女の子のように化粧している男の子もいる。絵具箱をぶちまけたようなグループに対抗するか のように上から下まで黒いサテン一色、音のほうはロッグという一群もいた。 何時間こうやって踊っているのか知らないが、おなかがすくだろうなあと感心して見ていたら、 いきなり話しかけられた。 六十五、六の品のいい紳士である。 何か言っておいでらしいが、なにせ騒音大会なのでよく聞きとれない。何度か聞き直して、や っと判った。 「少々伺いますが、これは、なにをやっとるんですか」 なにをやっているのだろう。私は正確に答えることが出来なかった。 ごく短い期間だが、帽子作りを習ったことがある。 二十代半ばの頃で、出版社につとめていた時分であった。週一度、先生のお宅に伺う個人教授 である。友人にさそわれたのだが、帽子は洋裁と違って、縫ったりかがったりする量が圧倒的に すくない。二回も通えばひとつ出来てしまう。 ちょっとした思いっきや感じ方が形や線に生かせるところも気に入って、仲間に入れてもらっ た。本音は、お稽古のあとでご馳走になるサンドイッチがお目当てというところもあった。 二週間に一個の割合で新しい帽子が出来るわけだが、習いたてのほやほやのために帽子の注文
222 聞いたはなしだが、私はこの情景を思い出すと、嬉しくてたまらなくなる。 十年も前のことだが、五人ほどの友人と、京都で年越しをしたことがあった。 みそかあん 大晦日に京都で落合い、八坂神社におけら詣り、晦庵あたりで年越しそばを食べながら除夜の 鐘を聞く。年が改まったら、祇園で舞妓さんをよんであげようという奇特な友人もまじっていて、 京都の寒さも忘れるほどの楽しさであった。 夜の町に繰り出す前に、ホテルで軽くおなかを拵えたのだが、私は急にメロンが食べたくなっ た。隣りのテープルの新婚らしいのが、ほどよく熟れたのに、スプーンを入れているのが目にと まったのである。 ところが、 ーダー格の女友達が、おっかない顔をしてとめるのである。ただでさえ高価なメ ロンを、ホテルの食堂で注文したら一切れいくらになると思うか、というのである。一夜明けた ーツといこうといっているのに、メロン一切れに目を三角 ら、祇園へ上ろう、たまには豪気にパ にするとは情ないと思ったが、もっともな言い分なので、ポーイさんを呼ばうとあげかけた手を おろした。その顔が、よほど食べたそうにみえたのであろう。友人は、そんなに食べたいのなら 果物屋で一個買いなさいという。みんなで「乗って」あげる。割カンで買い、ホテルの窓の外に 出しておき、冷えたところで食べれば、ホテルの半値以下で食べられるというのである。一同、 賛成をしてくれたので、おけら詣りの行きがけに、あいている果物屋で、一番大きい高いメロン
ッキングのついた留めのついているのを持ってくる子もいたし、何代目のお下りなのか、でこば こになった上に、上にのせる梅干で酸化したのだろう、真中に穴のあいたのを持ってくる子もい 当番になった子が、月使いさんの運んでくる大きなャカンに入ったお茶をついで廻るのだが、 アルミのコップを持っていない子は、お弁当箱の蓋についでもらっていた。蓋に穴のあいている 子は、お弁当を食べ終ってから、自分でヤカンのそばにゆき、身のほうについで飲んでいた。 ときどきお弁当を持ってこない子もいた。忘れた、と、おなかが痛い、と、ふたつの理由を繰 り返して、その時間は、教室の外へ出ていた。 砂場で遊んでいることもあったし、ポールを蹴っていることもあった。そんな元気もないのか、 羽目板に寄りかかって陽なたばっこをしているときもあった。 こういう子に対して、まわりの子も先生も、自分の分を半分分けてやろうとか、そんなことは 誰もしなかった。薄情のようだが、今にして思えば、やはり正しかったような気がする。ひとに 恵まれて肩身のせまい思いをするなら、私だって運動場でポールを蹴っていたほうがいい お茶の当番にあたったとき、先生にお茶をつぎながら、おかずをのぞいたことがある。のぞか なくても、先生も教壇で一緒に食べるので、下から仰いでもおよその見当はついたのだが、先生 のおかずも、あまりたいしたものは入っていなかった。 昆布の佃煮と切りいかだけ。目刺しが一匹にたくあん。そういうおかすを持ってくる子のこと
