々が浄土に生まれるとは、この世でオギャアと生まれるよう な生まれ方を考えますけれども、浄土の生まれ方はそうではない。仏教では けしよう 浄土の生まれ方を化生といいます。変化して生まれる。このように肉体がそ のまま転移して、浄土で仏になるというのではなく、全く別の形になるから、 それを化生というのです。 しかし、この私自身が浄土に生まれて仏になることにおいては変わりはな いけれども、形が変わるのです。その形は化生という生まれ方です。 らくがんしよう 浄土に生まれるなら楽しみのために生まれたいというので、「為楽願生ーを する。楽しみのために生ぜんと願う。曇鸞大師は『浄土論註』の中で、「為楽 願生」、楽しみのために浄土に生まれようと願う者は、生まれられないと述べ ています。 では、どういう生まれ方をするために「浄土願生ーするのか。曇鸞大師は、 「氷上燃火ーのたとえを設けています。氷の上に薪を積みます。そして火をつ ける。火をつけるということは、我々が浄土に生まれたいという思いをもっ けんしよう ことです。それを見生の思いを抱くといいます。 ところがこの薪に火がつけられますと、薪が燃えると同時に、氷の上に薪 がありますから、その氷によって火もまた消えるのです。薪が燃えていくと 195 [ 第 13 章ト・・・・往生浄土の意味

3. 教行信証入門(正信偈・上)

平等院鳳凰堂阿弥陀堂とそれをとりまく池 こ′トりをハしろ - 、ける や庭は浄上のしつらいを眼前 ( 1 一 このように、親鸞の浄土の解釈なり、往生するということの意味付けにお いては、曇鸞大師のご指南、導きは大変力がありました。といいますのは、 日本の浄土教が華やかに展開したのは平安時代です。ご承知のように、宇治 の平等院の鳳凰堂には、阿弥陀さまの立派なお像が中にあり、鳳凰堂をとり まく庭・池は、浄土の荘厳、つまり浄土のしつらいそのものです。みごとな しつらいを我々の視覚でとらえられるようにできています。一般の人が平等 院にお参りして、この世で極楽浄土が見られるのだと思うほどです。 そうすると、その現実の姿の上だけに浄土を受け止めてしまい、あるいは 阿弥陀さまの、やがて本当に生まれていく浄土も、ただ美しいと考えるだけ で、「阿弥陀さまの浄土は、そこに生まれたら一体どういう生まれの私になる 世界なのか」と、そこまで私どもの思いが至らないということになりかねま せん。 そこで親鸞は、「私どもが喜んで行きやすい浄土としてのしつらいをまず見 せて、その浄土に生まれて仏となって、今度は迷いの世界 ( この世 ) に戻って きて、多くの人を救う仏としての仕事に従事する、つまり、利他の働きに従 事する、その働きをうみだす場が西方極楽浄土であるーと説いています。っ まり、浄土は悟りの世界であって、その悟りの世界に生まれた人は、必ず仏 176

4. 教行信証入門(正信偈・上)

ゆがぎようゆいしきは のを、よくよく味わいますと、天親菩薩は、瑜伽行唯識派の学者で、私ども の感覚でとらえられるような形ある浄土を説明していることがわかります。 ところが、私どもは、形あるものをとらえると、もうそれは単なる形でし かないと考え、その本質を見失いがちです。そこで、天親菩薩がなぜ私ども の視覚に訴えるような浄土のしつらいを説明しているのかという、その本を 抑えた曇鸞大師は、「空」の思想によって、それは単なる形ではなく、この真 実の世界、悟りの世界が私どもを悟りの世界、真実の世界に帰入させるため に、我々にわかるような手立て ( 方法 ) をもうけたのが、浄土のしつらいであ るととらえたのです。 したがって、天親菩薩の形による説き方は、もっと奥を知っておかなけれる す 明 ばならないと、曇鸞は説くのです。「極楽浄土には、八功徳水の池があって、 説 の 浄土に生まれると飲めや歌えができるという、楽しみのために浄土に生まれ るようでは、真に生まれることはできないのだ」ということを明らかにする物 ために、浄土は真実そのものの働きの世界であることを、「空」の立場で、理 章 一一ⅱ白に明らかにしょ一つとしたのてす 第 親鸞は、天親菩薩の心と曇鸞大師の心の両方をつかんで、正信偈の中で両 者の徳を讃えています。

5. 教行信証入門(正信偈・上)

