私は眼をふさいで、その上に兩手をのせて、忘れようとっとめた、現在を過去のうちに忘れよ うとっとめた。そして夢みながら、自分の幼年時代や靑年時代の思ひ出が、今頭の中に渦卷いて る暗い錯雜した考への深淵の上の花の小島のやうに、隱かな靜かな嬉々たる姿で一つ一つ浮んで くる。 子供の折の自分自身が見える。にこやかな元氣な小學生で、自然な庭の廣い綠の徑で、兄弟逹 と遊び駈けり叫んでゐる。私はそこで幼時の幾年かを過したのたった。以前は女修道院の構内だ グラースの黑すんだ圓屋根の錯の頭が聳えてゐる。 った庭で、上にはヴァル・ド。 宍には、四五年後の自分が見える。やはりまた子供ではあるが、もう夢想的に情熱的になって ゐる。寂しい庭には一人の少女がゐる。 「あゝ、此處から出るためちゃないだらうね。 私は萬事駄目だと悟った。それでも最後の努力をやってみた、無益にもそして無謀に 「そのためた。」と私は云った。「然し君は財逢が出來るし : : : 」 彼は私の言葉を遮った。 「いや / ! どうも ! わしの番號たって、いゝのが分るには君が死ななくちゃいけない。」 仄見えた希望が一層完全に消えてしまって、私はむつつりとまた腰を下した。
如何に人を邪惡にすることか。 私は一つの監房に迚れ込まれた。そこには四方の壁があるばかりだった。固より、窓には多く の鐵棒がはまってをり、扉に多くの閂がかゝってるのは、云ふまでもないことである。 私は卓子と椅子と物を書くに必要なものとを求めた。それはみな持って來られた。 次に私は寢床を一つ求めた。看守はびつくりした眼付で私を見た。「何になるんた ? 」といふ ゃうな眼付たった。 それでも、彼等は片隅に十字寢臺を一つ擴げてくれた。然しそれと同時に、私の室と彼等が云 ってる監房の中に、憲兵が一人やって來て腰を据ゑた。私が蒲團の布で首をりはすまいかと彼 等は氣消ったものらしい。 おゝ私の可哀さうな小さな娘よ ! これから六時間、そしたら私は死ぬんだ。私は或る穢らは しいものとなって、醫學校の冷い卓子の上に投出されるだらう。一方では頭の型を取られ、他方 では胴體が解剖されるたらう。さうした殘りは棺に一杯つめこまれるだらう。そして几てがクラ
その時、彼が私に差出してる煙草入は間を距ててる金網にあたった。それも、馬車の動搖のた めに可なり激しくぶつかって、開いたまゝ憲兵の足の下に落ちた。 「金網の奴め ! 」と執逹史は叫んた。 彼は私の方へ向いた。 「これはどうも、困りました。煙草をすっかりなくして ! 」 「あなたよりもっと多くのものを私はなくしてゐます。」と微笑みながら私は答へた。 彼は煙草を拾はうとしながらロの中で呟いた。 「私よりもっと多くのものだって ! 云ふだけなら容易いさ。パリ 1 まで煙草なしとは、ひど いことだ。」 その時敎誨師は彼に少し慰めの言葉をかけた。私は他に氣を向けてたかも知れないが、とにか くそれは私には、私が初め受けてた説敎の續きのやうに思はれた。そして少しづつ、牧師と執 吏との間に會話が始まっていった。私は彼等の方を話すまゝにさしておいて、自分の方では考へ 始めた。 市門に近づいてゆくと、やはり私は他に氣を奪はれたには違ひないが、パ ーが平素よりも騷 騒しいやうに思へた。 馬車は一寸入市税關所の前に止った。市の税關吏が馬車を檢査した。もし羊か牛かを屠殺所に 運ぶのたったら、彼等に金袋を一つ投げ出さなければならないだらう。然し人間の百は常然何も
んで、その金帽子の猫共の爪に押へられた。そして此處に連れて來られた。俺はもう梯子のどの 段も通ってきて、たゞおしまひの一段が殘ってるだけたった。ハンカチを一つ盜むのも、人を一 人殺すのも、もう俺にとっちや同じことたったんだ。もう一つ再犯が重るってわけだ。百刈人の ところを通るより外はねえんだ。裁判は簡單に片づいちゃった。全く、俺はもう老いばれかけて るし、もうやくざ者になりかけてる。俺の親父は後家をめとったし、俺は無念の刃のお寺に引 込むんだ。 さういふわけさ、お前 ! 」 私は惘然として聞いてゐた。彼は初めの時よりなほ高く笑ひだして、私の手を執らうとした。 私は嫌悪の餘り後に退った。 「お前は、」と彼は云った、「元氣らしくねえよ。死に目にびく / \ するもんちゃねえ。そりや あ、お仕置場で一寸の間は辛えさ。だがちきに濟んちまはあ。俺がそこでとんば返りをするとこ ろをお前に見せてやりてえもんたな。全くだ、今日お前と一緒に刈取られるんなら、俺は上告を 止しちまひてえ。同じ牧師が俺達二人に用をしてくれる。お前のお餘りを頂いてもいゝさ。ねえ 俺はいゝ兒だらう。え、どうだ、仲よくさ ! 」 彼はなほ一歩私に近寄ってきた。 「どうかあなた、」と私は彼を押しのけながら答へた、「有難う。」 その言葉で、彼はまた笑ひ出した。 「ほゝう、あなた、あなた樣は侯爵かね、侯爵たな。」
