東京から鹿児島へ転校した直後のことだから、小学校四年のときである。 すぐ横の席の子で、お弁当のおかずに、茶色つばい見馴れない漬物だけ、という女の子がいた その子は、貧しいおかすを恥じているらしく、 いつも蓋を半分かぶせるようにして食べていた。 滅多に口を利かない陰気な子だった。 どういうきっかけか忘れてしまったが、何日目かに、私はその漬物をひと切れ、分けてもらっ た。これがひどくおいしいのである。 坐っていて、 当時、鹿児島の、ほとんどのうちで自家製にしていた壺漬なのだが、今みたいに、 日本中どこの名産の食べものでも手に入る時代ではなかったから、私は本当にびつくりして、お いしいおいしいと言ったのだろうと思う。 その子は、帰りにうちへ寄らないかという。うんとご馳走して上げるというのである。 小学校からはかなり距離のあるうちだったが、私はついていった。 こあきな もとはなにか小 商いをしていたのが店仕舞いをした、といったっくりの、小さなうちであった。 を考えて、殊更、つつましいものを詰めてこられたのか、それとも薄給だったのだろうか。 私がもう少し利発な子供だったら、あのお弁当の時間は、何よりも政治、経済、社会について、 人間の不平等について学べた時間であった。残念ながら、私に残っているのは思い出と感傷であ る。
ときて、 ーグションとなってしまう。相手側からクレームがついて試合は中断の止むなきに到 どうもおかしいというので調べたら、道具一式をくれた気前のいいメーカーは、胡椒やカ レーで戦後大発展をしたところと判った。 野球道具は、倉庫に眠っている間に商売ものの香辛料をたつぶりと吸い込んだのであった。 おおげさ 小さなしあわせ、と言ってしまうと大袈裟になるのだが、人から見ると何でもない、ちょっと したことで、ふっと気持がなごむことがある。 私の場合、七色とんがらしを振ったおみおつけなどを頂いていて、ブツンと麻の実を噛み当て ると、何、 力いいことでもありそうで機嫌がよくなるのである。 子供の時分から、七色とんがらしの中の麻の実が好きで、祖母の中に入っているのを見つける と、必ずおねだりをした。子供に辛いものを食べさせると馬鹿になると言って、すしもわさび抜 き、とんがらしも滅多にかけてはくれなかったから、どうして麻の実の味を覚えたのか知らない が、とにかく好きだった。少し大きくなり、長女の私だけが、朝のおみおつけに、ほんの少し、 七色とんがらしをかけても、 しいと言われた時は、一人前として認められたようで、ひどく嬉しか 母方の祖父の一番の好物は、七色とんがらしであった。
ンを取り扱っている。 レストランやよそのお宅でメロンをご馳走になる場合は、育ちが悪いと思われてはならぬ。そ れでなくても向田という苗字はすくないのだから、氏素性がいやしいなどと思われては、親きょ こんなもの、いつもいただいております、という風に、 いや、ご先祖様にも相済まない ごくざっと食べてスプーンを置く。 しかし、うちで到来物のメロンを食べるときは、日頃の心残りを晴らすように皮キリキリのと 一滴の果汁もこばさぬよう気を遣って食べるのである。このメロンに ころまで、果肉をすくい、 しても、うちうちで食べるのは勿体ない。来客があった時に、と冷蔵庫に入れておくうちに、締 切で時期を失し、切ってみたら、傷んでしまって涙をのむことも多いのである。 一人で一個、いや半分のメロンを食べてみたいと思っていた。ひとりで働いてい 一度でいい。 るのだから、しようと思えば出来ないことはないのだが、果物に三千円も四千円も払うことは冥 利が悪くて出来ないのである。 ン ところが、四年前に病気をして、入院ということになった。花とメロンが病室にれた。食べ 。ようと思えば、一度に三つでも四つでも食べられる。幸い、外科系の病気で、胃腸は丈夫なので メ 食欲はある。それなのに、食べたくなかった。 メロンは、病室で、パジャマ姿で食べても少しもおいしくないのである。高い値段を気にしな いた