盟「なにさ。人、馬鹿にして」 と言ったが、これは私にではなく、これからかけるべき電話の相手に叩きつける言葉のようで あった。彼女は右に左に揺れながら公衆電話のある銀行の方へ歩いていった。 雪はまた烈しくなった。 はらわに 指には大粒の光るものがあったし、高そうな腹鰐の・ハッグもふくらんでいたが、いろいろ大変 なんだなあと思いながらうちの方へ歩き出したら、うしろから叫び声が上った。 さっきの彼女である。 「この公衆電話、どしたのよオ。電話掛けるとこがついてないじゃないの」 体ごとかじりつき、激しくぶん殴りながら泣き叫んでいる。 「機械まで人を馬鹿にすンだから」 彼女のかじりついて殴っている四角くて赤いものは、コカ・コーラの自動販売機であった。 機械がいうことをきかないといって、ぶん殴るのは、子供の頃から身近かで眺める光景であっ ガアガアと雑音の中に本物の音がまじり、それもしばしば聞えなくなるラジオを、父はよく張 り倒しては聞いていた。
時季はずれの風邪をひいてしまった。 テレビの仕事がひと区切りついたので、チ = ニジア、アルジ , リア、モロッコからサ ( ラ砂漠 へ入る半月ほどの旅行に出掛けたのだが、風邪はどうもその旅先でいただいたらしい。帰りの飛 はな 行機のなかは、洟との闘いであった。 自分が格闘していたので、いきおい他人さまの洟のかみかたが気になった。 ハンカチをひろげてグシュッとやる。 外人は、特に西欧の人たちは、はな紙で洟はかまない む使った ( ンカチはポケットには戻さず、背広の袖口に押し込んでおいてまた使う、と物の本で読 をんだのは、何十年前のことだったか。 洟本当にそうだろうかと半信半疑だった。 はじめて外国へ出たのは十二年前だったが、見るもの聞くもの、浦島太郎ではないが、たた珍 洟をかむ
「皆さんそうおっしやるのよ」 と、髪を手でかき上げてお得意の邦子ちゃん、だった。 これは小説を書くようになられてからだが、 「どうして夫婦のことなんかわかるの ? 」 と聞いてみたら、 「猫を見てりやわかるわ。人間だって大した違いはないでしよ」 といわれてしまった。 初めて一緒に京都へ行ったのも、このエッセイの連載のころだった。 事故の一月前にも行ったのだが、遊ぶときの向田さんは可愛らしかった。 迎えに行くと、必ず外に出ていて、大ていじっとしていられないで跳ねていた。車にのると、 「嬉しい、嬉しい、遊ぶのだぞ」 という。この話を、このごろよく向田さんのお母様とする。「邦子が働いてばかりだったと思 うと辛いけれど、こういう話をきくとはっとする」とおっしやるからだ。 新幹線に乗り込むと、私のお金を徴収し、自分も同額を御持参の赤い財布に入れ、「公金」と 称した。 面白くなって、二泊のつもりが三泊になったことがあった。やっと帰った日、私の妹が用があ って行ったら、四日分の猫臭さの中に、編集者らしい人がいたという。
長くて動いて、冷たくて足のないものはほかに無いかと居合せた来客みんなで頭をひねった。 一番年かさの、この方は学識経験ともに豊かな紳士でいらしたが、長考の末、「出来た ! 」とお っしやった。答は、「ウドン」であった。 半年ほど前になるが、源氏物語を三時間のテレビドラマにまとめる仕事をした。 自分を棚に上げていうのだが、ほとんどの人がこの物語を完読していないのに気がついた。一 説によると、専門家は別にして、隅から隅までキチンと読んでいる人は日本中で五千人はいない のではないかという。かく一一一一口う私も、勿論、この五千人のなかには入っていない 同じ長いものでも日本の古典は弱いけど外国物なら、というので聞いてみると、これも、心も とないことが多一い 伊えばトルストイ。 「ああ、ひげ生やしているひとでしよ。白いひげ」 トストエフスキー 「あの人もひげなのよ。こっちはごま塩だったかな。長さはトルストイのはうが少し長かったわ ね」 ひげダンスをするわけではないから、ひげの長短はどちらでもいいのだが、作品のほうへはな しがゆくと、ますますややこしくなる。
