106 市廳の一室にて 市廳にてー 私はかうして市廳に來てゐる。呪ふべき道程は爲された。廣場はすぐそこに ある。窓の下には嫌悪すべき人群が吠えてゐる、私を待ってゐる、笑ってゐる。 私は如何に身を固くしても、如何に身を引緊めても、やはり氣が挫けてしまった。群集の頭越 しに、黒い三角刃を一端に具へてるあの二本の赤い柱が、河岸の街燈の間につっ立ってるのを見 た時、私は氣が挫けてしまった。私は最後の中立てをしたいと求めた。人々は私を此處に置いて 1 事か誰かを呼びに行った。私はそれが來るのを待ってゐる。とにかくそれだけ病豫を得るわけ これまでのことを述べておかう。 三時が鳴ってる時、時間だと私に知らせに人が來た。私は六時間前から、六週間前から、六ヶ 月も前から、他のことばかり考へてゐたかのやうに、ぞっと震へた。何だか意外なことのやうな 感じがした。 彼等は私に幾つもの廊下を通らせ、幾つもの階段を降りさせた。彼等は私を一階の二つの潜戸 の間に押人れた。暗い狹い圓天井の室で、雨と霧の日の弱い明るみだけが仄かにさしてゐた。 う遲かった。
その時、彼が私に差出してる煙草入は間を距ててる金網にあたった。それも、馬車の動搖のた めに可なり激しくぶつかって、開いたまゝ憲兵の足の下に落ちた。 「金網の奴め ! 」と執逹史は叫んた。 彼は私の方へ向いた。 「これはどうも、困りました。煙草をすっかりなくして ! 」 「あなたよりもっと多くのものを私はなくしてゐます。」と微笑みながら私は答へた。 彼は煙草を拾はうとしながらロの中で呟いた。 「私よりもっと多くのものだって ! 云ふだけなら容易いさ。パリ 1 まで煙草なしとは、ひど いことだ。」 その時敎誨師は彼に少し慰めの言葉をかけた。私は他に氣を向けてたかも知れないが、とにか くそれは私には、私が初め受けてた説敎の續きのやうに思はれた。そして少しづつ、牧師と執 吏との間に會話が始まっていった。私は彼等の方を話すまゝにさしておいて、自分の方では考へ 始めた。 市門に近づいてゆくと、やはり私は他に氣を奪はれたには違ひないが、パ ーが平素よりも騷 騒しいやうに思へた。 馬車は一寸入市税關所の前に止った。市の税關吏が馬車を檢査した。もし羊か牛かを屠殺所に 運ぶのたったら、彼等に金袋を一つ投げ出さなければならないだらう。然し人間の百は常然何も
直ちに、扉や、窓や、屋根を越して、たとひそれらの桁構に自分の肉を殘さうとも ! お、、畜生、惡、呪はれてあれ ! この壁を破ることは立派な道具でしても數ヶ月はかゝるだ らう。然るに私には一本の釘もない、一時間の餘裕もない。 調書の云ふところに從へば、私はこゝに移送された。 然しその旅のことは語るたけの値打がある。 七時半が鳴った時、執逹史はまた私の監房の入口に現はれた。彼は私に云った。「迎ひに來ま した。」あゝ、彼だけではなく、他の人々もー 私は立上った。一歩進んた。が二歩とは進めないやうな氣がした。それほど頭が重く足が弱っ てゐた。それでも私は氣を取直して、可なりしつかりと歩いていった。外に出る前に、監房の中 を最後に一寸見廻した。 私はそれを、自分の幽閉監房を好きだった。 それから、私はそ れを本虚な打開いたまゝに殘して外に出た。そのため監房は妙な有樣に見えた。 けれども、監房は長くそのまゝではないだらう。鍵番等の云ふところによれば、誰かが、丁度 今頃重罪裁判廷で拵へられてる一人の死刑囚が、晩にはやって來る筈になってゐる。 臨下の曲り角で、敎誨師が私に加はった。彼は食事をしてきたのたった。 コンシェルジュリーにて
今はもう私は平靜である。萬事終った、すっかり終った。典獄が訪れてきたため恐ろしい不安 に陷ったが、もうそれからも出てしまった。打明けて云へば、前には私はまだ希望を懷いてゐた。 今や、有難いことには、もう何の希望もなくなった。 次のやうなことが起ったのである。 私の監房の扉はまた開かれた。褐色の 六時半が鳴ってる時にーーーいや、六時十五分だった フロックを着た白髮の老人がはひってきた。老人はフロックの前を少し開いた。法衣と胸飾りと を私は見て取った。老人は牧師だった。 その牧師は監獄の敎誨師ではなかった。不吉なことだった。 彼は好意ある微笑を浮べて私と向ひ合って坐った。それから頭を振って、眼を天の方へ、印ち 監房の天井の方へ擧げた。私はその意をった。 壁は石の監獄であり、この扉は木の監獄であり、あの看守等は肉と骨との監獄である。監獄は一 種の恐ろしい完全な不可分な生物であって、半ば建物であり半ば人間である。私はそれの虜とな ってゐる。それは私を翼で覆ひ、あらゆる襞で抱きしめる。その花崗岩の壁に私を閉ちこめ、そ の鐵の錠の下に私を幽閉し、その看守の眼で私を監視する。 あゝ慘めにも、私はどうなるのであらう ? どうされるのであらう ?
