236 物凄い胸毛であった。 あばら 黒い剛毛が、肋の浮き出た貧弱な胸に渦巻いていた。私は声も出なかった。 滝口さんは、貧しいおかずの弁当を持ってきた小学生が弁当箱の蓋だけ持ち上げて素早く食べ るように、はた目を気にしながら、また衿元までボタンをかけた。 「似合わないものが生えてるもんで」 いつもの、聞きとれないほど小さい声であった。 本当にこわいのはこういう人だなと思う。大騒ぎする人間は大したことないのである。現にな にかといえば大声を出していたうちの父は六十四歳でポッグリ死んでしまい、残った四人の子供 も繁殖力あまりよろしからず、孫は二人である。音無し一家の大杉さんや遠慮しいしいドアを開 けていた滝口さんには到底及ばないであろう。日本の人口が殖えたのは、こういう人たちのおか げである。万葉集にも「ことあげせずともとしは栄えむ」とあるそうな。そういえば超人哲学を 唱えたニーチェは、、 月男だったと聞いたことがある。 胸毛が生えていたかどうか、それは知らない。
尊敬する中川一政先生は、虎の絵のそばにこう書いて下さったが、これはそのままその時の私 の気持であった。 目が廻るだけではない。足許まで揺れている。 自信喪失とはこのことであろう。 それにしても、しつこい目まいだな、というところで気がついた。様子がおかしいのである。 地震であった。 私は自信を取りもどし、もう少し、やれるぞ、と嬉しくなった。 中川先生も、つづけてこう書いておられる。 「やってゆかうといふ時もある」 何年前になるだろう。日生劇場で、「越路吹雪ショー」を聴いたことがある。 クリスマスが近い年の暮ではなかったかと思う。 プログラムは半分ほどすすみ、舞台は暗くなった。赤い大きなストールを羽織った越路さんは、 ステージ正面の階段の上に立ち、男声合唱団をしたがえて、反戦歌のようなシャンソンを歌った。 空襲を思わせる炎、サーチライトのような照明が舞台ホリゾントに点滅し、爆弾の落ちるよう な効果音も入る。物凄い迫力である。 そのうちに、客席が揺れ出した。舞台が揺れ、ホリゾントが揺れている。さすがは浅利慶太の
「あなたが必ず買上げてくれるのならかまわない。 しかし、ほかの人は横に書くのです」 青目玉は激すると光って透明になる。目の前三十センチほどで抗議する青目玉を見ていたら、 子供の頃遊んだビー玉を思い出した。 彼女の白い指が、私から取り上げた万年筆で、横書きならかまわないと、サインの実例を示し ている。それを見ていたら、東と西の文化の違いがよく判った。 昭和ひと桁生れのせいか、横書きが苦手である。 電車の窓から眺める看板も、横書きになっていると、一度では頭に入らないことがある。大分 前のことだが、 「キノネ工醤汕」 という看板をみかけて、随分謙遜したものだと感心したら、キノエネの間違いであった。文章 でも、横書きのものは、一度自分の頭の中で縦書きに直して読んでいる。 ところが、若い人たちからくる手紙は、大半が横書きなのである。字も、お習字で習った字と いうより、イラストである。劇画の画面の吹き出しで、「ギャ、 / ! 」などと書いてある、あんな 字なのである。 中にはイラスト入りのものもあるし、赤やグリーンなどさまざまなペンで書き分けたのもある。
