浮かん - みる会図書館


検索対象: 漁火医者
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1. 漁火医者

切開創から、彼女の手が腹腔に消えた。 盲腸が移動して、正常の位置に見当たらないらしい やっかいなことになったものだ。最初の手術にしては、症例が悪すぎる。もし、盲腸が見つからな かったら、手術は大失敗ということになる。裕三は祈るような気持で、看護婦の手元を見つめていた。 「あったわ : ・・ : 」 彼女の眼に、ほっとした表情が浮いた。 それにしても、山田皐月の腕は大したものだ。 看護婦にしておくには、もったいないほどの女である。経験だけではない。頭もよさそうだ。裕三 は内心舌を巻きながら、彼女の次の指示を待った。 「虫垂の摘出をしますね」 「よろしく」 いちおう、裕三に気を使って断わることは忘れないが、彼女はひとりでどんどん手術を進めてゆく 裕三は相変わらす鉤持ちだ。 虫垂の切除と腸管の縫合が終ると、腹膜炎を起こしていないかどうか、よく確かめてから、彼女は じしんき 腹膜を縫合する糸のついた持針器を、裕三に手渡した。 ようやく、鉤持ちが、彼女に変わった。 その時、女の子が、初めてうめくような声をあげた。

2. 漁火医者

だれかが手足を引いている。一人、二人、その手足を引く人の数が、あっという間に増えてゆく 患者達の顔が眼の前にせまる。 早く知床に帰らなければならない。裕三は身もだえる。手も足も胴もちぎれてしまいそうに痛い。 苦しみのなかで振りむくと、仁王様の顔が、母の顔に変わっていた。 とたんに、全身からカが抜けていった。そのからだに母の怒りと患者のうめき声が、針のようにつ きささる。全身に一度に汗が吹き出てくる意識のなかで、裕三は、ベルの音を聞いた。 「一緒にゆきましよ、フか」 急いで身支度をして住宅をとび出し、診察室に入ってゆくと、往診カバンに手をかけながら、皐月 が気の毒そうに裕三を見た。 ルンペンストープを背に、源次郎の奧さんが恐縮しきった顔で立っている。定期船のなかで会った 時より、背が丸くなったような気がする。 「ひとりで大丈夫、さあ、行きましようか」 裕三は、電話で伝えてある注射の念を押すと、カバンを受け取って、奥さんをうながした。 来診療所の玄関を出ると、横なぐりのみぞれが、からだにまつわりついてくる。 山が鳴っている。ごうッとひと鳴きしてから、一呼吸おいて、一気に風が山を駆けおりる。ばらば 群らと、木の小枝や板切れが、雪道を舞うように飛んでいった。 裕三は往診カバンを胸にかかえ込み、角巻ですつばり頭をかくしている奥さんと、寄りそうように

3. 漁火医者

「ど、つして : : : 」 「だって、観光客が入るようになれば、やれ風邪ー 弓いた、やれ腹こわしたって、患者も増えるもの」 「そ、ったろ、つか」 海と山での怪我人は出るかもしれないが、内科の患者まで増えるとは思えない。裕三が首を傾げて しると、 「いや、絶対忙しくなるよ、医者が二人しや足りなくなるかもしれないね」 日出之助は自信ありげに、うなすいた。 「ところで、今年はどれくらいの人が観光に来たんだろうか」 「四万人ぐらいでしよ、でも、そんな数しや、まだまだ観光地とは言えないけど、今年は、この知床 をロケした映画も出来たことだし、年々、人に知られると思うんだ」 「そうそう、ロケがあったんだね」 知床に生き、年老いてゆく漁師を主人公にした映画、〃地の涯に生きるもの〃のロケーションは、 今年の三月から七月にかけて、ウトロと羅臼で行われた。 村長の言葉をかりると、開闢以来の慶事というほど、この村にとっては、嬉しい出来事だった。 村あげての協力体制がしかれ、何百人というエキストラが動員された。 ロケのなかに、一年前の四・六突風の遭難の再現シーンがあって、あらたな悲しみと興奮が、出演 者や村の人々の胸中をかけめぐったようだった。 かいびやく 206