死刑囚 ! 所で、それがどうしていけないか。私は何かの書物の中で讀んだのであるが、爲になることけ たゞそれだけだったのを覺えてゐる。印ち、人は皆不定期の猶豫つきで死に處せられてゐる。そ れでは一體私の地位に何がこんな變化を齎したのか。 不に判決が下された時から今までに、長い生涯を當にしてゐた幾許の人が死んだことか。若く て自由で康であって、某日グレーヴの廣場で私の首が落ちるのを見に行くつもりでゐた者で、 幾許の人が私より先立ったことか。今からその日までの間に、戸外を歩き大氣を吸ひ自山に外出 し歸宅してゐる者で、なほ幾許の人が私に先立っことだらうか。 それにまた、人生は私にとってなんでこんなに名殘惜しいのか。實際のところ、監獄の薄暗い に集まってくるそれらの男や女や子供も、幻影 - のやうに見えた。 階段の下に、格予のはまった黒い汚い馬車が私を待ってゐた。それに乘る時、私はどこといふ こともなく廣場の中を眺めた。死刑囚と叫びながら通行人等は馬車の方へ駈けてきた。私は自分 と他物との間におりてきたやうに臥はれる靏を通して、貪るやうな眼付で後についてくる二人の 若い娘を見て取った。その年下の方は手を叩きながら云った。 「いゝわね、六週間後でせう ! 」
叩はもう眼がくらみながら、石と木との檻の中にはひっていった。そこから鐘鐸のついた釣鐘が千 斤の重さで下ってゐた。 よく合さってない床板の上を私は震へながら進んでいって、。、 ーの子供や人民のうちにあれ はど名高いその鐘を、少し先の方に眺めた。斜めの屋で鐘を取圍んでるスレート葺の死が、 分の足と同じ高さにあるのを見て取って、私は恐ろしくなった。そして時々上からちらと、ノー トル・ダーム寺院の前庭を見下し、議のやうな通行人を見下した。 突然、その大きな鐘が鳴った。深い震動が本氣を搖り、重々しい塔を震はした。床板は桁構の 上に跳上った。私はその音で危くひっくり返るところだった。よろめいて、倒れかゝって、スレ ート葺の斜めの圧の上を滑り落ちさうだった。恐ろしさの餘り私は床板の上に寢て、兩手でしつ かとそこにしがみつき、ロも利けす、息も出來す、耳には非常な響が鳴り渡り、そして眼の下に は、斷崖があり、深い廣場があって、そこには羨ましくも平然と多くの通行人等が往來してゐた。 ところで、私は今も丁度その釣鐘の塔の中にゐるやうな心地がする。凡て茫然自失と眩とだ。 鐘の音のやうなものがあって、頭の中を搖り動かす。そして私は人々が往來してるあの平坦な靜 かな人生から離れてゐて、周圍を見廻しても、たゞ遠く深淵の間越しにしかもうそれが見えな
近い頃、私は或る忌はしいものを見た。 また夜が明けるか明けないうちだったが、監嶽中が騷々しくなった。重い扉の開いたり閉ちた りする音、鐵の閂や海老錠の軋る音、看守の帶に下ってる鍵東のがちゃっく音、階段の上から下 まで慌しい足音、長い廊下の兩端から互に呼び合ひ答へ合ふ、などが聞えた。私の近くの幽閉 訂監房の者達、戒囚逹は、平素より一層陽氣になってゐた。ビセートルの監獄全の者が、笑ひ しつけてゐた 6 私は恐ろしさの餘り眼を閉ちた。