「はじめての締切だな。夜遅くなって、うちの方は大丈夫なの ? 」 などと、御下問を賜ったばかりである。 逃げもかくれも出来ない。私は、黙って最敬礼をした。社長は、すこし笑って、何も言わすに 出ていった。 男友達に事情をはなしながら、近所のおいしいという評判のコーヒー屋に入り、坐りかけたら、 友達が私を突っく。奥まった席に社長が坐っていた。 このとき、社長は、大きな声で実に明るく哄笑した。今更出ることもならす、私たちは入口の 席に腰をおろした。社長は、私たちの分も料金を払い、笑いながら、私の頭を拳骨で小突く真似 をして出ていった。 私はこのあと九年間勤めたが、社長はこの夜のことを、編集長にも誰にも話さずにいたようで ある。 小さい出版社の苦しい時期であり、正直いって月給も高いとはいえなかったが、これだけ長く 勤めた原因のひとつは、あの夜の社長の笑い顔だったかも知れない。 それにしても、私はよくこ、ついう網にひっかかる。 天の網にはもういっぺん引っかかっている。
ひとの齢が判るようになったのは此の頃のことである。二十代は見当がっかなかった。出版社 へ入社したのは二十三の時だが、直属の上司になる人に「ばくは幾つに見えるかい」とたずねら れた。 多く言っても少なく言っても失礼にあたると思い 「三十から五十の間だと思います」 と答えたら、三十六歳であった。 んそんなわけだから、当時五十五、六と踏んだおばさんの齢は、もっと若かったのかも知れない。 ばおばさんは靴磨きである。 お私の勤め先のビルの前に店を出していた。店とい「たところで、街路樹の下に防水の合羽を敷 き座布団を二枚敷いて、足をのせる小さな踏み台を置くだけである。夏になると日除け代りの黒 おばさん
しじみ 蜆の未来について本気で心配したことがあった。 出版社につとめていた時分で、当時、私はお昼というと、よく近所の天ぶら屋に出掛けていた。 しんみ 家族だけでやっている小体な店構えだが、大根おろしひとつにも親身なものがあり、値段が安 いこともあって、編集部の先輩たちと連れ立っては、三日に一度はこの店で天丼や天ぶら定食の お世話になっていた。 ある時、気がついたら、満員の客の前に、蜆の味噌汁のお椀があった。満員といったところで、 膝送りで詰めて二十人はどだが、全員が蜆の椀を手に、チュウチュウと実を吸ったりしているの かなりみごとな眺めであった。 蜆急におかしくなった。 私の勤め先は日本橋だったが、サラリー マンに昼食を出す店はこの界隈だけで、何百軒とある
「お嬢さん」と書くところを「お嫌さん」と書いてしまったことがある。出版社に勤めていた時 分だが、しばらくの間「おイヤさん」と呼ばれて、きまりの悪い思いをした。深層心理などとい うご大層なことを言うつもりはないが、この間違いは少しばかり身に覚えがある。 短気横暴ワンマンの父にどなられて育ったせいであろう、私は子供の頃、親に向って嫌と言「 たことがなかった。言いたくても一言えなかった。同じ年格好の女の子が、父親に向って「嫌よ」 「嫌だ」と拗ねているのを見ると、うちには無い豊かなものを感じて羨しく思「た。嫌という字 とお嬢さんの嬢の字は、私の幼時体験の中で一緒なのかも知れない。 親に何か言われたら、大きな声で「 ( イ」と返事をしないと叱られるのだが子供心に不服は声 に出たらしい。父に 「嫌だと思ったら、その分だけ大きな声で気持よく返事をしろ」 金覚寺
かたくな と頑に辞退をした。二、三度続くと当り前になった。言いにくいことだが、これは予算の乏し い小さい出版社にとっては、助かることであった。 まだテープコーダーが普及していない時分でもあり、滝口さんの腕は抜群であったから、私た ちはまず滝口さんの都合をたしかめてから座談会の日取りを決めるほどであったが、いつも隅っ こに坐り、無ロで、気がつくと居なくなっているこの人を、常連の評論家も私たちも、どことな く軽くみているところがあった。 梅雨の頃だったと思う。急に座談会の時間がズレて、私は滝口さんと一時間はど喫茶店で時間 をつぶす破目になった。 席につく時、滝口さんの持っていたハトロン紙の袋が雨に濡れて破れ、カメラの専門誌が床に 落ちた。滝口さんはカメラ雑誌の常連入選者であった。それがキッカケで、私は滝口さんの意外 な側面を聞き出すことが出来た。何百鉢という蘭を育て、その方面ではプロであること。三人の 子持ちであること。ヴァイオリンを弾くこと。 出るのはため息であった。 「人は見かけによらないわねえ」 「そうですよ」 若気のいたりとしか言いようのない言い草を咎めもせず、滝口さんは気の弱そうな目で笑うと えりもと ハッキリしない色の開衿シャツの、衿元までキッチリとかけたボタンをはずしてみせた。
280 野猿が姿を見せるので人気のあるハイ・ウェイがある。 遠方からの客が、どうしても猿を見たいので案内して欲しいと言い出したが、生憎シーズン・ オフで猿は山籠りの最中であった。いノ ま行っても出てきませんよ、と兇月し , ミ、 一一石日学 / 力を二 ) かノ、見」 一匹ぐらいは出てくるだろうと客もあとへ引かなし 仕方がないので出かけて行った。猿が出るあたりで車をとめ、窓をあけて、 「猿が出た ! 」 と叫んで、かねて用意のものを道端にほうり出した。お馴染みのティンパニーを叩く猿の玩具 である。 黄色いビロードの猿は、すっとばけた顔で、灰色の冬山を背にしてティンパニーを叩いていた そうだ。 静岡県日光市
