村長は拳を振りかざして続けた。 : 今、羅臼村は町に飛躍しようとしています。これは、時間の問題であります。この町政を布く 機会に、診療所は国保病院として新築する計画であります。でありますから、あと数年、レントゲン は待っていただいて : : : 」 「ちょっと待って下さい」 裕三は、あわてて村長の言葉をさえぎった。このまま、あと数年も、レントゲン装置がないままで、 患者を診てゆくのは心もとない。 肺炎の診断は、聴診器一本、骨折は手の感触だけで診断するしかない、今の状態では、見立て違い が起こる危険がある。それに、今まで釧路や根室の病院で、結核の治療をしていた患者が、診療所の 評判を聞いて、もどりはしめている。 なにはともあれ、レントゲン設備がほしい。 裕三は、煙草を灰皿に置くと、背を起こして、訴えた。 「レントゲンは、村民の命を守るために、ぜひとも至急入れてほしいのです」 「村民のため : ・・ : 」 氷 . はんすう 流村長は、その裕三の言葉を反芻するように呟くと、 月「分かりました、すぐ入れましよう」 瞳を輝かせて、立ちあがった。
それよりも、診療所の充実をはかることが、今は切実な問題だった。 患者が増えて、もう人手は限界に達している。 看護婦や事務員を増やさなければ、このままでは、連日のように押し寄せる患者はとてもさばきき れない。それに、医療器具も、新しいものがほしかった。 「レントゲンを入れていただけませんか」 裕三は、思い切って言ってみた。 「レントゲン ? 」 村長は、眼を瞬かせて裕三を見ていたが、すぐポンと膝をひとっ打っと、 「それなんですよ : ・・ : 」 柔和な顔に、笑みを広げて、身をのりだした。 「 : ・・ : 先生もご承知のように、 この三月に、厚生省がの強制接種を決めましたでしよう。今、 我が国が国民の健康のためになさねばならないことは、結核の撲滅でありましよう。そのためには、 先生のおっしやる通り、近代的なレントゲン設備が、我が村にも必要です。今まさに、レントゲンの 設備導入については、鋭意検討する時期が到来しておる : : : 」 しだいに紅潮してくる八田村長の この村長は、根っから政治家に向いている男なのかもしれない。 顔を見つめながら、裕三は感心して、その演説を聞いていた。 : しかるに・
しったいなんだろう、やはり、もう少し早目に、検査をしておくべきであっ あのしこりの正体は、、 患者の意志にまかせて、今まで放置しておいたことが、悔やまれてならない。 ただの、脂肪の塊であってほしい。 裕三は、暗室用のメがネを掛けながら、祈るような気持で、透視の準備が出来るのを待った。 胃のレントゲン装置は、裕三にとっても、患者達にとっても、頼もしい機械だ 今までは、胃や腸のレントゲン検査といえば、根室の病院まで出向かなければならなかった。それ でなくとも胃の調子が悪くて、吐き気や痛みに苦しんでいる患者にとって、これは、大変な負担であ なかには、検査に行ったきり、そのまま症状が落ち着くまで入院して帰らない人もいるらしい 手術の必要な病気なら、それも仕方がないが、胃炎や胃潰瘍で、この村を離れての長い入院生活で は、気が滅入る。 病気は、やはり、家族の顔が見られるところで治すのが一番だ 来透視の機械が入ってから、胃腸の症状を訴えて来院する患者の数が、ぐんと増えている。 メガネで、眼が充分に暗い所に馴れたところで、裕三は、レントゲン室に向かった。 群皐月の手をかりて、鉛の入った放射線防御衣をまとう。肩にすしりと、鉛の重みが加わった。 わ次郎は、すでに検査用の白衣に着がえて、部屋のなかで待っていた。