するとなほはっきり凡てのことが見えてきた。 夢にせよ、幻にせよ、現實にせよ、とにかく私はも少しで氣が狂ふところたった。が、丁度折 よく、突然或る感じが私を覺ましてくれた。仰向けに倒れかゝった時、或る冷い腹と毛の生えた 足とが自分の裸の足の上を通ってゆくのを感じた。それは私に邪魘されて逃げてゆく蜘蛛だった。 いやそれは一の煙であり、痙攣し そのために私は我に返った。 おう恐ろしい亡靈共 ! てる虚な私の頭腦の想像だった。マグベス式の幻だ ! 死者は死んでゐる、殊に彼等はさうだ。 墳墓の中に入れられて錠を下されてる。それは監嶽と違って脱走は出來ない。私があんなに恐怖 を覺えたのはどうしたわけか。 墓穴の扉は中部から開くことは出來ない。
岡倉覚三著村岡博訳 小林多喜二作 ツルゲーネフ作金子幸彦訳 AJ 茶 本☆ 父 子☆☆☆蟹工船、一九二八・三・一五☆☆ ゴーゴリ作平井肇訳 高木八尺・斎藤光訳 ルソー著桑原武夫・前川貞次郎訳 外套 ンカ ン演説集女☆ 社会契約論☆☆ 関根正雄訳 デカルト著落合太郎訳 西尾実校訂 旧約聖書創世記☆☆徒 草☆☆方法序説☆☆ プラトン著久保勉訳 夏目漱石作 森外作 宴☆☆ ろ☆☆☆阿部一族他一一篇☆ 佐佐木信綱編 島崎藤村作 山田孝雄校訂 新訓万葉集全二冊 戒☆☆☆方 丈 下☆☆☆ - 破 ファープル著山田・林訳 ルソー著桑原武夫訳 フロべール作伊吹武彦訳 六☆☆☆ 白全三冊 上中☆☆☆☆ポヴ . アリー 昆虫 記全一一十冊 他☆☆ 夫 . 人全二冊科☆☆☆ 杉田玄白著緒方富雄校注 トマス・モア著平井正穂訳 エミリ・プロンテ作阿部知二訳 りュ ピア☆☆蘭学事始☆ 丘全二冊各☆☆☆ よ 山口茂吉・柴生田稔・佐藤佐太郎編 魯迅作竹内好訳 長塚節作 全二冊各☆☆ 斎藤茂吉歌集☆☆☆阿正伝・狂人日記他害一篇☆☆ ィーリキイ作中村白葉訳 樋口一葉作 朱牟田夏雄訳 レ 岩ど ん 底☆☆ にごりえ・たけくらペ☆ 自伝☆☆☆ マルクス著長谷部文雄訳 カント著高坂正顕訳 ロレス作本多頻彰訳 永遠平和の為に☆ 息子たちと恋人たち全三冊各☆☆☆ 本賃労働と資本☆ の金谷治訳注 毛沢東著松村一人・竹内実訳 ニーチェ著安倍能成訳 語☆☆☆実践論・矛盾論☆ この人を見よ☆☆ モ 8 山田孝雄校訂 イプセン作竹山道雄訳 ー・ハッサン作杉捷夫訳 平家物語全二冊上 女の ル ~ ☆☆☆ 下☆☆☆入形の家☆☆ トルストイ作米川正夫訳 有島武郎作 井原西作東明雅校注 る 女全二冊前☆☆ 戦争と平和全八冊第☆或 後☆☆☆好色五人女☆☆ シュヴァイツェル著野村実訳 西田幾多郎著 一ノクス・ウェー・ハー著尾高邦雄訳 水と原生林のはざまで☆☆善の研究☆☆職業としての学問☆ レーニン著字高基輔訳 金子大栄校訂 高木八尺・末延三次宮沢俊義編 帝国主義☆☆歎 異 人権宜 一「ロ集 . ☆☆☆☆ 新井白石著羽仁五郎校訂 モリエール作鈴木カ衛訳 ・ハルザノク作宮崎嶺雄訳 タ 折たく 柴の記☆☆☆ 谷間のゆり全一一冊☆☆ チェーホフ作湯浅芳子訳 杉浦正一郎校訂 ホメーロス作呉茂一訳 の 桜 園☆ おくのほそ道☆☆ アス全三冊☆☆☆☆ 志賀直哉作 シ第ーロホフ作横田瑞穂訳 福沢論吉著 暗夜行路全一一冊各☆☆☆静かなドン全「、冊八☆☆☆☆ ノ他☆☆☆文明論之概略☆☆☆ の 然 SIOO 2