4. 漁火医者

ドカイ にゃならんので、母船にムシロで仮の屋根をつくって、二、三人の若い者が交替で寝すの番をして、 見張「ておるがや、そして、鰊が来たら、に連絡して、網を起こすがやちゃ」 漁の話が一通りすむと、今度は定置網の仕組み、さらに鰊の習性を、早口にまくしたてた。 よく聞いていると、なかなかの勉強家らしい。通りいつべんの説明ではなくて、随所に漁の工夫や 苦労話が入る。 訛りと方言がひどくて、ところどころ聞きとりにくいが、彼の話には、聞き手の心を引きつける不 思議な魅力があった。 国後島の陰から、朝陽が顔をのぞかせた。海峡の海面に帯のような一筋の光が走り、その帯がまた たく間に幅を広げてゆく 乳白色に染まった海面で、光が踊っている。 裕三は、東の空を仰ぎ、海を見た。光が織りなすちりめんを敷きつめたような海面の下に、群をな して躍動する、生命の気配を感じる。 知床の海は、鰊の訪れとともに、春を迎えようとしている。 「さあ、舟に乗らっせ、足元に気つけさっせよ」 来 案内役の男が、声を張りあげた。 群ゴムの長い靴がついている胴付では、確かに足元が心もとない。すでに舟のなかで待機していた漁 師達が、手をかしてくれた。

5. 漁火医者

彼女もすでに気づいているらしく、顔を曇らせて、遠慮がちに訊い 「そ、つしよ、つ」 裕三がうなすくと、彼女はすばやく腰を上げて、処置室に急ぐ もう一度、腹部全体をていねいに診て、聴診器を子供の胸にあててみる。心臓の音や肺の呼吸音は きれいであった。 最後に、舌圧子を口に入れて、喉を診る。小児の診察では、子供の嫌がることを、一番あとに回す ように心がける。その方が、診察がうまくいくと、先輩から教えられていた。 やはり、風邪の症状はなかった。喉に赤味がなく腫れていないから、扁桃腺の熱ではなさそうだ。 ト児によく起る、腸閉塞や腸重積の症状とも、どこか違う。どうやら、盲腸の疑いが濃厚だ。 看護婦が、耳から血をとっている間、裕三は診察机に向かって、カルテに。ヘンを走らせた。 動悸が止まらない。まるで、自分が病気の宣告を受けるときのように、落ち着かない。 あと数分もして、白血球の数が分かれば、盲腸の診断がつく。 だが、盲腸だとはっきり分かった瞬間から、裕三の苦悩の始まりである。 定期船のなかで一緒になった、夫婦連れの漁師の顔が眼に浮かんだ。 ち 立「盲腸をあっためて、娘っこが死んだ : のその言葉は、今の裕三には、胸をしめつけられるほど、つらい 盲腸のお腹を暖めるほど、ヤプではないつもりだが、手術をした経験がないのだから、やはり、ヤ

6. 漁火医者

過ごしかもしれない。 あるいは、源次郎は気の強い男だから、暮れの二十八日に、裕三がとっさに思いついた、膵臓結石 という病名を聞いて、思っていたより軽い病気だと信し込んで働く気になったのかもしれない。 いすれにしても、このまま放置しておくわけにはゆかない。 翌朝、診察が始まる前に事務長に連絡させて、源次郎の奥さんに来てもらうことにした。 「あの人、入院が長くなりそうだから、今のうちに少し稼いでおくんだって、きかないんです」 奥さんは、診察室でさめざめと泣いた。 、札幌まで行くことないって : ・・ : 」 「どうせ助からない病気なら 「本人がそう言ってるんですか」 裕三が驚いて聞き返す。 「いいえ、子供達が言うんです。札幌で具合が悪くなったって、皆んながそばについていられる訳し ゃなし、それなら、 いっそのこと、先生にお世話になった方が、お父さんもどんなに幸せか分かんな 来「そんなことはありません」 眉のあたりをしかめて、裕三は奥さんを諫めた。 群「だいいち、手術が絶対に出来ないと、決まったわけじゃないんです。根室の病院が無理と判断して も、もう一度、大学病院で診断してもらうべきです。それでも手術が無理と分かったら、僕で出来る

