キャビン - みる会図書館


検索対象: 漁火医者
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1. 漁火医者

漁師の奥さんが、キャビンから顔をのぞかせて、勘高い声をあげた。この地方では、分からすや、 がんこ者のことを榛の木にたとえる。裕三は、患者達の使っているこの方言を、なんどか聞いている。 奥さんに榛の木と決めつけられて、漁師は憮然とした顔でデッキを離れた。裕三は、はっと胸をな でおろしながら、漁師の後からキャビンにもどっていった。 2 「今年は、すけそはどんなもんかね」 「この氷じゃ網も張れないしな、漁が少し遅くなるんでないの、そのかわり鮃が大漁だ」 まつのり 「そういえば、松法の船が、三〇キロの大鮃をあげたんだって」 「そりや、でかいや、そんなの十枚もあげたら、船の親方はほくはくだ」 「ほんとだな、船もってるとこは、この冬はけっこういい仕事したみたいだな」 羅臼の港が近づくと、キャビンのなかは急に活気づいた。 客は、地元の漁師が多いらしく、話題は漁の話ばかりである。 裕三は、キャビンの入り口に一番近いところに座り、眼をつぶって乗客達の話を聞いていた。 ち 立もうすでに、この小さな船で三時間近く揺られている。釧路をたってから、八時間の旅だ。さすが のに疲れた。 それに、キャビンの居心地がすこぶる悪いことも、よけい、疲れを覚えさせるようだ。

2. 漁火医者

六畳間ほどのにわか造りの客室は、真ん中にルンペンストープが置かれ、そのストープを取り囲む ござ ように、茣蓙が敷かれてある。 部屋の一番奥まったところには、二段のべッドがあしらってあって、ここにもやはり茣蓙が敷いて あった。 ざこ寝をすれば、四人は横になれそうだ。 この狭いキャビンに、乗客が十二、三人詰め込まれていたから、頬を真っ赤に染めて燃えさかるル ンべンストープの熱気と、人いきれで、キャビンのなかは息苦しいほどであった。 客室の隣は、壁一枚をへだてて操舵室になっている。床は、機関室の天井のようであった。だから、 早鐘を打っ心臓の鼓動のような焼玉エンジンの音や、操舵室から機関室に出す合図の鐘の音が、手に 取るよ、つに聞こえてくる。 そろそろ、船の旅も限界に近い。腰まで響いてくる不快な振動音に、裕三は飽き飽きしていた。 夫婦連れの漁師は、奥のべッドで仮眠をとっていたが、キャビンの小窓に羅臼の街の灯がちらっき はしめると、起きてきた。 その姿を見て、乗客のひとりが聞いた。 「あんたも、根室の病院まで通うの大変だね、、つこ ) 、 しオしどこか亜いのかね」 「たいしたことないんですよ、この人、神経質なもんだから、ちょっと大きな病院で診てもらっただ けなんですよ、その方が安心ですからね : : : 」

3. 漁火医者

標津の浜から小さな新で、この羅臼までの定期船に乗り移った頃には、陽はすでに西に傾きかけて 四〇キロはどの水路が三時間とは、おそろしく遅い船足だが、三トンにも満たない小さな漁船を、 冬の間だけ客を運ぶ定期船に仕立てたものでは、贅沢は言えまい うろこ 甲板にこびりついた魚の鱗や、ほのかに漂ってくる磯の香りからは、漁師達の息使いが聞こえてく るようであった。 裕三は、いったんキャビンに入ったが、船が走り出すと、どうも腰が落ち着かない。初めのうちは 首をのばして、キャビンの小さな窓から、海を見ていたが、そのうち、たまらす、デッキに飛び出し ていた。 ひと冬でいいから、流氷のくる街で過ごしてみたい。それは、医専時代から抱きつづけてきた、裕 ちゅうちょ 三の夢だった。だから、卒業が近づいて、実習病院を決めなければならなくなった時、彼は躊躇せ ずに、北国の病院を選んだ。 もっとも、ほとんどの卒業生が、九州の病院でインターンをすることに決めていたから、親兄弟を 立説得して、鹿児島を出るのは、骨が折れた。 の汽車と船を乗り継いで、三日もかかる遠い土地に、息子が住もうとしていると知った母は、血相を 冬 変えて反対したものだ。やがて、その怒りは涙に変わった。母には、父を戦場で失って、苦労を強い 7