なるはど、わけもないことだ、一分間たらすのうちに、一秒間たらすのうちに、事は爲されて しまふ。 が彼等は嘗て、重い刃が落ちて肉を切り神經を斷ち頸骨を碎く瞬間に、そこにゐる 者の代りに自ら身を置いてる場合を、せめて頭の中だけででも考へてみたことがあるか。なに 。呪ふべき哉 ! ほんの半秒の間だ、苦痛はごまかされると : 四 0 妙なことに、私は絶えず國王わことを考える。どんなにしても、どんなに頭を振っても、一つ のが耳に響いて、いつも私に云ふ。 「この同じ町に、 この同じ時間に、而も此處から遠くない處に、も一つの壯大な建物の中に、 やはりどの扉にも番人のついてる一人の男がゐる。お前と同じく民衆の中の唯一の男であって、 お前が最下位にあるのと彼が最上位にあるのとの違ひだけだ。彼の生涯は凡てどの瞬間も、光榮 と權威と愉悅と恍惚ばかりである。彼のまはりは、愛と尊敬と崇拜とに滿ちてゐる。最も高い聲 も彼に話しかくる時には低くなり、最も傲慢な額も彼の前には下に屈む。彼のに觸れるものは 絹と黄金ばかりである。今頃彼は、誰も彼の意に逆らふ者のない閣議に臨んでゐるか、或はまた、 明日の狩獵のことや今晩の舞踏會のことを考へてゐて、宴樂は適宜の時にいつでも得らるゝもの と安心し、自分の快樂のための仕事を他人に任せきりでゐる。所で、その男もお前と同樣に肉と そして、すぐにあの恐るべき死刑臺が取壞されるためには、生 骨とから成ってゐるのだ。
拂はなくてよい。私達は通りすぎた。 大通りを越すと、サン・マルソー廓外やシテ島の古い曲りくねった街路に、馬車はまっしぐら に駈けこんでいった。議の集の無數の穴のやうにうねりうねって互に交叉してる、それらの狹い 街路の鋪石の上に、馬車は如何にも音高く速かに進んでいったので、外部の物音はもう少しも私 の耳にはひらなかった。然し四角な小さな覗き窓からちらと見ると、通りがかりの人波が立止っ て馬車を眺めてるやうに思はれるし、子供の群が馬車の後をつけて走ってくるやうに思はれた。 また時々、四辻のあちらこちらで、襤褸をまとった男や老婆が、時とすると二人揃って、印刷し た紙の一東を手に持って、大聲で叫んでるらしく口を打開き、その紙を通行人等が奪ひ合ってる のが、見て取られるやうにも思はれた。 ) ー市の大時計が八時半を打ってる時に、私逹はコンシェルジュリ ーの中庭に着いた。その 大きな階段、その黑い禮拜堂、その多くの不氣味な潜戸などを見て私は縮み上った。馬車が止っ た時には、自分の心臟の鼓動も止りかゝってるやうな氣がした。 私は力を振ひ起した。馬車の扉は電光のやうな速さで開かれた。私はその移動監房から飛び降 りた。そして二列の兵士等の間を穹窿の下へ、大胯にはひりこんでいった。私の通り路には既に 人だかりがしてゐた。