「どうです ? 」 私は實際のところ、初めは貪るやうに、次には注意深く、次には心をこめて、彼の言葉に耳を 傾けてたのたった。 私も彼と共に立上った。 「ど、フか、」と私 . は答へオ禾・ こ、「ムを一人きりにしておいて下さい、お願ひです。」 彼は尋ねた。 「いっ戻ってきたら宜しいですか。」 「私の方からお知らせしませう。」 すると彼は出て行った。別に怒ってる風はなかったが、頭を振りながら、丁度かう自ら云って るがやうたった。 「不信仰者だ ! 」 いや、私は如何にも低く墮ちてはゐるが、不信仰者ではない。私が神を信じてゐることは、神 が知ってゐる。一體彼は、あの老人は、何を私に云ったか。本當に感じたもの、心を動かしたも の、涙のにじんだもの、魂からちかに出てきたもの、彼の心から私の心へと通ふもの、彼から私 へつながるもの、さういふものは一つもなかった。そしてたゞ、或る漠然としたもの、ばやけた もの、萬事にまた萬人に通用出來るものばかりたった。深みを要するところに誇張を持ち來し、 素純を要するところに平明を持ち來した。それは一種の感傷的な説敎であり、御學的な哀歌たっ
Ⅲこから見ると、その塔はも一つの塔を隱してゐる。見えるのは旗の立った塔だけだ。塔の上には 多くの人がゐた。彼等はよく見えたに違ひない。 そして荷馬車は益、、進んでゆき、商店は次々に通りすぎ、看板は書いたのや塗ったのや金色の が引續き、賤しい群集は泥の中で笑ひ躍った。そして私は、眠ってる者が夢のまゝになるやうに、 迚れて行かれるまゝに自分を任した。 突然、私の惧に映ってた商店の軒並は、一つの廣場の角で切れた。群集のはなほ一層賢く甲 高く愉快さうになった。馬車は急に止った。私は俯向に倒れか、った。牧師が私を支へてくれた。 「しつかりなさい、」と彼は囁いた。その時馬車の後部に椅子が持って來られた。牧師は私に 腕をかした。私は降りた。それから一足歩いた。次に向き直っても一足歩かうとした。が足は進 まなかった。河岸の街燈の間に、妻い物を見て取ったのである。 おう、それは現實たった ! 私はもうその打撃を受けてよろめいてるかのやうに立止った。 「最後の中し立てをしたい。」と私は弱々しく叫んた。 彼等は私を此處に連れて來た。 私は最後の意志を書かしてくれと願った。彼等は私の手を解いてくれた。しかし綱はいつでも 私を縛るばかりになって此處にあるし、その他のものは、あすこに、下の方にある。
四 猥褻な小唄の一聯がある。 石に可なり深く刻んである自由の帽子が一つあって、その下にかう書かれてる、「ポリー。 共和。」それはロシルの四人の下士の一人だった。憐れな靑年だ。政治上の所謂必要事なるも のは如何に忌はしいことか。一の観念に對して、一の夢想に對して、一の抽象に對して、斷頭臺 といふ恐ろしい現實をもってくる。而も私でさへ、本當の罪惡を犯し血を流したこの慘めな私で さへ、不平を訴へてゐるのにー 壁の片隅に恐ろしい形のものが白く書かれてる もうこれ以上壁面を探し廻るのを止さう。 のを、私は見て取った。今頃は恐らく私のために立たれてる筈の、あの死刑臺の形た。 私はランプを取落しさうだった。 私は急いで寢藁のところに戻って、頭を族に垂れて坐った。それから子供らしい恐布の念は消 え、異様な好奇心にまた囚へられて、壁面を讀んでゆくことを績けた。 ・ハバヴォアーヌの名前の横で、壁の角に張られ埃で厚くなってるごく大きな蜘蛛の集を、私は オゝ一つの汚點をしか壁面に止めてゐない多くの名前の中に、 拂ひのけた。その蜘蛛の集の下に、こ・ はっきり讀み取れる四五の名前があった。「ドータン、一入一五年。ーープーラン、一八一八年。 カスタン、一八二三年。」私はそれらの名前を讀んだ。 ジャン・マルタン、一八二一年。
