を広げたまま、患者の診察をすることもある。 最初の頃は、そんな裕三の姿に、職員や患者達の間で噂が立った。 あの医者は、なにも知らないのではないか、いちいち本を読まないと、見立てに自信が持てないの ではないかと、彼等の裕三を見る眼に、不安が隠しきれなかったものだ。 だが、今は違う。今までの実績が、その噂を、だし風と一緒にどこかへ吹き飛ばしてしまった。 この一年で、盲腸は五十例も切っている。頭部や腹部の外傷など、今までなら、根室や釧路に移送 している間に、命を落としたに違いない患者も救っている。 今では、患者の眼の前で、医書を広げようが、顕微鏡をのぞこうが、裕三に対して、不信や不安の 気持を抱く患者など、ひとりもいないといってよかった。 医書で頭にたたき込んだ知識は、数多くの患者を診ることで、裕三の血となり、肉となっていった。 もっとも、フィルムの読影は、医書を読む以上に骨が折れる。 一年前の頃は、どのフィルムを見ても、闇のなかで山を見ているようなもので、そこに山が存在す ることさえ分からなかった。 そのうち、瞳をこらせば、林が見えてくる。林の木々の梢が見えるまでには、またしばらく時間が かかった。 でも、不思議なものだ。今では、林の向こうの森が見える。ばんやりとではあるが、山の稜線をな ぞることも出来る。 リ 0
村長は拳を振りかざして続けた。 : 今、羅臼村は町に飛躍しようとしています。これは、時間の問題であります。この町政を布く 機会に、診療所は国保病院として新築する計画であります。でありますから、あと数年、レントゲン は待っていただいて : : : 」 「ちょっと待って下さい」 裕三は、あわてて村長の言葉をさえぎった。このまま、あと数年も、レントゲン装置がないままで、 患者を診てゆくのは心もとない。 肺炎の診断は、聴診器一本、骨折は手の感触だけで診断するしかない、今の状態では、見立て違い が起こる危険がある。それに、今まで釧路や根室の病院で、結核の治療をしていた患者が、診療所の 評判を聞いて、もどりはしめている。 なにはともあれ、レントゲン設備がほしい。 裕三は、煙草を灰皿に置くと、背を起こして、訴えた。 「レントゲンは、村民の命を守るために、ぜひとも至急入れてほしいのです」 「村民のため : ・・ : 」 氷 . はんすう 流村長は、その裕三の言葉を反芻するように呟くと、 月「分かりました、すぐ入れましよう」 瞳を輝かせて、立ちあがった。
それよりも、診療所の充実をはかることが、今は切実な問題だった。 患者が増えて、もう人手は限界に達している。 看護婦や事務員を増やさなければ、このままでは、連日のように押し寄せる患者はとてもさばきき れない。それに、医療器具も、新しいものがほしかった。 「レントゲンを入れていただけませんか」 裕三は、思い切って言ってみた。 「レントゲン ? 」 村長は、眼を瞬かせて裕三を見ていたが、すぐポンと膝をひとっ打っと、 「それなんですよ : ・・ : 」 柔和な顔に、笑みを広げて、身をのりだした。 「 : ・・ : 先生もご承知のように、 この三月に、厚生省がの強制接種を決めましたでしよう。今、 我が国が国民の健康のためになさねばならないことは、結核の撲滅でありましよう。そのためには、 先生のおっしやる通り、近代的なレントゲン設備が、我が村にも必要です。今まさに、レントゲンの 設備導入については、鋭意検討する時期が到来しておる : : : 」 しだいに紅潮してくる八田村長の この村長は、根っから政治家に向いている男なのかもしれない。 顔を見つめながら、裕三は感心して、その演説を聞いていた。 : しかるに・