このように信巻に大乗の大般涅槃経を引用するにあたって、この経のこと なんげ ば「難化の三機 ( 難治の三病 ) 」を挙げています。それは五逆罪を犯す者、仏 いっせんだい 法をそしる者、全く仏法を信する素地のない者 ( つまり一闡提の者 ) 、それら三 種の者は教化しがたい者であり、また救うことのできない三つの重い病をも っている者とみて、「難化の三機」とも「難治の三病」とも申します。それが まさしくここでいう「逆謗ーにあたるのです。 それらの者 ( 凡夫も聖者も、五逆罪を犯したり仏法をそしったりする者も ) が「斉 しく廻入すれば」とは、自分の発意で本願の教えを仰ぐ者となったのではな く、お釈迦さまが阿闍世に対してなさったように、仏の方からの働きかけで、 本願の海に廻入せしめてくださるからこそ、みな一味の悟りの世界に生まれ 方 あ ることができるのだというのです。 の そして最後の一一句「獲信見敬大慶喜即横超截五悪趣ーー信を獲て、見て 念 敬い、大きに慶喜すれば、即ち横に五悪趣を超截す」と。ここは無量寿経の 真 と、つ。は、つげ・ さんどくだんごあくだん 五逆罪人倫や仏道に逆らう最も重い五つの東方偈というところと、三毒段・五悪段の序文から、親鸞はほば同じことば 罪。これを犯せば間地獄におちるところか 章 を引用しています。つまり、長い長い修行の年月を経ないで、一足飛びに、 はっそうと ら、五無間業ともいう。殺母、殺父、殺阿羅 第 源義経の八艘飛びみたいに、この世の命の終わるやいなや、そのとき浄土に 漢、仏を傷つけて血を流させること、僧伽の よこさま 和合を破ることの五種。 生まれて仏になる。それを、「横にというのです。この世が終わって、ま新

6. 教行信証入門(正信偈・上)

同時に、その火も氷によって消される。ということは、これは吾りの氷なの です。浄土は悟りからなっているからです。私ども人間の浅はかな楽しみで 浄土に生まれたいという、そうした凡情が、浄土の悟りの氷によって消され てしまう。だからどんなに生まれたい、楽しみのために浄土に生まれたいと いう思いで生まれても、浄土に生まれるやいなや、浄土の悟りによって私の 浅はかな凡情が滅びて、悟りそのものの「生死即涅槃 , の悟りを得させても ら一つことである。 曇鸞大師はこんなすばらしいたとえを使って、どこどこまでも浄土に生ま れさせようという阿弥陀仏の本願力が、私どもに働いているということ、し しやば かもその浄土に生まれるやいなや、すぐに娑婆世界に戻ってきて、衆生済度 の利他の働きに従事させていこうとして、浄土の悟りが凡情を浄める働きを あらわしているということを示そうとしているのです。 そういうことで、親鸞は曇鸞讃のところで「証知生死即涅槃ーーー生死即涅 槃なりと証知せしむ [ と、使役形に詠んでいます。私どもが本願力によって 「生死即涅槃」の悟りを得させられるというので、「証知せしむーと使役形に 詠んでいるのです。 196

7. 教行信証入門(正信偈・上)

て、私を浄土に摂取してくださるのですから、信心といっても、私がつくる 信心ではなく、阿弥陀仏の真実心、本願の心をそのまま私が領受し、いたた いたところをさして信旧、いと ) しいます。その信心一つで浄土に生まれるやいな や仏になる、そのことを「正定の因は唯、信心なり」と。ことばを変えてい うと、凡夫が仏になる道、悟りをひらく道は信心による以外にはないという のです。 「惑染凡夫信心発ーー惑染の凡夫、信心発すれば」の句ですが、「惑染、とは、 よろいかぶと 煩髑に染まって抜け出せないという意味です。あるいは鎧冑のように、しつ かりと煩に縛られている凡夫をいいます。そういう我々がひとたび如来の 真実心をいただく身となれば、すなわち、「信心発すれば」です。私が信心を おこすのではなく、如来の方から本願力によって、信心をおこさせてくださっ たときに、私に信心がおこるというのです。 そうすると、信心がおきたときは、現生正定聚の位につく。 つまり必す浄 土に生まれて仏になるという候補者の位につく。それを正定聚不退転の位と しいます。そして命終わって浄土に生まれるやいなや、そのとき仏になる。 それが浄土における悟りです。そうすると、この世においては候補者の位、 すなわち正定聚不退転の位につき、浄土に生まれるや、仏になる。成仏の仏