なるはど、わけもないことだ、一分間たらすのうちに、一秒間たらすのうちに、事は爲されて しまふ。 が彼等は嘗て、重い刃が落ちて肉を切り神經を斷ち頸骨を碎く瞬間に、そこにゐる 者の代りに自ら身を置いてる場合を、せめて頭の中だけででも考へてみたことがあるか。なに 。呪ふべき哉 ! ほんの半秒の間だ、苦痛はごまかされると : 四 0 妙なことに、私は絶えず國王わことを考える。どんなにしても、どんなに頭を振っても、一つ のが耳に響いて、いつも私に云ふ。 「この同じ町に、 この同じ時間に、而も此處から遠くない處に、も一つの壯大な建物の中に、 やはりどの扉にも番人のついてる一人の男がゐる。お前と同じく民衆の中の唯一の男であって、 お前が最下位にあるのと彼が最上位にあるのとの違ひだけだ。彼の生涯は凡てどの瞬間も、光榮 と權威と愉悅と恍惚ばかりである。彼のまはりは、愛と尊敬と崇拜とに滿ちてゐる。最も高い聲 も彼に話しかくる時には低くなり、最も傲慢な額も彼の前には下に屈む。彼のに觸れるものは 絹と黄金ばかりである。今頃彼は、誰も彼の意に逆らふ者のない閣議に臨んでゐるか、或はまた、 明日の狩獵のことや今晩の舞踏會のことを考へてゐて、宴樂は適宜の時にいつでも得らるゝもの と安心し、自分の快樂のための仕事を他人に任せきりでゐる。所で、その男もお前と同樣に肉と そして、すぐにあの恐るべき死刑臺が取壞されるためには、生 骨とから成ってゐるのだ。
起上って、監房の四方の壁にあちこちランプをさしつけた。文字や繒やをかしな顏や名前などが 一杯書いてあって、互に入組み消し合ってゐる。各囚人がみな、少くとも此處に、何等かの跡を 殘さうとしたものらしい。錯筆のも白墨のも炭のもあるし、黒や白や灰色の文宇があるし、石の 中に深く刻み込まれてるのが多く、血で書かれたかのやうな錆びてる字體も處々にある。確かに 私は、もしも自分の精神がもっと自由だったら、この監の石の一つ / \ の上に、自分の眼の前 一頁づゝ擴がってゆくその不思議な書物に對して、興味を持っただらう。そして私は好んで、 板石の上に散らばってるそれらの斷片的な思想を一つに組合せ、名前の下にそれんその男を見 出し、細斷されてるそれらの記銘に、手足を切り離されてる文句に、頭の缺けてる言葉に、それ を書いた人々と同じく首のないその胴體に、意義と生命とを與へてやったことだらう。 私の枕ほどの高さのところに、一本の矢に質かれて燃え立ってる二つの心臟かあって、「生涯の 愛」とその上に書かれてゐる。不幸なこの男は長い約東はしかねたと見える。 その横には、三つの角のある裄子めいたものがあって、その下に小さな顏が無器用に描かれ、 「皇帝萬歳、一八二四年。」と書いてある。 それからなほ、燃え立った心臟が幾つもあって、監獄の中の特質たるかういふ記銘がついてゐ る、「マティュー・ダンヴァンを愛し崇む、ジャッグ。」 それと反對の壁には、「。ハバヴォアース」といふ名前が見えてゐる。その頭字のの大文字は、 唐草模樣の縁取りがついて入念に飾られてる。
「今日はいゝ天氣たな。」と私は繰返した。 「うむ。」と看守は答へた。「みんな君を待ってるぞ。」 その僅かな言葉は、一筋の絲が蟲の飛ふのを妨げるやうに、私を激しく現實の中に投げ下した 9 そして稻妻の光に照らされたやうに、然私の眼に再び映ってきた、重罪裁判の薄暗い廣間、血 謄い服をつけてる判事等の圓形席、惘然たる顏付をしてる證人等の三列、私のべンチの兩端に控 へてる二人の憲兵、動き廻ってる黑い法服の人々、影の底にうよ / してる群集の頭、私が眠っ てる間中起きてゐた十二人の陪審員等が、私の上にちっと据ゑてる眼付 ! 私は立上った。齒はがた / 鳴り、手は震へて服を探しあてることが出來す、足は弱りきって・ ゐた。一足ふみ出すと、荷を背負ひすぎた人夫のやうによろめいた。それでも私は看守の後につ いていった。 二人の憲兵が監房の入口で私を待受けてゐた。私は再び手錠をはめられた。それには複雜な小 さな錠前がついてゐて、注意深く鍵がかけられた。機械の上にまた機械をつけるのであるが、私 はされるまゝに任した 0 私逹は内部の庭を横ぎっていった。朝の鏡い容氣が私を元氣づけた。私は頭を舉げて歩いた。 睿は靑々としてゐて、暖い太陽の光が、多くの長い煙筒に斷ち切られ、監獄の高い滝暗い壁の上 方に、大きな光の角度を描いてゐた。果して上天氣たった。 私達は螺旋形に廻ってる階段を上っていった。そして一つの臨下に出で、なほも一つの廊下に