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検索対象: 死刑囚最後の日
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1. 死刑囚最後の日

和徒刑囚等の恐ろしいがなほ身近に聞えるやうな氣がした。彼等の醜惡な顏がもう窓の縁に覗き 出してるやうに思へた。私は再度苦悶の叫び聲を立てて、氣を失って倒れた。 一四 私が我に返った時は、もう夜だった。私は相末な寢臺に寢かされてゐた。天井にゆらめいてる ランプの光で、私の兩方にも他の粗末な寢臺の並んでるのが見られた。私は病室に移されてるの たといふことが一分っオ 私は暫くの間眼を覺ましてゐたが、何の考へもなく何の思ひ出もなく、たゞ寢臺に寢てるとい ふ幸に浸りきってゐた。確に、他の時だったら、この監獄の病室の寢臺に對して私は不快さと なさけなさの爲めたじろいだらう。然し私はもう以前と同じ人間ではなかった。覆ひ布は灰色て 手觸りが荒く、毛布は貧弱で穴があいてをり、蒲團越しに下の蒲團が感じられはしたが、それ でも、そのひどい覆ひ布の間に、私の手足は自由にくつろぐことが出來、どんなに薄からうとそ の毛布の下に、私がいつも覺ゆるあの骨の髓の恐ろしい寒さは次第に渭えてゆくのが感じられた。 私はまた眠った。 ひどい物昔に私はまた眼を覺ました。夜が明けかゝってゐた。物音は外から聞えてゐた。私の 寢臺は窓の側にあった。私は體を起して、何事かと眺めた。 窓はビセ ートルの大きい中庭に面してゐた。その中庭は人で一杯たった。二列に立並んでる老

2. 死刑囚最後の日

引 「用意はしてゐますか。」と彼は私に云った。 私は弱いで答へた。 「用意はしてゐませんが、覺悟はしてゐます。」 それでも、私の視線は亂れ、冷い汗が一度に全身から流れ、顳類のあたりが脹れ上る氣がし、 ひどい耳鳴りがした。 私が眠ったやうに椅子の上にぐらついてゐる間、善良な老人はロを利いてゐた。少くとも口を 利いてるやうに私には思へた。その唇が震へその手が動きその眼が光ってるのを、私は見たやう に覺えてゐる。 扉は再度開かれた。その閂の音で、私は惘然としてたのから我に返り、老人は話を止めた。 い服をつけた相常な人が、典獄を從へてやってきて、私に丁寧に會釋をした。その産は、葬儀係 りの役人めいた或る公式の悲哀を帶びてゐた。彼は手に一卷の紙を持ってゐた。 「私は、」と彼は慇懃な徴笑を浮べて私に云った、「パリー法廷づきの執達史です。檢事長殿か らの通牒を持って來ました。」 最初の惑亂はもう過ぎ去ってゐた。私はすっかり元の沈着に返ってゐた。 こ。「通牒を書いてくれたのは、 「檢事長がそんなに私の百を欲しがったのですか。」と私は答へオ 私にとって光榮の至りです。私の死が彼に大きな喜びを齎さんことを希望します。彼があれほど 熱心に要求してる私の死が、實は彼にとってどうでもよいことたなどとは、如何にも考へられま

3. 死刑囚最後の日

近い頃、私は或る忌はしいものを見た。 また夜が明けるか明けないうちだったが、監嶽中が騷々しくなった。重い扉の開いたり閉ちた りする音、鐵の閂や海老錠の軋る音、看守の帶に下ってる鍵東のがちゃっく音、階段の上から下 まで慌しい足音、長い廊下の兩端から互に呼び合ひ答へ合ふ、などが聞えた。私の近くの幽閉 訂監房の者達、戒囚逹は、平素より一層陽氣になってゐた。ビセートルの監獄全の者が、笑ひ しつけてゐた 6 私は恐ろしさの餘り眼を閉ちた。するとなほはっきり凡てのことが見えてきた。 夢にせよ、幻にせよ、現實にせよ、とにかく私はも少しで氣が狂ふところたった。が、丁度折 よく、突然或る感じが私を覺ましてくれた。仰向けに倒れかゝった時、或る冷い腹と毛の生えた 足とが自分の裸の足の上を通ってゆくのを感じた。それは私に邪魘されて逃げてゆく蜘蛛だった。 いやそれは一の煙であり、痙攣し そのために私は我に返った。 おう恐ろしい亡靈共 ! てる虚な私の頭腦の想像だった。マグベス式の幻だ ! 死者は死んでゐる、殊に彼等はさうだ。 墳墓の中に入れられて錠を下されてる。それは監嶽と違って脱走は出來ない。私があんなに恐怖 を覺えたのはどうしたわけか。 墓穴の扉は中部から開くことは出來ない。