4 たが、これでご飯を頂いているのである。たまには身銭を切らなくてはと思ったのである。 英語の話せる金髪碧眼中年美女の店員が、愛想よく世話をやいてくれる。試し書きをしてもよ いかとたすねると、どうぞどうぞと、店名の入った便箋を差し出した。 私は名前を書きかけ、あわてて消した。稀代の悪筆なので、日本の恥になってはと恐れたので ある。 「今頃は半七さん」 私は大きな字でこう書いた。少し硬いが、書き味は悪くない。 優雅な手つきで私の手を止めるようにする。 試し書きにしては、荒つばく大きく書き過ぎたのかと思い、今度は小さ目の字で、 「どこにどうしておじやろうやら」 と続け、ことのついでに、 「てんてれつくてれつくてん」 と書きかけたら、金髪碧眼は、もっとおっかない顔で、 と万年筆を取り上げてしまった。 片言の英語でわけをたすね、判ったのだが、縦書きがいけなかったのである。 ところが、金髪碧眼中年美女は、
Ⅲれた挨拶をした。お茶やお菓子も父が、「頂きなさい」というまでは目もくれないから、父は自 慢でよく私を連れ歩いた。 お坐りやお預けを仕込まれた大みたいなものだが、はじめての子供だから、父も賞められたさ によく上役の家にも連れて行った。 父は、そのお宅で私にひとわたり芸を、つまり挨拶やお預けをさせ、 しつけ 「さすがはお躾のいいお嬢さん」 と賞めそやされて得意になっていたところ、私はかなり大きな声で、こう聞いたそうな。 かけじ′、 「お父さん。どしてこのおうちは懸軸がないの ? 」 直属の上司のお宅で父は赤っ恥を掻き、 「二度と邦子は連れてゆかないぞ」 と母に八つ当りをしていたそうだ。 空襲が烈しくなった頃だったから、昭和も十九年か二十年であろう。 女学校に入ったばかりの私は、暗い茶の間でラジオを聞いていた。今でいえばニュース解説の ようなものを男の人がしゃべっていた。まだ民間放送は開局していなかったから z である。 戦地で戦っている兵隊さんのことを考えて、食糧の節約にはげむように、というような話が、 時折雑音の入る旧式のラジオから流れていたが、
なくな「て閉じこめられ蒸し焼は有難くないからだが、お隣りの奥さんも、ご主人の帰りがまだ なのであろう、一人で、体で同じように半開きのドアを支えながら、蒼ざめた顔で、 「オー・マイ・ゴッド。オー・マイ・コッド と呟いていた。 「横揺れだからすぐ納まりますよ」 と言「て上げたいのだが、こういう複雑なものになると、すぐには出てこないから、せいぜい この気持を目にこめて、相手の青い目を見つめて上げるのが、せいいつばいであった。この次の 地震の時までに考えて置こうと思いながら、まだ英作文は出来ていない こんな風に、この二年ほど気を遣っていたのだが、つい先だって、私のところに週一日だけ掃 除に来てくれる「おばさん」が、玄関のところで誰かと話をしている。その相手は何と、隣りの ご主人で、結構流暢な日本語で、 「オ・ハサン、寒ィネェ」 と言っているのである。私はこの二年、何をしていたのだろう。 英語では、数え切れぬほど口惜しい思いをしているが、考えてみると、スタートがよろしくな ダーを二冊上げたところで真珠湾になってしまった。 旧制女学校へ入り、リー
いようにしていると一一 = ロわれる。 舞台に立った時、無愛想だったので、 「笑え、とにかく笑え」 ときびしく言われた。そのせいで、今でも人が沢山いるところへゆくと、 「反射的にニカッとしてしまうのよ」 白い歯を見せて、惚れ惚れするような爽やかな笑顔で大笑いをされた。 戦前の日本人は、今みたいに笑わなかった。 特に男は、先生や父親は笑わなかった。 昔の武士は「男は年に片頬」。一年に片頬でフンと笑えば沢山だといったそうだが、それほど ではないにしろ、大の男が、理由もないのに笑えるかというところがあった。 お巡りさんも笑わなかったし、兵隊さんも笑わなかった。 小学生の頃、鹿児島に住んでいたのだが、港に軍艦が入港し、海軍さんが何人かずつ割り当て になってうちに泊ったことがあった。酒を出したりして、父も母ももてなしていたが、客間から はほとんど笑い声は聞えなかった。慰問袋のご縁で礼にみえた陸軍の兵隊さんも、やはり固い表 情で玄関で挙手の礼をしただけで、笑顔は見せずに帰っていった。 戦争に負けて、—が入ってきた時、私が一番びつくりしたのは、チビや大男やデブもいるの