消しにすることができるのである。 あのドアは壊れてはいなかった。 かさ 私の友人にも、髪を大切にする人がいた。私より少し年嵩だったが、靴下に伝線病と呼ばれる ほっれがあっても髪の乱れていることはなかった。 彼女の髪はさほど長くはなかったが、いつも美容院に行きたてのようであった。 映画を語っても、天下国家を論じていても、この人がひとり加わるといつの間にか、話は髪の たた ことになり最後は決ってこの人の髪の美しさを称えさせられることになっていた わかめ 毎朝、若布の味噌汁を食べること、睡眠を十分にとることが美しい髪を保つ秘訣だと教えてく れた。ただ眠るだけでなく、部屋を暗くして、髪の毛を休ませなくては駄目だと言っていた。 この人と一緒に社員旅行をしたことがある。社員旅行というのは宴会が終っても、すぐにはお やすみなさいにはならず、男女別々の大部屋に布団を敷きならべ飲んだりだべったりして夜中過 ぎまで騒いでいる。 髪たが、彼女ひとりは、十時になると部屋のすみの鏡に向い髪にプラシをかけて、グリップを巻 きつける。ネットをかぶり、自分の布団をひつばって押入れの中に入るのである。 黒押入れの下段に横になり、裾の方を十センチはど開けていた。この人とは何度もスキーや旅行 四を一緒にしたことがあるが、この習慣は変らなかった。この人も女としてはあまり幸せとはいえ
174 ある映画会社の宣伝部から電話がかかり、カーク・ダグラス主演の新作が入ったので、予告とし て載せて欲しいという。題名は「悪党部落」だというのでその通り大きな活字でのせたところ、 「アグト・オプ・ラブ」 ( 愛の行動 ) の間違いであった。平謝りに謝ったが、カーグ・ダグラスの 顔を考えれば無理はないと、これは皆さん寛大であった。 十年近くっとめて会社を止め、フリーのライターになった頃、外国旅行をするにしても、これ では余りにひどいと考えて、会話の学校に通ったことがある。 月謝の一番高い学校へゆけ。人間、欲がからめばその分真剣になって覚えるものだと人に言わ れ、貯金をおろして、外人教師と一対一で習う名門校を選んだ。 授業は一レッスンが四十五分だが、ひとことも日本語を使うことを許さない。一分遅刻しても、 その言いわけを英語で述べなくてはならない。私はこの時習った「トラフィッグ・ジャム」 ( 動 路混雑 ) という言い方を今も覚えている。このレッスンで私は、 「あなたのしゃべり方は、ウィリアム・シェーグスビアと同じです。誰に習いましたか」 と先生に笑われた。旧制女学校の英会話は恐ろしく古めかしかったらしい 一日二レッスンの授業でぐったりして、もう英語はワンと言うのも嫌という気持になり、学校 のすぐ前のレストランに入り、せめて和定食でも食べようとカウンターに坐って吐息をついてい ると、肩をたたく男性がいる。
222 聞いたはなしだが、私はこの情景を思い出すと、嬉しくてたまらなくなる。 十年も前のことだが、五人ほどの友人と、京都で年越しをしたことがあった。 みそかあん 大晦日に京都で落合い、八坂神社におけら詣り、晦庵あたりで年越しそばを食べながら除夜の 鐘を聞く。年が改まったら、祇園で舞妓さんをよんであげようという奇特な友人もまじっていて、 京都の寒さも忘れるほどの楽しさであった。 夜の町に繰り出す前に、ホテルで軽くおなかを拵えたのだが、私は急にメロンが食べたくなっ た。隣りのテープルの新婚らしいのが、ほどよく熟れたのに、スプーンを入れているのが目にと まったのである。 ところが、 ーダー格の女友達が、おっかない顔をしてとめるのである。ただでさえ高価なメ ロンを、ホテルの食堂で注文したら一切れいくらになると思うか、というのである。一夜明けた ーツといこうといっているのに、メロン一切れに目を三角 ら、祇園へ上ろう、たまには豪気にパ にするとは情ないと思ったが、もっともな言い分なので、ポーイさんを呼ばうとあげかけた手を おろした。その顔が、よほど食べたそうにみえたのであろう。友人は、そんなに食べたいのなら 果物屋で一個買いなさいという。みんなで「乗って」あげる。割カンで買い、ホテルの窓の外に 出しておき、冷えたところで食べれば、ホテルの半値以下で食べられるというのである。一同、 賛成をしてくれたので、おけら詣りの行きがけに、あいている果物屋で、一番大きい高いメロン