いすれも、からだの疲労が原因であることは、分かり切っているのだが、裕三は、ひとりひとり丁 寧に診た。 村長に頼んで、肩や腰を暖める最新型の機具も入れてある。 それが、大変な好評を呼んでいて、鮭漁が終り近づくにつれて、患者の数はうなぎ登りに増えてい わ郎が奥さんに連れられて、診察室に姿を見せたのは、師走に入ってすぐの頃であった。 「痛むんですか」 裕三は、眉をひそめて、源次郎の顔を見つめた。 また、少しやせたような気がする。眼の輝きが失せて、覇気がない。以前の源次郎を知っている裕 三には、まるで別人のように見えた。 「先生、新しいレントゲンが入ったんですってね、一度、その機械で調べてもらいましようって言っ て、ようやく納得してもらったんです」 奥さんは、今年になってから診療所に入った、胃の透視ができるレントゲン装置のことを言ってい 来るらしい 「そうですか、ようやく調べる気になってくれましたか」 の方に向けた。 群裕三は、笑みを浮かべながら、横になるように、掌をベッド わ次郎は、覚唐をきめてきたのか、小さくうなすくと、上衣を脱ぎおそるおそるといった様子で、
ドに横たわった。 。ッドに近っ 介助についている皐月が、診察の支度をするのを待って、ヘ 腰をかがめて、源次郎の腹部に掌を当てた瞬間、裕三の顔が曇った。 掌に、なにか触れるものがある。脂肪の塊だろうか。それとも筋肉の緊張のせいだろうか、もう一 度、そっと掌を当ててみる。 やはり、しこりのようである。鳩尾の少し下のところに、確かに硬いものが触れる。 「今朝は、ご飯を食べましたか」 もし、食べていなければ、胃の透視が出来る。 しっと、源次郎の顔を見つめていると、彼はカなく首を横に振った。 「それじゃ、レントゲンで調べてみることにしましようか」 裕三が腰をあげると、検査を受ける覚悟をしてきたらしく、源次郎は大きくうなすいた。 レントゲン室の用意が出来るまで、いったん診察室を出てゆく二人の後姿を見ていると、裕三の胸 で早鐘が打ちはしめた。 どうやら、胆石と診断していたのは、誤診のようだ。 この半年の間に、源次郎のお腹には、大きな変化が現われている。腹部から受ける掌の感触は、ど ことなく胆石のものとは違う。それは、経験の浅い、裕三の手でも、はっきりと区別が出来るほどだ みぞおち 6
皐月は、和広を膝にのせながら、思い出したように言った。 「実はね、あかねさんが結婚するの」 「誰のこと ? 」 「あら、あなた、まだ彼女に会っていなかったかしら」 「職員なの」 「ええ、看護婦よ」 今朝、村長から、診療所長の辞令をもらったばかりだった。 それに、五年前に比べると、職員の数もすいぶん増えている。看護婦や事務員は倍くらいになって いるし、レントゲン技師や厨房の職員も入っていて、 いくらか診療所らしくなっている。朝礼で、一 度くらい顔を合わせても、とても顔を覚えられるものではない。 「とってもいい娘でね、よく家にも遊びに来てくれたわ。和ちゃんもすっかりなついて、来ると離れ ないの。ですから、家でお別れの会をやりたいと思うんですけど : 「ああ、かまわないよ」 「そ、つ、じゃ、さっそく支度をしなくちゃ : 皐月は、嬉しそ、つに声を弾ませた。 「ところで、どこへ嫁ぐの」 「漁師さんよ」 164
これでレントゲン装置の導入は決まりだ。 事務長の話によると、八田村長は、実行力と手腕にかけては、根室管内でも随一、彼の右に出る者 はいないらしい その実力ある村長の約束である。きっと、実現してくれるに違いない。裕三は期待に胸をふくらま せながら、村長を見送った。 翌日から、事務長の仕事が増えた。患者が途切れると、彼は役場に走る。 八田村長が、裕三との約束を実現させるために、事務長を呼びつけているらしい 「病室をひとっ改造して入れることになりますけど、かまいませんよね」 時々、経過報告に来る事務長の顔も、嬉しさをかくしきれない。 「鉛を張って、放射線を防ぐのが大変でしてね、今、その見積りを取っているところなんです」 「それで、いっ頃入るのかな」 今日の外来でも、若い男の患者に、肺結核の疑いが出ている。入れてくれると決まったら、早いに こしたことはない。 「来週はどうだろう」 「それは、無理です」 「じゃ、今月いつばい」 「いやあ、そんなに早くは入りません」
