四月の流氷 4 夕方になると、風が強くなった。石屋根の残雪が白い煙を引いて飛んでいる。風が、だし風に変わ りそうな気配を感じる。 北の空はいつも気まぐれだ。昼間のおだやかさがうそのように、低く垂れ込めた雲が、海の方へ流 れている。 裕三と皐月は、日出之助と一緒に港へ走った。 「一之助の奴、なんでまた氷になんか乗っかって遊んでいたんだ、あれほど危ないと言ってあったの 一之助 ! 死ぬんしゃないぞ」 沖に突き出た防波堤の先端にたどりつくと、漆黒の闇につつまれた海を睨みつけて、日出之助は怒 号した。 「大変よ」 彼女は裕三の外套の袖を強く引いた 「どうしたの」 「人よ、トドしゃないわ、人が流氷の上に乗って流されているのよ、街の人に知らせなくては、大変 なことになるわ」 彼女は、往診カバンをそのままにして、街の方へ駆け出していった。 が、とう しつこく
のれん 日出之助の一家は、港のすぐそばで、灯台食堂という屋号で、暖簾を張っている。活造りが自慢の 店で、主の日出之助同様、料理もまた豪快であった。この羅臼の海でとれるメイセンやカレイは、そ のままの姿焼きで出すので、評判を取っていた。 一家は、一之助と二之助、それに奥さんの四人暮らしであった。結婚が遅かったらしく、一之助は 中学一年生で、下の子は、まだ小学生だった。日出之助が入院すれば、店をきりもりするのは、奥さ んひとりになる。 子煩悩な父が居なくて、からだをもてあましたのであろう、一之助は、岸辺の流氷に乗って遊んで いた。そのうち、気がついたときは、風と潮の流れで、沖合まで流されてしまっていたらしい 三人の後を追うようにして駆けつけてきた奥さんが、日出之助の大柄なからだにしがみついて、泣 きしやくった。 港のなかには、たら、すけそ刺網の漁船がぎっしりと入っていたが、どの船も焼玉エンジンの音を 響かせて、待機している。 そのうちのなん艘かは、しびれを切らしたように、汽笛を鳴らしながら港を出はしめている。 「川村さん、心配するな、俺が連れてもどってくるからな」 先頭きって、出てゆく船から、声を掛ける男がいる。 つばい手を振って応えると、 定期船で一緒になった、天屋源次郎だ。皐月と裕三がせいい 「まかしときな : こばんのう あまや
〈フは、こ。こ、 無事に札幌の病院に着いて、一刻も早く処置を受けられることを祈るだけです。 先生を、この地で死なせるわけにはゆきません。我々、村民の命を救って下さった先生が、この地 で命を絶っようなことがあれば、この私が、死んでおわびをするしかありません。 皆さん、祈って下さい。先生の無事を、祈って : : : 」 あとは声にならす、八田村長は絶句した。 待合室のなかに、すすり泣きの声がもれた。その声は、待合室から廊下まで、急の知らせでかけっ けた人々の間に、広がっていた。 三十分ほど待っと、ヘリコプターが到着した。担架を取りまくようにして、村人達が羅臼川の堤防 に急く あかねが、 ) ンゲルの点滴瓶を持ち、皐月が裕三の手をしつかりと握っている。 「お父さん」 日出之助が、小学校から連れもどった、和広の声である。 この時、久しぶりに、和広は眼をあけている父を見た。 小さな手が、裕三の手に触れる。裕三は、その手をせいいつばい握りしめた。 ヘリコプターに、裕三をのせると、あかねと浩一が、一緒に乗り込んだ。 漁「お父さん、いっちゃいやだよ : : : 」 和広の泣き叫ぶ声に、裕三は思わす頭をあげたが、とたんに、激しい嘔吐におそわれ、また吐血し 火
