124 た 相手が自分の思い通りにならないと、カッとなり八つ当りをするからこうなるのだが、こうい ろうぜき いえどなべかまにわばうき う手合いと雖も、鍋釜や庭箒に殴る蹴るの狼藉はしない。ややこしく、むつかしそうな電気製品 などの機械類が多いのである。 たかが機械のくせに自分より教養もあり頭がよさそうである。どうして音が出るのか走るのか くら考えても理屈が判らない。判ったような顔をして使ってはいるが本当のこ 物が映るのか、い 一どきには手が出ないから月賦である。 とはチンプンカンプンである。値段も高い どうもテキはそのへんを見すかしているらしく、ツンと取り澄して小面憎い それでも、ちゃんと動いて物の役に立っている間はいい。いったん、動かなくなると、常日頃、 押えている不満が爆発する。 したで 十 / し、刀」 「お前の方が賢いと思って下手に出ていたが、なんだい、おかしいじゃよ、 「見ろ。だから機械は駄目なんだ」 少しずつ、目に見えない勢いで、じりじりと人間は機械に押されている。自転車や懐中電灯ま では何とか判ったが、テレビだのグーラーとなると、もうお手上げである。コンビューターとな ると、もう見当がっかない だから、こういう機械が故障する、間違えると、プン殴りながら、少しはっとする。 こづら
224 うちの近所の八百屋にも、メロンがならんでいる。一個三千五百円か、高いなあと思って、手 に取ったら、お尻のあたりがかなり熟れていたらしく、親指がめり込んでしまった。 買うべきか買わざるべきか、モタモタしていたら、目ざとく見つけたらしい若主人が寄って来 た。いたすらつばく笑いながら、 「キズものだから、千円でいいよ」 と一一一口 , つ。 ちょうど客があったので、四切れに切りわけて出したところ、これがアタリで、何ともおいし かった。柳の下にメロンは二個おっこっていないかと思ったわけでもないが、次に出かけた時も、 私はついメロンに手を出した。このとき、うしろから声があった。 「奥さん」 私は奥さんではないが、近所の商店ではこう呼んで下さる。若主人である。彼はニャリと笑う とこ , つ一一一口った。 「〈フ日は親化は駄目よ」 先手を打たれて、親指メロンはただ一回しか食べることが出来なかった。 お恥しいはなしだが、私は平常心をもってメロンに向いあうことが出来ない。 オしか、と無理をして なんだこんなもの。偉そうな顔をするな。たかが、しわの寄った瓜じゃよ、 みくだ 見下す態度をとりながら、手は、わが志を裏切って、さも大事そうに、ビグビグしながら、メロ
幻なられた。 風邪っ気らしく、彼女はマスグをかけていたので、はじめは何を言っているのか聞きとれなか ったが、やがて聞きとることが出来た。 「あんたねえ、帰ったら先生に言って頂戴よ。あんたのとこの先生の字は、すごく読みにくし よ。打つほうの身になって、もう少し判りやすい字、書いて下さいって、そう言ってよ」 パンに突っかけサンダルの私を使いの者だと思っているらしし 、。私は、今でも先生などと呼 ばれる人物ではないし、まして十五年前は、そうだったが、どこの社会でも字を書いて暮してい ると、こ、フ呼ばれることもある。 私は、申しわけありませんと最敬礼をした。 「帰ったら、よく伝えます」 「そうよ。倍、手間がかかるんだから」 言いながら、その人は、不意に語調が弱くなった。。 とうやら私が本人だと気がついたらしい よろしくお願いしますと頭を下げて出ようとする私を呼びとめ、 「いま、お茶を入れるから」 土間のガス・ストープの上で、湯気を上げているヤカンをチラリと見てから、茶の用意をはじ めた。 暗い電灯に目が馴れてみると、そのうちはヤスリ屋だということが判った。
自分は中流である、と思っている人が九十一バーセントを占めているという。 この統計を新聞で見たとき、私はこれは学校給食の影響だと思った。 毎日一回、同じものを食べて大きくなれば、そういう世代が増えてゆけば、そう考えるよう【 なって無理はないという気がした。 小学校の頃、お弁当の時間というのは、嫌でも、自分の家の貧富、家族の愛情というか、か ~ 当「てもらっているかどうかを考えないわけにはいかない時間であ「た。 弁豊かなうちの子は、豊かなお弁当を持 0 てきた。大きいうちに住んでいても、母親がかま「 おくれない子は、子供にもそうと判るおかずを持ってきた。 お弁当箱もさまざまで、アルマイトの新型で、おかず入れが別になり、汁が出ないように、 お弁当
女の子のように化粧している男の子もいる。絵具箱をぶちまけたようなグループに対抗するか のように上から下まで黒いサテン一色、音のほうはロッグという一群もいた。 何時間こうやって踊っているのか知らないが、おなかがすくだろうなあと感心して見ていたら、 いきなり話しかけられた。 六十五、六の品のいい紳士である。 何か言っておいでらしいが、なにせ騒音大会なのでよく聞きとれない。何度か聞き直して、や っと判った。 「少々伺いますが、これは、なにをやっとるんですか」 なにをやっているのだろう。私は正確に答えることが出来なかった。 ごく短い期間だが、帽子作りを習ったことがある。 二十代半ばの頃で、出版社につとめていた時分であった。週一度、先生のお宅に伺う個人教授 である。友人にさそわれたのだが、帽子は洋裁と違って、縫ったりかがったりする量が圧倒的に すくない。二回も通えばひとつ出来てしまう。 ちょっとした思いっきや感じ方が形や線に生かせるところも気に入って、仲間に入れてもらっ た。本音は、お稽古のあとでご馳走になるサンドイッチがお目当てというところもあった。 二週間に一個の割合で新しい帽子が出来るわけだが、習いたてのほやほやのために帽子の注文