としての肥しになる。 万津子は古い友人である。 私と違 0 て猫額大だが庭のある一戸建てに住んでいるのだが、ひる過ぎに訪ねると、路地に面 した出窓に必ず白い旗が出ている。 一日一回は豆腐を食べないと気の済まない彼女が、豆腐屋に、「今日も寄って下さい」という 合図なのだ。 こくくりつけた、ご主人のらしい古いハンカチである。 白旗は朝顔の突っかえ棒に使う細い竹 この白い旗を横目で見ながら、建てつけの悪い玄関の格子戸を開けると、実家にでも帰ったよう な気安さがあって、私はよく遊びに出掛けた。 ということであった。肉ばかり食べていると体が酸性に 万津子のロは、肉食を止めなさい、 なり諸病のもとであるという。最後は必す豆腐を食べなさいになるのが決りであった。 万津子は以前は納豆に凝っていた。 納豆に醤油も何も入れすそのまま一回に一袋すっ食べる。一年続けたところ、或る日、ロ許ま で持っていったら、どうしても口が開かない。狂犬病や破傷風になるとそうなるというが、犬に 咬みつかれたことも怪我をした覚えもなかったというから、体が味無し納豆を拒否したのであろ う。仕方がないので豆腐に転向をした。 こや
いてみたらーーー何と私のマットレスは再びもとのところに立てかけてあった。 どこのどなたか知らないが、かついで帰ったものの匂いに気づき、再び捨てにいらしたのであ ろう。 この日一日、私は笑い上戸であった。私は東京っ子のせいか「ええかっこしい」のところがあ る。網棚に読み捨てた新聞を拾って読む人を、そうまでしなくても、という目で見ていた。拾と 捨という字をよく間違える癖に、拾うより捨てる方を一段上と思っていた。しかし、マットレス をかついで帰り、鼻をつまんで再び戻しに来た人を考えると、この方が人間らしいなという気が して来た。 食べたかったら万年筆の箸で食べればいいのである。暗い階段で食べる卵サンドイッチもオッ な味がするかも知れない。欲しいものがあってもはた目を気にして素直に手を出さないから、 い年をして、私は独りでいるのかも知れない。何だか粗大ゴミになったような気がして来た。
落語の酢豆腐ではないが、メニュ ーにないものを注文する人がいる。 友人と中華料理を食べにゆく。その人物はなかなかの食通で、行きつけの顔の利く店があちこ ベキンカオヤ ちにあるのだが、北京愕鵯を頼むときに、 「鵯はいらないよ。たまにはアッサリいきたいから、代りに何か野菜を炒めたのを持ってきてく れないか。それを巻いて食べよう」 などと言うのである。 北京愕鴨というのは、鵯に蜂蜜などの調味料を塗って丸焼きにして、皮ごとそぎ切りにしたも のを、細切りの葱、味噌と一緒にうす焼にした皮に包んで食べる料理である。 特給仕人は、「かしこまりました」と引き下るが、私は気がもめて仕方がない。 北京娉鵯は、パリッと香ばしく焦げた皮つきの鴨が、そのかなり高価な値段の大部分を占める 特
さる名家が客を招いた。 ばんさん 結構な晩餐の最後は、メロンである。一同、礼儀正しく頂いているところへ、この家の幼い令 息令嬢が挨拶に出て来た。一門から宰相や名指揮者を出している名門の子弟らしく、お行儀は満 点である。 やがて、宴は終り、客はおいとまをしたのだが、なかのひとりが、食卓に忘れものをしたこと に気づき、玄関から食堂に取ってかえした。 ンその客が見たものは、 ロ 「メロンだ、メロンだ」 メ と叫びながら、客が礼儀正しく鷹揚に食べ残したメロンを、片端から食べている、生き生きと した二人の子供の姿であった。 メロン おうよう