4. 死刑囚最後の日

私がどんなことをしようと、それが、その地嶽めいた考 ~ が、いつもそこに控へてゐて、錯の 幽靈のやうに私の側につっ立ち、二人きりなのに嫉妬深く、私のあらゆる氣散じを逐ひ拂ひ、滲 めな私と向ひ合ひ、私が顏を外向けたり眼をつぶったりしようとすれば、をの氷のやうな手で私 を搖ふる。私の精神が逃出さうとするところには何處にでも、あらゆる形となって滑りこんでき、 人が私に話しかくるどの言葉にも、恐ろしい極り文句として交ってき、監獄の呪はしい鐵門に私 と一緒にしがみつき、眼覺めてる間中松に附躔ひ、ぎくり / 、とした私の眠りを窺ひ、そして夢 の中にも百切庖丁の形となって現はれてくる。 私はそれに追っかけられ、はっと眼を覺まして考へる。「ああ、夢なんだ ! 」ところが、重い眼 を漸く開きかけて、自分を取り卷いてる恐ろしい現實の中に、監房の濕つばいじめ / 、した床・ 石の上に、夜燈の蒼ざめた光の中に、衣服の布の荒い織絲の中に、監嶽の鐵門越しに彈薬盒が光・ ってる警護兵の陰鬱な顏の上に、リ 至るところに書かれてるその宿命的な考へをよくも見ないうち に、既に一つのドが私の耳に囁くやうな氣がする、「死刑囚 ! 」と。 八月の麗はしい朝のことたった。 もう三日前から、私の裁判は始められてゐた。三日前から、私の名前と私の犯暃とは、毎朝澤・ 山の傍聽人を呼び寄せて、死骸のまはりに鳥が集まるやうに法廷のべンチに集めてゐた。三日前

5. 死刑囚最後の日

あゝ然し、やはり同じことだー 四ニ 私は眠らして貰ひたいと賴んで、寢床の上に身を投出した。 實際私は頭に鬱血してゐて、そのために眠った。それは私の最後の眠り、この種の最後の眠り 私は夢を見た。 夢の中では、夜だった。私は自分の書齋に二三の友人と坐ってゐたやうだ。どの友人かは覺え てゐない。 妻は隣りの寢室に寢て、子供と共に眠ってゐた。 私達、友人等と私とは、低いで話をしてゐた。そして自分の云ってることに自分で恐がって ゐた。 突然、どこか他の室に、一つのが聞えるやうだった。何たかはっきりしない弱い異樣な昔た 友人等もと同じくそれを聞いた。私達は耳を澄ました。ひそかに錠前を開けてるやうな、こ っそり閂を切ってるやうな音たった。 何だかぞっとするやうなものがあって、私達は恐かった。この夜史に盗人共が私の家へはひり

6. 死刑囚最後の日

5 し , 刀 A 」・ 私は戦栗を覺えた。 今日なんだ ! 典獄も自分で私を訪れてきた。私の意にかなふ爲になることをしてやりたいが何かないかと尋 ね、彼やその部下の者逹を怨むことのないやうにと希望する旨を述べ、私の健康のことや前夜を どういふ風に過したかといふことを、興味深く聞きたゞした、そして別れ際に、私を君と呼んだ。 今日なんだ ! 彼獄史は、私が彼やその部下の者等を怨むべきところはないと思ってゐる。道理なことだ。怨 みに思へば私の方が惡いだらう。彼等はその職務をつくした。私を立派に保護した。その上、私 が到着の時と出發の時には丁寧だった。私は滿足すべきではないか。 この善良な獄史は、その程よい微笑と、やさしい言葉と、慰撫し且っ探索する眼と、太い大き な手とを以てして、全く監獄の化身であり、ビセートルが人間化したものである。私の周圍は凡 て監獄である。あらゆる物の形に監獄がひそんでゐる、人間の形にも、鐵門や閂の形にも。この 今日なんたらうか ?