「はう、地元だね」 「ええ、幼馴染みなんですって。この四月の四日に式をあげることに決まっているのよ。花嫁衣裳が きっと似合うわ。二十になったばかりでね、色が白くて、可愛い娘なの : : : 」 皐月は、眼を細めた。 あの娘かもしれない。今日の朝礼のとき、部屋の隅の方に、先輩達の背にかくれるようにして立っ ていた、小柄な白衣姿の娘を思い浮かべていた。 「この際だから、職員の方、皆さん呼ばうかしら : つばいのようだったが、 皐月は、その娘のお別れ会のことで、頭がい 結婚式という言葉を聞くと、 裕三は後ろめたい。 二人は、式をあげすに一緒になっている。むろん、華やいだ披露宴の経験もなかった。 結婚を約束してからの、一緒に働いた一年余りが、婚約期間といえば、そうなのかもしれな 皐月や彼女の両親に、申し訳がないと思う。 こ白りこんで患者を診なけれ 港だが、当時はまだ免許もない、駆け出しの医者の卵だったし、診療所 ! 冫 ばならないような状態だったから、とても式などあげている余裕がなかったのだ。 の 風皐月は、一緒に暮らせれば、それでいいと言った。その言葉に、少し甘えすぎてきたかもしれない。 結婚式もあげす、入籍をしたことを知って、一番腹を立てたのは、鹿児島の兄だった。大や猫でも
めたのが、このフリ子なんだよ」 わら 「それで、細かな藁が入ってるんだ : 「なに、藁だって」 日出之助が、あわてて皐月の持っている皿をのぞき込んだ。そして、藁とフリ子を一緒につまみあ げて口にほおばると、 「 9 日い」 と、うそぶいた。 その週の日曜日、裕三は事務長達と一緒に、定置網を見学に出かけた。 見学といっても、網を起こすのを手伝わせてくれるというのだから、漁師とおなじ出で立ちをしな ければならない かつば 漁業協同組合の好意で、昨夜のうちに、胴付と合羽がとどけられた。 夜が明けないうちに、裕三は皐月とそれに事務長の三人で網元に向かった。 くなしり 月が淡く山の端に消えかかっている。陽はまだ昇っていないが、国後島の上の空が明けそめている。 時計の針は四時少し前である。オホーックの夜明けは早い。間もなく、根室海峡に朝が訪れる気配が あった。 「先生、よく似合うしゃないですか、こりや驚きましたよ」 6
豊漁の年は、四月に入ると定置網で、鰊が獲れはしめる。だが、この数年というもの、年々、知床 の海に群来る鰊が減っている。このままでは、鰊は姿を消してしまうのではないか、漁師達には、そ んな不安があるようだった。 気の短い漁師などは、あてにならない鰊をあきらめて、たら、すけその刺網の漁に切りかえている らしい。その方が、収入がすっと安定するということなのかもしれない。 もっとも、鰊もたら、すけそ漁も、同し刺網でとるから、鰊が押し寄せてきた時は、すぐ漁のきり かえは出来る。 「鰊が来てくれないと、なんだか、春が来たような気がしないわ」 ひと粒種の和広が、ちょこんと二人の間に座って、だまって話を聞いている。 裕三が一緒の時は、いやにおとなしい。六歳にしては、行儀が良すぎるくらいだ。 皐月の話では、時々、駄々をこねて、手に負えないことがあるらしいが、裕三は、まだ息子のそん な姿を見たことがない。 「和ちゃん、今度、お父さんと一緒に建網を起こすのを見にゆこうか」 食事をしながら、裕三は話しかけてみる。 「、フん」 「お父さんとお母さんはね、鰊の建網を起こしたことがあるんだから。すごいだろう。こんなふうに、 たてあみ ー 62