「そういうことは幹事に聞いてくれ」 と一言う。プエノス・アイレスまでゆくのかサンパウロか、何べん聞いても覚えられないという。 「いま下にアンデス山脈が見えますよ」 と誘ったが、山なんか別に珍しくもないといった顔で、また折り重なって眠ってしまった。 こんこん 彼らは眠いのだ。特に女は昏々と眠っていた。 彼女たちは旅に出る前に、全精力の半分は使い果してしまうのであろう。 万々一、飛行機が落っこちた場合にも赤っ恥を掻かぬよう、嫁に何処を見られても、 片づけものやばろとじくり、洗濯をしなくてはならない。パ マも掛けなくてはいけよ、し、お 守りももらってこなくてはならない。お餞別をもらったうちへ挨拶にゆかなくては、あとが面倒 である。 そしてもうひとつ、一番の大仕事は隠し場所を考えること。隠すのは勿論へそくりである。 ハッ枝は裏庭を掘っていた。 裏庭といったところで、三坪かそこらの猫の額なのだが、とにかく 隅に穴を掘り、ビニール袋 に入れた貯金通帳とハンコを隠してゆかなくてはならなかった。 せがれ 組合の旅行でハワイへゆくことになり、ちょうど還暦とぶつかったことから、伜が費用を半分 出してくれた。女手ひとつで子供を大きくしたのだから、どこへゅこうと別に気兼ねはないのだ せんべっ
「いま何時 ? 」 とたずねる。 河原崎君は、聞かれた瞬間に答えなくては申しわけないという風に、泡くって左手首をひねっ て外側の腕時計の文字盤を見る。途端に弁当箱は逆さになり、中のものは机や膝の上に散乱して しまう。一度や二度ではなかったという。たずねる方は面白半分だが、河原崎君は真剣だった。 引っくりかえすと判っていながら、気持と手首の方が先に動いていたのかも知れない。 私はすぐに転校してしまったので、このあとのことをくわしくは知らないが、白くふくらんで いた河原崎君は、間もなく腎臓を患い、敗戦を知らずに亡くなったという。 あふ 彼は他人にない素晴しいものを満ち溢れるほど持ってもいたが、生きてゆくために、チョコマ 力と要領よく立ち廻るために必要な部品がひとっ欠けていた。 天才といわれる人には、こういう人が多いのではないか。私はキリストの像を見ると ( 不信心 なせいもあるのだが ) 、人に時間をたずねられると、手首をひねって、弁当箱をひっくりかえし てしまう人のように思えて仕方がない 聡明な女が増えて来た。 料理がうまく趣味もよく話題も豊富で、いく つになっても充分に魅力的である。私は女の癖に
Ⅲれた挨拶をした。お茶やお菓子も父が、「頂きなさい」というまでは目もくれないから、父は自 慢でよく私を連れ歩いた。 お坐りやお預けを仕込まれた大みたいなものだが、はじめての子供だから、父も賞められたさ によく上役の家にも連れて行った。 父は、そのお宅で私にひとわたり芸を、つまり挨拶やお預けをさせ、 しつけ 「さすがはお躾のいいお嬢さん」 と賞めそやされて得意になっていたところ、私はかなり大きな声で、こう聞いたそうな。 かけじ′、 「お父さん。どしてこのおうちは懸軸がないの ? 」 直属の上司のお宅で父は赤っ恥を掻き、 「二度と邦子は連れてゆかないぞ」 と母に八つ当りをしていたそうだ。 空襲が烈しくなった頃だったから、昭和も十九年か二十年であろう。 女学校に入ったばかりの私は、暗い茶の間でラジオを聞いていた。今でいえばニュース解説の ようなものを男の人がしゃべっていた。まだ民間放送は開局していなかったから z である。 戦地で戦っている兵隊さんのことを考えて、食糧の節約にはげむように、というような話が、 時折雑音の入る旧式のラジオから流れていたが、