106 市廳の一室にて 市廳にてー 私はかうして市廳に來てゐる。呪ふべき道程は爲された。廣場はすぐそこに ある。窓の下には嫌悪すべき人群が吠えてゐる、私を待ってゐる、笑ってゐる。 私は如何に身を固くしても、如何に身を引緊めても、やはり氣が挫けてしまった。群集の頭越 しに、黒い三角刃を一端に具へてるあの二本の赤い柱が、河岸の街燈の間につっ立ってるのを見 た時、私は氣が挫けてしまった。私は最後の中立てをしたいと求めた。人々は私を此處に置いて 1 事か誰かを呼びに行った。私はそれが來るのを待ってゐる。とにかくそれだけ病豫を得るわけ これまでのことを述べておかう。 三時が鳴ってる時、時間だと私に知らせに人が來た。私は六時間前から、六週間前から、六ヶ 月も前から、他のことばかり考へてゐたかのやうに、ぞっと震へた。何だか意外なことのやうな 感じがした。 彼等は私に幾つもの廊下を通らせ、幾つもの階段を降りさせた。彼等は私を一階の二つの潜戸 の間に押人れた。暗い狹い圓天井の室で、雨と霧の日の弱い明るみだけが仄かにさしてゐた。 う遲かった。
獄舍を出ると、典獄は懇切に私の手を握りしめ、それから私の護衞に四人の老兵を加へた。 病室の前を通る時、死にかけてる一人の老人が私に叫んだ。「また逢はうよ。」 私逹は中庭に出た。私は息をついた。それでいくらか樂になった。 長くは戸外を歩かなかった。驛次馬に引かれた馬車が第一の中庭に停ってゐた。私を初め連れ てきたあの馬車である。細長い一種の二愉馬車で、編まれてるのかと思はれるほど目のこまかい 針金の格子が横に通って、二つの部分に分たれてゐる。その二つの部分にはそれみ、、馬車の前 方と後方とに一つの扉がついてゐる。全體が如何にも汚く黒く埃つぼくて、貧乏人の葬式馬車も それに比ぶれば成聖式の母衣馬車ほどになる。 その二棆車の墓の中にはひりこむ前に、私は中庭に一瞥を、壁をも突き崩すほどの絶望の一瞥 を投げた。中庭は樹木の植ゑてある小さな廣場みたいなものだったが、徒刑囚等の時よりもなほ 一層見物人で一杯だった。今からもう人だかりだ ! 鑞にがれた者逹が出發した日と同じに、季節の雨が、細かな冷い雨が、降ってゐた。これを 書いてる今もなほその雨が降ってゐる。恐らく今日中は降るたらう。私の生命よりも長く降り續 道は壞れてゐたし、中庭は泥と水とで一杯だった。その群集をその泥の中に見るのが私には嬉 しかった。 私逹は馬車に乘った、執逹史と一人の憲兵とは前部の室に、牧師と私と一人の憲兵とは後部の
私がどんなことをしようと、それが、その地嶽めいた考 ~ が、いつもそこに控へてゐて、錯の 幽靈のやうに私の側につっ立ち、二人きりなのに嫉妬深く、私のあらゆる氣散じを逐ひ拂ひ、滲 めな私と向ひ合ひ、私が顏を外向けたり眼をつぶったりしようとすれば、をの氷のやうな手で私 を搖ふる。私の精神が逃出さうとするところには何處にでも、あらゆる形となって滑りこんでき、 人が私に話しかくるどの言葉にも、恐ろしい極り文句として交ってき、監獄の呪はしい鐵門に私 と一緒にしがみつき、眼覺めてる間中松に附躔ひ、ぎくり / 、とした私の眠りを窺ひ、そして夢 の中にも百切庖丁の形となって現はれてくる。 私はそれに追っかけられ、はっと眼を覺まして考へる。「ああ、夢なんだ ! 」ところが、重い眼 を漸く開きかけて、自分を取り卷いてる恐ろしい現實の中に、監房の濕つばいじめ / 、した床・ 石の上に、夜燈の蒼ざめた光の中に、衣服の布の荒い織絲の中に、監嶽の鐵門越しに彈薬盒が光・ ってる警護兵の陰鬱な顏の上に、リ 至るところに書かれてるその宿命的な考へをよくも見ないうち に、既に一つのドが私の耳に囁くやうな氣がする、「死刑囚 ! 」と。 八月の麗はしい朝のことたった。 もう三日前から、私の裁判は始められてゐた。三日前から、私の名前と私の犯暃とは、毎朝澤・ 山の傍聽人を呼び寄せて、死骸のまはりに鳥が集まるやうに法廷のべンチに集めてゐた。三日前
今はもう私は平靜である。萬事終った、すっかり終った。典獄が訪れてきたため恐ろしい不安 に陷ったが、もうそれからも出てしまった。打明けて云へば、前には私はまだ希望を懷いてゐた。 今や、有難いことには、もう何の希望もなくなった。 次のやうなことが起ったのである。 私の監房の扉はまた開かれた。褐色の 六時半が鳴ってる時にーーーいや、六時十五分だった フロックを着た白髮の老人がはひってきた。老人はフロックの前を少し開いた。法衣と胸飾りと を私は見て取った。老人は牧師だった。 その牧師は監獄の敎誨師ではなかった。不吉なことだった。 彼は好意ある微笑を浮べて私と向ひ合って坐った。それから頭を振って、眼を天の方へ、印ち 監房の天井の方へ擧げた。私はその意をった。 壁は石の監獄であり、この扉は木の監獄であり、あの看守等は肉と骨との監獄である。監獄は一 種の恐ろしい完全な不可分な生物であって、半ば建物であり半ば人間である。私はそれの虜とな ってゐる。それは私を翼で覆ひ、あらゆる襞で抱きしめる。その花崗岩の壁に私を閉ちこめ、そ の鐵の錠の下に私を幽閉し、その看守の眼で私を監視する。 あゝ慘めにも、私はどうなるのであらう ? どうされるのであらう ?