「あちらさんからですよ」 鉤の手のカウンターの、向うの隅で飲んでいる一人の男を指さした。 年の頃は五十五、六。色浅黒く立派な目鼻立ちである。湯上りらしく、糊の利いた浴衣姿で、 私に笑いかけているが、全然見覚えがない。 「判りませんか。お宅へ三回ほど伺ったことがあるんですがねえ」 考えるとき首をひねるというが、あれは本当である。すぐ前の、しみの浮き出た鏡に、私の首 をひねる姿がうつっていた。 降参した私の隣りに、その人は片手で自分のお銚子の首をプラ下げ、片手で盃を持って引っ越 してきた。坐るなりこう言った。 「クズ屋ですよ」 そう言えば、 と私も思い当った。 ポケットから使い古した麻紐を出し、古雑誌を几帳面に束ねて丁寧に礼を言って帰っていった クズ屋さんがいた 奥さんには一度、お礼を言いたいと思っていた、と彼は私に新しいビールをつぎながら言った。 私は奥さんではないが、異を唱えると話が面倒になるので黙って続きを聞くことにした。 「奥さんは言葉が綺麗だ」 ゆかた
キエ子にはこの類いのしくじりがいくつもある。 彼女はこの二、三年、ひそかに日本の印刷事情について憂うるところがあった。 週刊誌のカラー・グラビアの印刷がズレている。一番 ( ッキリしているのは人間の眼で、真中 の黒目が必すハミ出している。彼女はもと雑誌の編集をやっていたので、これは製版のズレによ るものだと判っていた。 高層ビルだとか、なんだとか上ばかり見て調子づいているが、こういう小さなことは積み残し ではないか 。グラビアの目玉がズレていて、白目の外に黒目玉がくつついて、大平さんも山口百 恵も赤ンべ工をして、文化国家もないもんだ。 そういえばたるんでいるのは印刷関係ばかりではない。鉄鋼関係もなっていない。その証拠に、 此の頃の縫針の出来の悪さは、まさに目を覆うものがある。 三本に一本は、針目が潰れている。作りがズサンなのかごみがつま 0 ているのか、糸が通らな いのである。 尊折を見て誰かに言わなくてはいけないと思「ていた矢先に、ある雑誌の編集者と話をする機会 独 があった。いい折だと思い忠告をしたところ、その人は、いきなりこう言った。 唯「失礼だが、検眼をしたほうがいいんじゃないですか」 たぐ
お礼の電話をしようと思っていると、 「向田です、いかがでした ? 村上豊さんのさし絵素晴しいでしよう」 電話が来る。 私は眼の行き届かないたちで、文章はすぐ読んでもさし絵を見ていない時が多く、あわてて電 話中に手をのばして、雑誌をひき寄せて見たこともある。 「天の網」で、くもの巣に女の子がひっかかっていたりして、いわれて見れば面白いいい絵だっ しかし、向田さんもその頃は週刊誌の連載が初めてで、さすがに緊張し昻奮していられた。本 当は絵のことより文章が気になるのだ。 「面白かったわ。どうしてああいうふうな発想が出来るのかふしぎだわ。よく昔のこと覚えてい らっしやるのねえ」 向田さんは満足げなころころした声で、 「ね、面白いでしよ」 と念を押し、ごきげんで喋る。 説「何だこりや」の章の「何だこりや」といった男の人の声色など、たびたび聞いて、こちらもお かしなものを見たとき真似をするようになってしまった。 解 どれも読んでいると、そうだそうだ、と嬉しくなるのだが、自分からは全く思いっかない。私 四か挈」 , つい , っといつも、
肩をぶつけあい、ふざけながら行ってしまう。あの集団が、三十分後には作法にのっとってお 茶をたてているかと思うと不思議な気になるが、この人たちも団体でなく一人だと礼儀正しい 統計をとったわけではないが、妙に道を聞かれる日と、絶対にその種のおたずねのない日のあ るのに気がついた。 聞かれる日は、普段着で、時間のゆとりのある日である。反対に、少し改まった外出着で出掛 ける時、締切に追われて、せかせかしている時、考えごとをしたり気持の晴れない日は、まず呼 びとめられることはない。 人、教えてく 考えてみれば当り前で、私も人に道をたずねる場合、地元の人で、声のかけいい れそうな人を、瞬間的に選んでたずねている。陰気な人、理屈つばそうな人、気むずかしい人を おっくう 避けている。一日に二度も三度も同じことを答えるのは億劫なこともあるが、気のいいおばさん に見ていただいた光栄を思って出来るだけ親切に答えねばならないと、自分に言い聞かせている。 それでも虫の居所が悪いと、あれは浅草だったか、道を聞こうとのぞいた四つ角の文房具屋に、 「道教え、一回十円いただきます」 と書いたポール紙がぶら下っていたのを思い出して、年をとって気むずかしくなったら、あれ を首に下げて歩こうか、と思ったりする。 おととしのお正月、ひる過ぎに年賀状を出しにおもてへ出たら、老夫婦に明治神宮への道をた
37 なんた・こりゃ 新しい音楽。新しい衣裳。新しい考え方。正直いって、よく判らず、 そう一一一一口、つと、オグレているよ、つで気がひける。 「なんだ、こりや」 「なに、やってんの」 しらふ 素面でこう一言う勇気があればいし 、と思いながら、つい物判りのいい顔で笑っているのである。 しいとも思えないのだが、