「便所の前で、新年の挨拶が出来るか。来年から気をつけろ」 とどなるのである。 私が着物を着るようになり、つけ帯を作って見せた途端、ひどく腹を立てた。 「これで、どれだけの時間、得をするというんだ。こんな心掛けでは日本は潰れるそ」 ひどい水虫に苦しみながら、サンダルやメッシ、 ( 編目 ) の靴を不真面目と罵って絶対に履か あせも す、冠婚葬祭には夏でもモーニングを着用して汗疹を作っていた。 小野寺氏は、もと勤めていた出版社の上司である。大正生れだが、何事も正式にやらないと気 の済まない点はうちの父といい勝負であった。 編集部にケーキの箱を頂戴する。私たち女の新入社員が、お茶をいれながら皿に移そうとする と、小野寺氏はっと席を立ち、ケーキの箱を手に、デスグを廻りはじめる。初めは男のくせにお かしなことをする人だなと思っていたが、二度三度重なるうちに気がついた。彼は年功月給順に 席を廻りケーキをすすめていたのである。 明治節が来ないと、どんなに寒くてもコートを着ない。他人に対する呼び方も、位階勲等年功 序列によ「ては「きりしており「先生」「さん」「君」「ちゃん」をキチンと分けていた。女子社 員が男子社員を「君」と呼ぶことを嫌い、その都度たしなめていた。 編集部の中で彼はまとめ役のような立場にあ「たが七転八倒するのは、年に一度の席替えの時
女の子のように化粧している男の子もいる。絵具箱をぶちまけたようなグループに対抗するか のように上から下まで黒いサテン一色、音のほうはロッグという一群もいた。 何時間こうやって踊っているのか知らないが、おなかがすくだろうなあと感心して見ていたら、 いきなり話しかけられた。 六十五、六の品のいい紳士である。 何か言っておいでらしいが、なにせ騒音大会なのでよく聞きとれない。何度か聞き直して、や っと判った。 「少々伺いますが、これは、なにをやっとるんですか」 なにをやっているのだろう。私は正確に答えることが出来なかった。 ごく短い期間だが、帽子作りを習ったことがある。 二十代半ばの頃で、出版社につとめていた時分であった。週一度、先生のお宅に伺う個人教授 である。友人にさそわれたのだが、帽子は洋裁と違って、縫ったりかがったりする量が圧倒的に すくない。二回も通えばひとつ出来てしまう。 ちょっとした思いっきや感じ方が形や線に生かせるところも気に入って、仲間に入れてもらっ た。本音は、お稽古のあとでご馳走になるサンドイッチがお目当てというところもあった。 二週間に一個の割合で新しい帽子が出来るわけだが、習いたてのほやほやのために帽子の注文
私は駅前のそば屋に飛び込んだ。そう言ってはなんだが、安直な小さな店である。 きつねを注文したとき、ガラス戸があいて一人の男が入ってきた。 ハムレットであった。 こわばって棒立ちになった彼の顔は、叔父と密通している母ガー トレト王妃の姿をみつけた 時と同じだったかも知れない。私は、大きな声で笑った。笑うしか仕方がなかった。このときの 私の声は、いま考えると研ナオコと同じ声ではなかったかと思う。 「天網恢恢疎にして漏らさず」という。 老子のおことばで、天の法律は広大で目が粗いようだが、悪人は漏らさすこれを捕える、とい う意味だということを、たしか女学校のとき習ったようだが、どうも私はこの天の網にすぐ引っ かかるように出来ているらし、 就職をして、最初の締切、残業のときに、私は編集長に嘘を言って早く帰った。小さな出版社 で、編集部といっても四人か五人であったから、それこそ深夜まで居残って割付けをしなくては ならなかった。 私はその晩、男友達に芝居をさそわれていた。どうしてもゆきたくて、新入社員の分際で怠け たのである。ところが、芝居が終ってあかりがついたら、すぐ横に、社長が坐っていた。ついこ の間、面接をしたばかりの社長である。具合の悪いことに、その日の夕方に、
加カチ、ちり紙、櫛なども、ちょっと拝借することがある。顔を貸せ、と凄まれたこともないし、 知恵を貸せ、といわれるほどの人間でもないが、手を貸せ耳を貸せは、時々聞くことがある。 私が聞いたなかで、一番びつくりしたのよ、、 。しきなり「靴下を貸せ」といわれたことであろう。 二十年、いやそれ以上前のはなしだが、明大前で乗り換えの電車を待っていた。 当時勤めていた出版社の仕事で筆者の家へ原稿を取りにいった帰りだったと思う。時刻は夕方 であった。季節は忘れたが、真夏ではなかった。 突然名を呼ばれ、肩を叩かれた。同年輩の女である。 「何年ぶりかしら。懐しいわねえ」 大感激の様子で名を名乗るのだが、申しわけないことに私は記憶がない。父の仕事の関係で、 学校は七回も変っている。短いところでは、一学期もいなかったのだから、今迄にもこういうこ とは何度かあった。せつかくの気分に水をさすのも悪いと田 5 い、私も「懐しいなあ」と調子を合 せた。そこで、彼女に言われたのである。 「お願い、靴下貸して」 電車の中で引っかけて、大きな伝線病を作ってしまった。これから気の張るところへ出掛けな くてはならない。済まないが、あなたのと取り替えて欲しいという。成程、膝小僧の下から幅五 センチほどが、茶色のスダレのようになって足首まで走っていた。 私は絶句してしまった。気の張るところではないが、私だって日本橋の勤め先まで帰らなくて ひざ