4. 漁火医者

「しばれるでしよ、なかに入らないと、しもやけにでもなったら大変だ」 ふいに声を掛けられて振りむくと、毛糸で編んだタコ帽子をすつばりと頭からかぶり、眼だけを出 柔和な眼から、裕三の赤くなった耳のあたりに、まっすぐに視線がの した、初老の男が立っていた。 びている。裕三は、思わす両手で耳を覆いながら、笑みを返した。 男はキャビンで隣合わせに座った、夫婦連れの客であった。漁師だといっていたが、どこかからだ の具合でも悪いのか、根室の病院からの帰りのようだった。 「このぶんだと、あの氷は夜中のうちには、浜までびっしり寄せてしまうでしようよ、明日は、定期 船は欠航だ」 男は、裕三と肩を並べて沖を見つめながら、自信ありげにうなすいた。 漁師なら、流氷の接岸を予想出来るのかもしれない。彼は手袋を脱ぐと、右手をかざして風向きを もう一度大きくうなすくと、気の毒そうに裕三を見た。 確かめていたが、 「四、五日は羅日に缶詰めになるでしようが、旅行ですか」 このあたりでは見馴れぬ顔の裕三に、興味があるらしい しげしげと、裕三の横顔を見つめながら、 「学生さんでしよ」 と訊い 「ええ、まあ」

5. 漁火医者

「ええ、なんとか : 裕三が腰のあたりをさすりながら、ロをゆがめると、漁師の顔いつばいに笑みが広がった。この厳 しい冬に、都会育ちの人の旅行は無理だといわんばかりの表情である。 「宿はきめてるのかい」 「、疋、疋、まあ : : : 」 「なんだったら、わしの親戚が旅館やってるんだけど、そこへ泊るかい」 「いや、けっこうです、泊るところは大丈夫なんです」 親切な男もいるものだ。今夜の泊る宿まで心配してくれるのだ。あるいは、学生と思い込んでいる ので、よけい親切にしてくれるのかもしれない。 それにしても、うまく学生に化けたものだ。いすれ、小さな村のことだから、すぐ正体がばれるだ ろう。その時の漁師の驚いた顔を想像すると、おかしかった。 焼玉エンジンの音が静かになった。いよいよ羅臼の港が近いらしい ひとり、ふたり、 乗客が荷物を手にキャビンから外に出はじめた。そのたびに、厳しい寒気が、頬 を打つ。裕三は、コートの襟を立てて腰を上げた。 ち 位腕時計を見ると、四時を過ぎている。根室標津を出てから、ちょうど三時間経っている。遅い船だ の が、鉄道なみに、運行時間の正確なことに驚く。 冬 裕三も、乗客達のあとにつづいて外に出る。

6. 漁火医者

は、相手にされないことが多いものだ。でも、志村事務長は違う。 あの事務長なら、明日からの仕事に、何かと相談相手になってくれるに違いない。 裕三は、 ) しくらか気持にゆとりが出た。彼が用意したタオルと石けんを持って、風呂場に向かった。 その夜、裕三は九時頃布団にもぐり込んだ。 だが、気持が高ぶっていて、なかなか寝つかれなかった。 しようじ 電気を消すと、障子に赤々と、ルンペンストープの火が映っている。 このあたりでは、船のキャビンも旅館の部屋も、ルンべンを暖房に使っている。 八畳ほどの客間は、ほどよく暖まって、外の厳しい寒気がうそのようだ。 窓の向こうは、オホーックの海である。風が時折、窓をたたいているが、潮騒の音は聞こえなかっ 四、五時間眠っただろうか、裕三は目が覚めた。 のうり ふと、船のなかで一緒だった、夫婦連れの漁師が、自信ありげに言った言葉が、脳裡をかすめた。 冲に、白い線となって広がる流氷は、はたして、接岸しているだろうか。 裕三は、布団を脱けだすと、眼をこすりながら、そっと障子を開けてみる。障子の外は二重のガラ ス窓で、内側のガラスは部屋の暖かさのせいか曇っていた。寝巻の袖で、そのくもりをふき取る。 その瞬間、白銀の海が眼にとび込んできた。 月が出ているらしい

7. 漁火医者

あいまいに応えながら、裕三は胸のうちで苦笑した。 小柄の上にばさばさ頭だから、二十四歳という年よりは、若く見えるのかもしれない。 「わしの甥っ子にも 、札幌の学校へ行ってるのがひとりいるんだけど 裕三を見る、男の眼に親しみがこもった。 彼がキャビンにいる時から、さかんに話しかけてくる理由が、それでようやく分かった。裕三を学 生と思い込んでいる彼の眼に、その甥の姿が浮かんでいるのだろう。 「まだ中学だけど、勉強の好きな子でね、将来は医者になるって頑張ってるんですよ」 よほど甥のことが自慢らしく、男は眼を細めた。 「中学から札幌ですか : 裕三には意外であった。戦前ならともかく、今ではどこの村や町にも新制中学が置かれている。わ ざわざ中学から札幌まで出ることもあるまい。裕三が首を傾げていると、 「この村にいては、医者にはなれませんでしよ」 男は自嘲するように言った。札幌に出るのに二日がかりの僻地では、子供を教育するのも想像以上 に大変なのかもしれない。 ち 立「しかし、あの子もあの子の親もこれから先が大変だ。このまま順調にいって、大学に入ったって、 の 一人前の医者になるには、何年かかるか分かりやしない。中途半端な勉強させれば、ヤプ医者にしか 冬 ならないだろうし、そうかといって、博士にするには歳月も金もかかる。学生さん、このあたりの村