「ね、先生、観光客が店に来たとき、 しい宣伝になるでしよ」 「いいんじゃないかな : 「よし、そうしよう。それで、この際だから、店の名前も変えようと思うんだけど : 日出之助は、もうすっかり、来年から知床が観光地になると、きめてかかっているようだった。 「 : : : 灯台食堂とつけた頃は、まだこの港には、灯台もなくてね。よし、それしや店も港に近いこと だし、うんとうまいものを、うんと安く客に食べさせて、この店を皆んなの灯台にしようと、まあ、 今考えてみれば、ずいぶん意気がって商売を始めたもんさ。だけど今では、港には灯台も立って、な んだか、屋号にしては、思はゆい気もするしさ、〃ともしび食堂〃とでも変えようかと思って : : : 」 十年近くつきあってきて、灯台食堂の屋号の由来を、初めて聞かされた。 いかにも、日出之助らしい発想だと、裕三は感心した。 「ともしび食堂ね : ・・ : 」 今まで馴染んできた、灯台食堂の名が惜しいような気もする。裕三が首をひねっていると、横から、 「ともしびなんて淋しくてダメ、やはり灯台のままかいいわ」 皐月が、激しく手を振りながら言った。 「え、屋号変えちゃだめかね」 「ダメ、ダメよ。灯台が実際にあって、その上で灯台食堂なら、ますます、店の名が知れ渡るわ」 「なるほど : 208
ある。断わるわけにもゆくまい 「ワイフと相談してみるよ」 と言って、あかねとは別れた。 その夜、夕食がすみ、和広が寝ついて二人っきりになると、皐月が、お茶をいれながら、聞いた。 「あかねさんの後任の看護婦、すぐ入るのかしら」 「入らないと、困るよ」 今、診療所で、資格を持った看護婦は三人である。村長は、早急に、医者が二人体制の診療所にす ると言っていたから、むろん、看護婦三人では、話にならない。 べッド十九床と、毎日百名を越える外来の患者数を考えると、少なくとも六名はほしい。つまり、 今の倍の人数である。 しいから、地元で働いてくれる人が、いないかしらね」 「補助看でも ) 看護婦の数が足りないと、それだけ、医者の裕三に負担がかかる。皐月は、そのことを心配してい るよ、つであった。 港裕三は、今年三十二歳である。まだまだ青年で通る若い年齢だが、八年前にくらべれば、かなり馬 の力は落ちている。あの頃のような、無理はきかない。 風それに、二月に戻ってきてから、このふた月ほどで、からだが、少し細くなった。 研究室に閉じこもる生活にすっかり馴れてしまって、診察や、手術にあけくれる、今の生活に、か 9
二人しかいない医者が、かかりつきりになるから、手術が終るまでは、外来は休むしかない。 「最高九六の最低五〇です」 血圧がこれ以下に下がると、命が危ない。手術を急がなければならない。 「輸血はまだ ? 」 「はい、今、入れます」 「とりあえす一〇〇〇」 し」 あかねが、歯切れよく応じながら、大腿部の切断に必要な器具を、次々と裕三に手渡す。 傷口の止血をしながら、骨まで到達してゆく。だが、あらためて、切断するまでもなく、脚はぶら ぶらして、今にも、もげてしまいそうなくらいひどいキ傷を受けていた。 太い大腿骨に、ゴム手袋の手がかかったとたん、裕三のからだが、ぐらりとゆれた。 あかねが、驚いて裕三の顔を直視している。 お腹全体に、かって経験したことのない、重くにぶい痛みが走った。むかむかッと、吐き気がおそ 火オ やはり、今の体調では、大手術は無理なのかもしれない。足元から、寒さがしのび寄る。寒いはす 漁なのに、背中や胸に冷汗が吹き出ている。 看護婦のひとりが、裕三の額の汗を拭きとってくれた。 22 /
まさか、ひとの子を殴るような真似はしないと思うが、やはり不安は残る。 でも、日出之助がいてくれることは、、い強い。 皐月が気にかけているように、和広は、母親ひとりで育てているようなものだ。皐月にも和広にも、 すまないと思うが、診療に追われている今の裕三には、父親らしいことは、なにひとっしてやれなか 胃の調子は小康状態を保っている。 丿ュウムを飲 昨年の暮れに、浩一に、胃のレントゲン写真を撮ってもらった。生まれて初めて、 んだが、 今までこんなものを患者に飲ませてきたのかと、思わす顔をしかめるほどますかった。 撮影したフィルムを、浩一と二人で検討したが、胃の縁の方に潰瘍の影があった。 少し、発見が遅れたらしい 古い潰瘍の影だった。 裕三に胃潰瘍のあることは、その日のうちに、職員達に知れ渡ってしまった。当然、八田村長の耳 に 9 っ一人った。 火翌日、村長は、病院に飛んできた。 「札幌の、先生のいらした大学病院で切りますか」 漁潰瘍の治りにくいことは、村長も知っているらしく、さかんに手術をすすめた。 「そこまで、悪化しているわけではありませんから、ご心配なく」 221