8. 教行信証入門(正信偈・上)

しゅじようさいど となって、仏としての衆生済度の働きをするのである。そのためには、ます 西方浄土に生まれて仏とならなければならない。親鸞は、曇鸞大師や天親菩 薩のあのすばらしい浄土のしつらいを通して、浄土に生まれることは、実は 浄土で百味の飲食をもって楽しむのではなく、すぐさまこの世界に戻ってき て、多くの人々を救う利他行に従事するのだと解釈します。 おうそう そういう浄土に生まれていくあり方を「往相 ( 行くすがた ) という。そし て浄土に生まれて仏となって、迷いのこの世界に戻ってきて、利他の働きを げんそう することを「還相 ( かえるすがた ) といいます。往相も還相もともに阿弥陀仏 の仏力、本願力によるものであるということを、曇鸞大師の『浄土論註』を 読み切ったときに、初めて親鸞は把握したのです。 ですから、曇鸞大師も偉いけれども、『浄土論註』の書物をよくよく読み切 って、そういう把握を得た親鸞も偉大な人です。 「浄土論」に出会う そのことについてもう少し原文に則して申しあげようと思います。 「本師曇鸞梁天子常向鸞処菩薩礼ーー本師曇鸞は、梁の天子、常に鸞の処 に向いて、菩薩と礼したてまつる」、曇鸞大師は、梁の武帝 ( 四六四—五四九 ) おんじき

9. 教行信証入門(正信偈・上)

末になって家族の人が一所懸命大掃除をする。あの大掃除を考えるとおわか りと思います。せつかく建てた仏国土に、往生し、行く人がいなければ、そ の仏国土は、誰も行く人がいないので荒れ放題になってしまいます。 ですから、本願を立ててみずから仏国土を建立したのは、ありとあらゆる 人が私と同じ仏になってほしいという願いに共鳴し、自分の仏国土に生まれ ることが、そのまま私の仏国土を浄めるということなのです。だから仏の願 いに共鳴する人が一人でも二人でも、否、無数にあることが、自分の仏国土 を浄めてくれることなのです。つまり、法蔵菩薩が建立して、みすから阿弥 陀仏となり、極楽浄土を建立したことも、阿弥陀仏の願いに共鳴する人が次々 と往生してくれれば、すなわち阿弥陀仏の極楽浄土を浄めるということなの です。 展 そして、「心浄ければ」とは、お互いがその仏の願いに共鳴して、仏の心の道 とおりに、願いどおりの心になるということが、仏国土を浄めていくという靕 ことになるのです。 章 お父さんの願いに家族の人々が皆従って、そうしましようという家庭 ( 仏国 第 土 ) は、皆浄まっていきます。「何だ、おやじが勝手にやっているだけで、我々 は違うのだ」。それでは歳末の大掃除もできません。大掃除しようといわれた

10. 教行信証入門(正信偈・上)

ともどもに浄土にいって仏になりましようという、利他の働きをすることを がんしよう ます。 いうのです。そういう五つの浄土願生の行をなすことを五念門といい そして五念門をなし終えるとどういうことになるかというと、浄土を願生 する人は、今度は五つの功徳を得ることができる。それを五功徳門とい ごんもんだいえしゅもんたくもんおくもんおんりんゅげじもん 五功徳門とは、近門、大会衆門、宅門、屋門、園林遊戯地門のことで、か いつまんでいうと、まず浄土に人るすがた、浄土に往生する身と定まる ( 近門 ) 。 そして阿弥陀仏をとりまく聖衆の仲間に人ることができる ( 大会衆門 ) 。その しゅ ような五念門を修する人は、浄土に生まれて悟りをひらき ( 宅門 ) 、法味を味 わう ( 屋門 ) 。ついで、浄土に生まれて仏となったならば、必ず迷いの衆生の 世界に戻ってきて、多くの有縁の人々を救う働きに従事する。ちょうど幼稚 園の園児さんが無心に遊び戯れるように、浄土に生まれて仏となった人は、 しゅじようさいど 裟婆世界に戻ってきて、喜び勇んで衆生済度の利他の働きをする。これが園親 林遊戯地門で、浄土から出るすがたである。五念門に対して、それによって これを後半の六句で示しています。 得る功徳、働きを五功徳門といい、 それは天親菩薩の願生心のあらわれを示しており、だれでもそのように浄 土願生の願いを起こして五つの実践行を成すなら、浄土に生まれて仏となり、