和広は、すなおにうなすく。 この十年、海や山で起こったさまざまな事故を見聞しているだけに、皐月は、心配で仕方がないと っこ頃、、こ。 しナ′ノ十 / 「そんなに心配なら、お母さんも一緒に、 小学校に上ったら、 しいんでしよ」 皐月の顔を見て、日出之助は笑う。 入学式の日、日出之助から、尾頭つきの大きなメヌキ鯛が届けられた。夕方になると、わざわざ住 宅まで庖丁を持ってきて、目の前で活造りにしてくれた。 「俺は、勉強のことはさつばりだめだけど、骨つばい男の子に育てるのは、自信があるんだ。ちよく ちよく遊びによこして下さいよ」 一緒にお祝いの膳を囲みながら、日出之助は、うまそうに冷酒を飲んでいる。 焼酎が、大の好物で、彼のために、皐月はいつも、一升瓶で買って置いてあった。 「ほんとうに、お願いしますね、お父さんが、この子が寝る頃まで帰らないでしよ、だから、女手ひ とつで育てているようなものなんですから」 皐月は、日出之助を頼りにしているようだが、裕三はにやにやしながら、二人の話を聞いていた。 むち 子供を育てるには、飴と鞭が大切というのが、日出之助の主義だが、それにしても、彼は少し極端 すぎるのだ。猫っ可愛いがりをするかと思えば、拳骨を投ばす。彼の二人の息子が、頭に大きな瘤を こしらえて泣いているのを、なんども見ている。 220
灯台食堂へ向かう道すがら、皐月は、弾んだ足取りで歩きながら、裕三を見た。 「賄いのお清さんに悪いんしゃないの」 「ううん、お正月の間だけ、おばさんを休ませてあげることにしたの」 「でも、君がそんなこと勝手にきめたら、事務長がへそ曲げないかな」 裕三は、ちょっと心配になって、皐月の顔を見返した。 「平気よ、おばさんを休ませてあげることは、悪いことしゃないわ」 「そりやそうだけど」 「それにね、本当のことを教えてあげましようか」 「なんだい」 「一年に一度くらい、先生に皐月の心を込めた料理を食べていただきたいの : : : 」 「一度でなくともいいんだよ」 皐月が立ち止まった。眼を瞬かせて、裕三を見ている。 来裕三も立ち止まった。そして皐月の眼をのぞき込むようにして言った。 「いつも、君の手料理が食べられるようにしようか」 「一緒になろう」
「輸血はどうだろう」 裕三はプラシで、入念に手をこすりながら、あかねに聞いた。 「保存血は間に合いませんから、献血者をつのるしか、方法はないと思います」 「それでいいよ」 「二〇〇〇 o 分くらい、用意すればよろしいですか」 「ああ、充分だ」 「すぐ手配いたします」 あかねは、手術室をとび出していった。 、きびんな動作といし はきはきした受け答えといし がる気持が、分かるような気がした。 すぐ、あかねは事務長と一緒にもどってきた。 「とりあえす、職員のなかで、五人、用意出来ます」 報告する、事務長の顔も上気している。 「何型 ? 」 「 << 型です」 あかねの、間髪を入れす応える態度は、見ていて、気持がよい。 「じゃ、なんとかなるね」 皐月にどこか似ている。皐月が、彼女を可愛 ー 68
手術着を脱ぎ、診察室で一服していると、あかねが入ってきた。 「ごくろ、つさま」 「おっかれさまでした」 声は若々しく明るいが、その顔には、さすがに疲れがにじんでいる。 「今晩、家に食事にくるかい」 ほっれた額の髪を手であげながら、意外そうな表情を浮かべたが、すぐ 「伺います」 と、微笑を返した。 結婚式までは、三週間程である。三月の末で退職すると聞いている。一緒に働けるのは、あと少し しかない 漁師の嫁にするには、借しいような腕をしている。このまま、診療所に働いてくれれば、裕三の片 腕になってくれるに違いない。 港遊びに来た時、結婚したあとも、勤められないものかどうか、訊ねてみようと思う。 の「午後の往診は、ど、つなさいますか」 風重患をかかえているから、診療所を離れられないことは、承知の上で、あかねは聞いている。 「タ方まで、様子をみよう」