その、裕三の眼で見ても、源次郎の胃の写真には明らかな異常があった。 息を止めて下さい」 たてつづけに、六枚ほど、写真を撮る。 透視で見逃した病変は、フィルムで注意深く見ることにした。 検査を終って、レントゲン室から出てくると、皐月が、どうでしたかと、眼で訊ねた。 口を一文字にして、小さくうなすくと、彼女の顔に不安な表情が走った。 4 年の瀬も押し詰まった、十二月の末、源次郎は、根室の病院からの報告書を持って、診療所に姿を 見せた。 根室の病院を選んだのは、彼自身であった。 今の、裕三のカでは、癌の病巣を切り取る自信はなかった。胃癌の手術といえば、大手術である。 鹿児島の医専時代から、いくどとなく、その手術を見てきたが、いすれも成功率は低かった。 この先、技術が進歩して、癌の手術による治癒率が上がるかもしれない。だが、今は、癌の病巣に 来 メスを入れない方が、むしろ、患者の延命が期待できる状況なのだ。癌が不治の病といういまわしい 群名を返上するまでには、まだまだ時が必要であった。 この診療所に、これ以上、源次郎を引き留めておいてはいけない。
最初のうちは、裕三に診てもらえない患者が、受付の窓口でロをとがらせていたらしいが、今では、 患者の方も、すっかり馴れてしまった。 それに、浩一も、少しすっ腕を上げている。顔馴染みの患者から、ご指名がかかるようになってい る。この分だと、裕三の代診が務まるのも、そう遠いことではないかもしれない。 裕三が診察する内科の患者が減った分だけ、午前中の診療が終る時間が早くなった。 受付にカーテンがおりると、あかねが、薬と水の入ったコップを盆にのせて、院長室に持ってくる。 朝は、食事が終ると、皐月が忘れずに薬を出す。 どうやら、皐月とあかねは示し合わせているらしい ンゲルを一本点滴していただきます。それから、かくれて煙草を吸わないようにし 「午後からは、リ て下さい」 まるで、女房が二人いるようなものだ。 薬や煙草ばかりではなく、食餌にまで、あかねはロうるさい 「牛乳が残ってます。全部飲まないと、早く治りませんよ」 若い時の皐月にそっくりである。 そんな彼女を見ていると、嬉しさがこみあげてくる。 少しすつではあったが、彼女は、初めて会った時のあかねに、もどってきている。むろん、心の傷 が愈えるはずもなく、今でも悩み苦しんでいることは、想像に難くない。 22 イ
四月の流氷 去りにされてしまうのではないだろうか。 日出之助のように、戦争のことはあまり心配にはならない。また、ひとりの軍人が罷免更迭された からといって、日本の国が混乱に陥るとも思えなかった。だが、それが、これからの日本の将来にと って、ひとつの区切りになるような気がしてならない。 おそらく、医学の世界だって、この先まだまだ変わるだろう。 国家試験はどうする。ます、この試験を突破しなければ、医者としての資格は取ることが出来ない のである。いつまでも、インターン生でいるわけにはいかない。 しかし、今の裕三の実力で、はたして、六年間の教育を受けた、医科大学の卒業生に混しって国家 試験を受けても、合格出来るだろうか。いや、なんとしても、合格しなければならない。 そう思うと、裕三は、いたたまれない気持になってくる。 日出之助の病室を出て、院長室にもどったが、賄いのお清さんの心づくしの昼食にも、なかなか箸 がのびなかった。 昼食の献立は、毎日のように変わる。今日は、タラの塩焼に野菜の甘、それに茶碗蒸しに、カジ 力の味噌汁がついている。 一年前までは、魚の味噌汁には、正直のところ抵抗があった。ぶーんと鼻をつく魚の臭いが、食欲 を減退させてしまうからだった。 でも、今は違う。馴れというのは恐ろしいもので、タラの三平汁や石狩鍋が食べられるようになっ