7. 漁火医者

「でも、少しおやせになったようですし、心配しておるんです。それじゃ、ともかく、静養して下さ しいから、医師の派遣をお願いしてみましようか い。なんでしたら 、札幌の大学病院に、臨時でも、 ね」 裕三を見つめる、村長の顔つきは険しかった。 あまり心配するので、胃のフィルムを見せて、病状を説明することにした。 「 : : : 当分は、薬と食餌療法で、治療してみることにします。それでも治りが悪ければ、手術を考え てみます」 ぶん安堵の色が浮かんだが、 裕三の説明に、村長の顔にいく、 「医者の不養生にだけはしないで下さいね」 と念を押して、帰っていった。 近頃、裕三は、よく源次郎の夢を見る。あのたくましいからだっきの海の男が、半年も経たぬうち に、見るかげもなくやせ細った姿を思い浮かべるとぞっとする。 ついつい、源次郎の姿に、自分の姿を重ねてしまう。 もっとも、裕三はまだ三十半ばで、まだ若い。源次郎とは違う。潰瘍が悪性のものに、そう簡単に 変わってしま、つとも思えなかった。 それでも用心にこしたことはない。裕三は、毎日のように体重計にのって、体重の変動を記録して、 222

8. 漁火医者

「年が明けてからではダメかね」 「そうですね、一月に入ってすぐなら大丈夫です、札幌へ行きますか」 「それなら、考えさしてもらいます。なにしろ、暮れはあわただしくて : 年取りの晩には、二人 の息子も帰ってくるって言ってるから、その時にきめることにします」 「そうして下さい 息子さんが帰って来たら診療所に寄こしてくれますか、私の方から、よく説明し ま、丁から : 「なにからなにまで、すっかり世話やかせてしまって : : : 、先生、このご恩は忘れませんよ」 深々と頭を下げる源次郎の姿に、さすがに、裕三の良心が痛んだ。 三十一日の宵、この知床で、裕三は二度目の年取りを迎えた。 「先生、もてるわね、あちこちから引っぱりだこで、だれにしようか迷っちゃ、フでしよ」 三十日から、診療所は休診である。それでも、村にひとっしかない診療所だから、急患は来る。平 日ほどではないが、 今日も午前中は、風邪や腹痛の患者が多かった。白衣を着て、院長室で待機して いると、時々、皐月がのぞきに来て、ひやかしてゆく 「君はどうするの・・・・ : 」 裕三は、眼を細めて皐月を見る。どんなやきもちでも、若い女性にやかれるのは、悪い気がしない。 この頃、ささいなことで、皐月が気をもむ姿を見ていると、可愛い女だと思う。 リ 4

9. 漁火医者

四月の流氷 「ああ、検尿は無理か : 裕三は、頭をかきながら、皐月を見た。 「カテーテルの用意をしましようか」 彼女は、小さくうなすいて同意を求めた。 「ああ、そ、つ・しよ、つ」 「何号にしますか」 糸いのていいかな」 「しゃあ、何本か消毒しておきます」 皐月は、患者のそばを離れると、小走りに処置室に消えた。 患者をベッドに寝かせて、腹部を触診してみると、膀胱のあたりが、ばんばんに張っている。尿が 相当たまっているらしい 「尿の出が悪くなってから何日ぐらい、経つんですか」 「十日ど、らい」 「それじゃ、苦しいでしよ、フ」 もう一度、下腹部を押すと、男は顔をゆがめた。 皐月の言うように、尿道からゴムの管のカテーテルを膀胱まで入れて、いわゆる導尿をするしか どうによう 7

10. 漁火医者

「分かりました」 あかねは、小走りに診察室を出ていった。 その後姿を見つめながら、裕三は、ふと、八年前の皐月の姿を思い浮かべていた。 3 四月に入ると、八田村長が、浮かぬ顔で院長室に姿を見せた。 「いやあ : : : 春の漁が悪くて弱りました : 漁村だから、不漁が続くと村の財政にもすぐ影響が出るのだろう。 「鰊もやはりだめでしよ、フか」 「望み薄ですな」 「でも、鰊の最盛期は、五、六月しゃないんですか」 裕三にも、多少、漁期のことは分かる。近頃では、診療所に来る漁師達と話していても、彼等の話 題に、首をひねることは、あまりなかった。 「昨年は、豊漁だったんですってね」 「まあ、千トンを少し出たところでしようかね、でも、全道的に、鰊漁は将来に不安があるんです。 豊漁の年は、そろそろ建網に入るんですが、それがないところを見ると、今年は厳しいかもしれませ んな」