7. 死刑囚最後の日

、お前は字が讀めるの。」 「え、。」と彼女は答へた。「ちゃんと讀めるわ。ママは私に假名を讀ませるの。」 「では、少し讀んでごらん。」と私は云ひながら、彼女が小さな片手に揉みくちゃにしてる紙 口を指さした。 彼女はその可愛い頭を振った。 「あ、、お伽噺きり讀めないの。」 「でも讀んでごらん。さあ、お讀みよ。」 彼女は紙を擴げて、指で振假名を一字々々讀み始めた。 「は、ん、け、つ、はんけっ・ 私はそれを彼女の手から攜み取った。彼女が讀んできかせてるのは私の死刑宣告文だった。女 中がそれを」スーで買ったのだ。が、私には遙かに高價なものだった。 私がどういふ氣持を覺えたかは、言葉にはつくされない。私の激しい仕打に彼女は慴えてゐた。 殆んど泣出しかけてゐた。が、突然私に云った。 「紙を返してよ。ね、今のは嘘ね。」 私は彼女を女中に渡した。 「迚れていってくれ。」 そして私は陰鬱な寂しい絶望的な氣持で椅子に身を落した。今こそ彼等はやって來てもよい。

8. 死刑囚最後の日

川私にはもう何の未練もない。私の心の最後の絲の一筋も切れた。彼等が爲さんとする事柄に私は 丁度ふさはし、。 四四 牧師は善良な人だし、憲兵もさうである。子供を連れていってほしいと私が云った時、彼等は 一滴の沢を流したやうたった。 濟んだ。今や私はしつかりと身を持しなければならない。死刑執行人のこと、護送馬車のこと、 憲兵等のこと、橋の上の群集、河岸の上の群集、人家の窓の群集のこと、そこで落ちた人の頭が 鋪きつめてあるかも知れないあの痛ましいグレーヴの廣場に、私のために特に備〈られる物のこ と、それをしつかりと考へなければならない。 さういふものに對して覺悟をきめるために、また一時間ほどあると私は思ふ。 四五 群集はみな笑ふだらう、手を叩くだらう、喝采するだらう。而も、喜んで死刑執行を見に駈け てくるそれらの自由なそして看守などを知らない人々のうちには、その廣場に一杯になる群立っ た頭の中には、私の頭の後を追っていっかは赤い籠の中に轉げ込むやうに運命づけられてる頭が、 一つならすあるだらう。私のために共處へ來てるがやがて自分のために共處へ來るやうになる者

9. 死刑囚最後の日

「あゝこれで、返辭をするたらうな、嵬め。誰たお前は ? 」 彼女の眼は獨りでに閉ちるやうにまた閉ちてしまった。 「これはどうも、あまりひどい。」と友人等は云った。「もっと蠍燭をつけてやれ、もっとやれ。 是非とも口を利かせなくちゃいけない。」 私はまた老婆の頤の下に火をさしつけた。 すると、彼女は兩方のを徐々に開き、私逹一同を交る代る佻めて、それからふいに身を屈め ながら、氷のやうな息で蝋燭を吹き消した。と同時に、暗闇の中で、私は三本のい齒が手に物 みつくのを感じた。 私は震へ上り冷い汗にまみれて、眼を覺ました。 善良な敎誨師が寢臺の裾の方に坐って、祈書を讀んでゐた。 「私は長く眠りましたか。」と彼に私は尋ねた。 「あなた、」と彼は云ったゞ一時間眠りましたよ。あなたの子供が迚れて來てあります。隣り の室にゐて、あなたを待ってゐます。私はあなたを呼び起したくなかったのです。」 「おう ! 」と私は叫んだ、「娘、娘をれてきて下さい。」 彼女は生々として、薔薇色で、大きな眼を持ってゐて、美しいー

10. 死刑囚最後の日

一人の慘めな男の最後の告白たるこの手記もその一助となって : ・ せめて、私の死後、これらの紙片が泥にまみれて監獄の中庭で風になぶらるゝことさへなけれ ば、或は、看守の硝子戸の破れ目に點々と貼られて雨に朽ちることさへなければ : 私が茲に書いてるものが他日他の人々の役に立たんこと、判決しようとする判事を引止めんこ と、無罪にしろ有罪にしろ凡て不幸な人々を私が受けたこの苦惱から救はんこと、さう願ふのは 何故か、何のためになるか、何の關係があるか。私の百が切れてしまった後で他の人々の百が切 られることが私に何の係りがあるか。右のやうな馬鹿げたことを私は本當に考へ得るのか。自分 がそれに上った後で死刑臺を打倒す ! それが一體私に何を齎してくれるものか。 さうだ、太陽、春、花の吹き滿ちた野、早朝眼覺むる小鳥、雲、樹木、自然、自由、生命、凡 てそれらはもう私のものではない。 それが出來ないといふのは、明日にも或 あゝ、私自身をこそ救はなければならないのた。 は恐らく今日にも死ななけれはならないといふのは、さうしたものだといふのは、まさしく本當 なのか。おう、それを思ふと、自分の監獄の壁で自ら頭を打碎きたくなるほど恐ろしいことた。