まさか、ひとの子を殴るような真似はしないと思うが、やはり不安は残る。 でも、日出之助がいてくれることは、、い強い。 皐月が気にかけているように、和広は、母親ひとりで育てているようなものだ。皐月にも和広にも、 すまないと思うが、診療に追われている今の裕三には、父親らしいことは、なにひとっしてやれなか 胃の調子は小康状態を保っている。 丿ュウムを飲 昨年の暮れに、浩一に、胃のレントゲン写真を撮ってもらった。生まれて初めて、 んだが、 今までこんなものを患者に飲ませてきたのかと、思わす顔をしかめるほどますかった。 撮影したフィルムを、浩一と二人で検討したが、胃の縁の方に潰瘍の影があった。 少し、発見が遅れたらしい 古い潰瘍の影だった。 裕三に胃潰瘍のあることは、その日のうちに、職員達に知れ渡ってしまった。当然、八田村長の耳 に 9 っ一人った。 火翌日、村長は、病院に飛んできた。 「札幌の、先生のいらした大学病院で切りますか」 漁潰瘍の治りにくいことは、村長も知っているらしく、さかんに手術をすすめた。 「そこまで、悪化しているわけではありませんから、ご心配なく」 221
その、裕三の眼で見ても、源次郎の胃の写真には明らかな異常があった。 息を止めて下さい」 たてつづけに、六枚ほど、写真を撮る。 透視で見逃した病変は、フィルムで注意深く見ることにした。 検査を終って、レントゲン室から出てくると、皐月が、どうでしたかと、眼で訊ねた。 口を一文字にして、小さくうなすくと、彼女の顔に不安な表情が走った。 4 年の瀬も押し詰まった、十二月の末、源次郎は、根室の病院からの報告書を持って、診療所に姿を 見せた。 根室の病院を選んだのは、彼自身であった。 今の、裕三のカでは、癌の病巣を切り取る自信はなかった。胃癌の手術といえば、大手術である。 鹿児島の医専時代から、いくどとなく、その手術を見てきたが、いすれも成功率は低かった。 この先、技術が進歩して、癌の手術による治癒率が上がるかもしれない。だが、今は、癌の病巣に 来 メスを入れない方が、むしろ、患者の延命が期待できる状況なのだ。癌が不治の病といういまわしい 群名を返上するまでには、まだまだ時が必要であった。 この診療所に、これ以上、源次郎を引き留めておいてはいけない。
事務長は、なんというせつかちな男だろうという顔で、裕三をまじましと見ながら、 「精いつばい急いで、六月ですかね : : : 」 と、すまなそうに言った。 あと二カ月、聴診器一本が頼りか、裕三は事務長が部屋を出ていった後も、頭の上で手を組んで、 眼を遠くへ投げていた。 たいか このひと月、よく大過なく役目を果してきたものだ。振り返ってみると、ぞっとしてくる。 こっせつ 着任早々の、旅館のひとり娘の盲腸にはしまって、骨折、肺炎、自然気胸と、彼にとっては、いす れも未経験の病気ばかりであった。 ます、病気の診断が大変だった。骨折にしろ、肺炎や気胸にしろ、レントゲン装置があれば、診断 だけは、もっと楽につけられたはすである。 もっとも、名医は、脈ひとつ、打聴診のわすかな音の乱れで、大病を見抜くと言う。しかし、経験 の浅い裕三には、とてもその技術は望むべくもなかった。 よく、今まで誤診ひとっせすに、過ごしてこられたものだと思う。 それというのも、皐月のように腕の確かな看護婦が、そばについていてくれたから、ここまで頑張 流ってこられたような気がしてならない。 病気の症状は、医書に記載されている通りではない。患者の顔が皆違うように、同し病気でもその 症状の現われ方が微妙に違うものだ。机の上の知識だけでは、臨床はどうにもならない。