53 七色とんがらし ためには、折れなくてはならなかった。 やぐら 昔なら見向きもしなかった小料理屋のこたっ櫓まで作った。 子供たちもあまり運がいいとはいえなかった。頼りにしていた次男は肺を患って若死にした。 仕事場のまわりに進駐軍が出入りして、銘木に平気でペンキを塗りたくるのを黙って見ていなく てはならなかった。 祖父は、愚痴をこばす代りに、おみおつけのお椀が真赤になるまで、とんがらしを振りかけた のだ。 腹を立て、ヤケ酒をのみ、女房と言い争う代りに、戦争をのろい、政治家の悪口をいう代りに、 鼻を赤くして大汗をかいて真赤なおみおつけをのみ下していたのだ。 結局、祖父は、ひとことの愚痴も言わず、老衰で死んだのだが、初七日が終り、やっとうちう ちたけで夜の食事をした時、祖母は、長火鉢の抽斗から、祖父のとんがらしを出した。 「こんなに急に死ぬんら、文句いわないで、とんがらしをおなかいっーし、かけさしてやりや よかったよ」 陽気な人だったから、こう言って大笑いをした。笑っている目から大粒の涙がこばれていた。 ひきだし
幻なられた。 風邪っ気らしく、彼女はマスグをかけていたので、はじめは何を言っているのか聞きとれなか ったが、やがて聞きとることが出来た。 「あんたねえ、帰ったら先生に言って頂戴よ。あんたのとこの先生の字は、すごく読みにくし よ。打つほうの身になって、もう少し判りやすい字、書いて下さいって、そう言ってよ」 パンに突っかけサンダルの私を使いの者だと思っているらしし 、。私は、今でも先生などと呼 ばれる人物ではないし、まして十五年前は、そうだったが、どこの社会でも字を書いて暮してい ると、こ、フ呼ばれることもある。 私は、申しわけありませんと最敬礼をした。 「帰ったら、よく伝えます」 「そうよ。倍、手間がかかるんだから」 言いながら、その人は、不意に語調が弱くなった。。 とうやら私が本人だと気がついたらしい よろしくお願いしますと頭を下げて出ようとする私を呼びとめ、 「いま、お茶を入れるから」 土間のガス・ストープの上で、湯気を上げているヤカンをチラリと見てから、茶の用意をはじ めた。 暗い電灯に目が馴れてみると、そのうちはヤスリ屋だということが判った。
「、、じゃない、その服」 「聞いたわよ : 「あとでーーーね」 私の話し こ感、いしながら、どうもこんなメッセージを入ってくる相手に瞬間に伝えているらしい 手話というのは聞いたことがあるが、眼話というのは初めてであった。二度が二度ともそうであ つ、 ) 0 てんびん 私は天秤にかけられ、ないがしろにされたわけだから腹を立ててもいいわけだが、そんな気持 になれなかった。むしろ、心を打たれた。彼女はこの姿勢で這い上ってきたのだ。おそらく恋人 と一緒であっても、喫茶店で入口に背を向けて坐ることはないであろう。いっ何時、彼女にとっ て役に立つ人物が入ってこないとも限らない。見落してはならないのである。この人に心の安ら ぐ時があるのだろうか。この人の一番の好物はラーメンである。 じんましん 「三日食べないと蕁麻疹が出るんですよ」 大女優はざっくばらんな口調で、あなたにだけ本当のことを白状するんですよ、という風に笑 猫ってみせた。笑いながらも、やはり喫茶室の入口から目をそらしていなかった。 ャ キ キャベッ猫は今年十三歳になった。 育ち盛りにキャベツを食べさせられたせいか、小柄でほっそりしている。そのせいか、お婆ち