四ことを私は知ってゐる。彼等は私に隱語を話すことを、彼等の言葉で云へば赤舌をたゝくことを 敎へてくれる。それは一般の言葉の上につぎ合した一の言葉であって、見苦しい瘤のやうなもの であり疣のやうなものである。時とすると不思議な力を具へ、恐ろしい光景を見せる。リボンの 上にジャムがあるーー道の上に血がある。後家を娶るーー絞百される。恰も百吊臺の繩は凡ての 被絞首者の寡婦であるかのやうだ。盗人の頭は二つの名前を持ってゐる。考へたり理をこねた り罪惡を勸めたりする時には、ソルポンス大學と云ひ、死刑執行人に切られる時には、切株とな る。また時とすると、通俗喜劇めいた才氣を示すこともある。柳の肩揖 , ーー、屋の負籠。嘘つき 舌。また到るところに絶えす山來の分らない奇體な不思議な醜い下品な言葉が出てくる、鐵 死刑執行人。松ばっくり 叱。押入ーー死刑場。まるでや蜘蛛の言葉のやうだ。その 言葉が話されるのを聞く時には、何か汚らしい埃まみれのもののやうな氣がし、一東の襤褸布を 類の前で打振られるやうな氣がする。 少くともその男逹は私を憐れんでくれる。その男逹だけだ。獄吏や看守や鍵番等はーー、私はそ れを怨むのではないがーー、話し合ったり笑ったりしてゐて、私の前ででも私のことを一個の物の ゃうに話してゐる。 私は自ら云った
スペインの少女で、大きい眼、房々とした髮の毛、淺黒い金色の皮膚、赤い唇、薔薇色の頬、 アンダルージ生れの十四歳の少女ペパ。 一緒に駈け廻っていらっしゃいと、私逹は兩方の母から云はれた。で私逹はぶらついてくる。 おびなさいと私逹は云はれた。で私逹は話をする。同性でない同年配の子供なのだ。 それでも一年前まではまた、私達は一緖に駈けったり爭ったりした。私は小さなベビタと、林 檎の木の一番立派な林檎を奔ひ合ふ。私は小鳥の彙のことで彼女を打つ。彼女は泣き出す。常り 前だ、と私は云ふ。そして二人で一緒に母達のところへ訴へに行く。母逹は大きいで叱り、小 さいで首肯いてくれた。 今ではもう彼女は私の腕によりかゝってゐる。私はひどく得意でひどく感動してゐる。私達は ゆっくりと歩き、低く話をする。彼女は ( ンカチを取落す。私はそれを拾ってやる。二人の手 は觸れ合って震へる。彼女は私に語る、小鳥のこと、彼方に見える星のこと、木立の向うの眞紅 なタ日のこと、或は學校の友達のこと、自分の長衣やリポンのことなど。私逹は無邪氣な事柄を 口にして、そしてどちらも顏を赤らめる。少女は若い娘となってゐる。 あの晩ーー夏の晩たったーーー不、、 ム達は庭の奥のマロニエの木の下にゐた。いつもよく散歩の間中 績く長い沈默の後で、彼女は矢然私の腕を離れて、駈けませう、と私に云った。 その委がまた私のに殘ってゐる。彼女は祖母の喪のためにすっかり黒の服裝だった。彼女の 頭に子供らしい考へが浮び、ペパはまた小さな。ヘビタとなって、私に云った、駈けませう !
それから次に、をかしなことがあった。 私についてる善良な老憲兵は取除かれた。私は恩知らすに得手勝手にも彼に握手をさへしてや らなかった。彼と交替に他の憲兵が來た。額のひしやげた、眼の太い、無能な顏付の男だった。 それにまた、仏はすこしも注意を拂ってゐなかった。扉に背を向け、子の前に坐って、手で 額を冷さうとしてゐた。いろんな考へに頭が亂れてゐた。 肩を輕く叩かれて、私は振向いた。それは新たに來た憲共で、室の中に私は彼と二人きりたっ ほゞ次のやうな風に彼は私へ話しかけた。 君には親切があるかね。」 ない。」と私は云った。 ぶつきらばうな私の返辭に、陂はまごっいたらしかった。それでもまた彼はためらひながら云 「すき好んで不親切なんて者はある筈はない。」 「なぜないんだ。」と私は答へ返した。「それだけの話だったら、放っといてくれ給へ。一體何 私はそこに、彼が間ってた石の一つのやうにちっとしてゐた。 、 ) 0
101 「ねえ、マリー 、」と私は彼女の小さな兩手を一緒に自分の手の中に挾んで云った、「お前は私 をちっとも知らないのかい。」 彼女はその美しいで私を佻めて、そして答へた。 コんゝさ、フよ。」 「よく見てごらん。」と私は繰返した。「なんだって、私が誰だか分らないのかい。」 「えゝ。」と彼女は云った。「をちちゃまよ。」 あ、、世にたゞ一人の者だけを熱愛し、全心を傾けてそれを愛し、それが自分の前にゐて、向 うでもこちらを見また佻め、話したり答へたりしてるのに、こちらが誰であるか知らないとはー その者からだけ慰安を求めてゐて、花に、 カゝってるので、その者を必要としてるのに、向うはそ れを知らない世にたヾ一人の者であらうとは ! 「マリー、 」と私はまた云った、「お前には。、。、・、 / / 力あるの。」 「えゝ。」と子供は云った。 「では、今どこにゐるの。」 彼女はびつくりした大きな眼を擧げた。 「あゝをちちゃま知らないの。死んだのよ。」 それから彼女はを立てた。私は彼女を危く取落さうとしたのだった。 「死んだって ! 」と私は云ってゐた。「マリー、 死んだとはどういふことか知ってるのかし」
せんからね。」 私はすっかりさう云って、それからしつかりした聲で績けた。 「讀んで下さい。」 彼はその長い主文を、各言葉の眞中ではためらふやうに、各行の終りでは歌ふやうにして、私 に讀んできかした。それは私の上告の却下だった。 「判決は今日グレーヴの廣場で執行されることになってゐます。」と彼は讀み終へた時まだそ へ出かけるのです。 の公文書から眼を擧げないで云ひ添へた。「正七時半にコンシェルジュリー 私と一緒に來て頂けますか。 少し前から私はもう彼の言葉に耳をかしてゐなかった。典獄は牧師と話をしてゐた。執逹史は その公文書の上に眼を据ゑてゐた。私は扉の方を佻めてゐた。扉は半開きのまゝになってゐた あゝ、淺ましくも、廊下には四人の銃卒がー 執逹史は此度は私の方を見ながらその問を繰返した。 「えゝいつでも。」と私は答へた。「御都合次第で。」 彼は私に會釋しながら云った。 「三十分ほど後に、迎ひに參りませう。 そこで彼等は私一人を殘して出ていった。 逃げる方法が、あゝ、何等かの方法がないものか。私は脱走しなければならない。是非とも、
間、或は六週間たってるかも知れない。そして、三日前が木曜日たったやうた。 私は遣書を書いた。 でもそれが何になるか。私は訴訟費用負擔を云ひ渡されてる。そして私の家産はそれにも足り ないたらう。斷頭臺、それは如何にも高價なものた。 私の後には、一人の母が殘る、一人の妻が殘る、一人の子供が殘る。 三歳の小さな女の子で、薔薇色でやさしく弱々しく、黑い大きな眼をし、栗色の長い髮を生や してゐる。 最後に私が見た時は、その子は二年と一ヶ月だった。 かくて、私の死後には、子がなく夫がなく父がない三人の女が殘る。各種の三人の孤獨者だ。 法律から作られた三人の寡婦だ。 私は自分が正當に罰せられてることを認める。然しそれら三人の無辜の者は、一體何をしたの か。たゞ無鐵砲に、彼等は不名譽を擔はせられ、破減させられる。それが正義なのだ ! 年老いた憐れな母のことを私は心配するのではない。彼女はもう六十四歳になってゐて、この 打撃で死ぬだらう。或はなほ數日生き存らへるとしても、最後の間際までその懷艫の中に多少の 温い灰がありさへすれば、何にも不平をこばさないだらう。