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検索対象: 由美かおるの西野流呼吸法
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1. 由美かおるの西野流呼吸法

馬稲子さんもいました。 " 永遠の青年 ~ 西野先生は、何をするにも全力で目標に挑戦します。そして、普通の人ならほとんど 困難に近い目標を何なく達成すると、次の瞬間には、も、つさらに大きな目標に向かい邁進している のです。 リルケが、「天才とは特別な才能のある人ではない、常人ではできない努力を平気な顔をしてやっ てしまう人だ」と言っていますが、その一一一一口葉はそのまま西野先生の生き方にあてはまると思います。 西野先生は、その後、本物のバレエを求め、ニューヨークのメトロポリタン・オペラ・バレエス クールに留学します。当時 ( 昭和一一十六年 ) アメリカに留学するということは、現在の留学とは比較 にならないほど困難なことでした。 アメリカに渡ること自体がすでに大変なことで、西野先生は、朝鮮戦争 ( 昭和一一十五年六月ー一一十 六年七月 ) に従軍し負傷して帰国するアメリカ兵にまじり、軍用機でニューヨークに渡ったのです。 メトロポリタン・オペラ・バレエスクールでは、日本人 歳 観では初めてプロクラスに入り、超一流の教師陣の下で、朝 跣から晩までレッスンに励みました。そして、世界で通用す る技術を身につけて帰国すると、早々に本格的なバレエ団 こを設立し、古典バレエの完全な形での演出、上演。さらに 創造性にも富んだ創作シンフォニックバレエも上演し大成 陸功をおさめたのです。 工 それでも西野先生の飽くことのない追求心は、とどまる レ ことを知りませんでした。 レ ハレエをより普及させるため、当時創成期だったテレビ酊

2. 由美かおるの西野流呼吸法

第 8 の一 " ' 尸 " ・ 4 きみたちに出演してもらいたいがどうか をやりたい。 プラウン管の中で精一杯踊ってみないか 「突然の話でしたが、と聞いて、信じられなかっ た。たくさんの人たちに私の踊りが見てもらえるかと 思うと、うれしくてね。もちろん、父は大反対でした。 それで私、断食をして抗議したんですよ」 西野か説得に訪れ、父時一はようやく折れた。 「けどな由美子、に出たかて、有頂天にならず、 人間らしくせいよ。途中でやめるんなら、最初からや めとけ 寂しそうに、しかし毅然と語った父親の言葉は、由 美かおるの頭から離れない。その後、猛スケジュール の中でも、泣き言めいたことは、一度も両親に語った ことはなかった。 翌日から猛稽古が始まった。バレエシューズをハイ ヒールに替え、稽古着を網タイツ姿に替えられた。西 野が曲に合わせてスピードのある振付を教えていく。 で 「初めての振付をヒールで踊るんですから夢中でした。 ム イそれとショーの中で歌う英語の曲を覚えなきゃいけな 最初の曲、憶えてますよ。ドリス・ディの『テ ョ 、ン ィーチャース・ペット ( 「先生のお気に入りー ) 』。なん の とか覚えて局のスタジオに行くと、ニューヨークの夜 景が組んであ 0 た。セットの中で無数のあかりが点滅

3. 由美かおるの西野流呼吸法

0 稽古にかけつけてくる高弟の方々がおられま四 す。 ソニー株式会社の副社長 ( アメリカンソ ニ 1 会長 ) 盛田正明さんは、稽古を始められ て四年になります。現在、ニューヨークに在 住されています。月に一度、本社での取締役 会で帰国する折、必ず稽古にお見えになりま す。ニュ 1 ヨークでは多にな中、毎日稽古を されています。盛田さんはテニスの名手とし て知られていますが、西野流呼吸法を始めて 私テニスの腕前がさらに上がり、ほとんどプロ ・コナーズなど ニさ並みになられました。ジミー アメリカのトッププロともよく練習されます。 田 盛盛田さんのものす ) 」いサープやレシープを目 のあたりにして、あるプロには「僕と代わって試合に出ないか」と真顔で言 われたのです。 世界有数の総合医療企業の日本法人、バクスター株式会社の小松万豊会長 はスポーツ万能の方ですが、ゴルフとスキーが格段に上達されました。たて ん続けに優勝し、部屋がゴルフのトロフィ 1 で一杯だといっておられます。 ~ 万住友銀行の玉井英一一専務取締役は、特に気の成長が著しい方のお一人です。 つい先日 ( 昭和六十三年六月 ) もゴルフのコンべで、他の企業のトップの

4. 由美かおるの西野流呼吸法

てみたい。″ ' 生命の美 ~ を、今度は学問としてではなく芸術的創造として追求しようとしたのでした。 私たち日本人には少し理解しにくいことかも知れませんか、バレエはヨーロッパでは芸術の中心と ルぜん して J 輝く、いわば芸術の華ともいえる存在なのです。 西野先生は本場ニューヨークに留学し、本格的に " 身体の美 ~ としてのバレエを追求しました。そ してバレエの世界でも、いざというときに発揮される人間の " 生命の神秘 ~ に、幾度かハッとさせら れたのです。 例えば、先生がラフマニノフのピアノコンチェルト第一一番ホ短調「波涛」に踊りを振り付けている とき、突然ある " ひらめき ~ かわいてきて、普段のその踊り手からは思いもよらない動きか引き出せ たとのことです。 「人間は、ここぞというとき、一一度とできないようなことかできる。それこそか " 生命の神秘 , だ / と西野先生は言っています。 西野先生は最後に、 " 生命の神秘 ~ をつきとめよ、つと、東洋に目を向けられました。 歌舞伎の動き、能の動き、もちろんそれぞれに素晴らしさがあります。先生はさらに東洋の動きの 究極を求めました。生命には不思議な強さがある。この強さには " 生命の神秘 ~ を解く重要な鍵が隠 されていると田 5 った。 そして武道の世界に入ったのです。初めは合気道を始め、たちまち師範になってしまいました。 さらにより深く東洋の動きの神髄を追い、中国拳法を、日本では拳聖といわれる澤井健一先生から 学びました。その澤井先生が、西野先生の「ひたむきな情熱と、その天才ともいえる天分」を認め、 全く先例のない速さで西野先生に免許を与えられたのです。 こうして、西野先生は西洋と東洋の動きの神髄を獲得し、さらに自らの独創を駆使して、 " 生命の 真実と美と強さ ~ を解明する画期的な方法として " 西野流呼吸法 ~ を発見したのです。

5. 由美かおるの西野流呼吸法

血をにじませながら猛稽古を続けた。西野皓三は呼吸 法を創始した今日まで、「手を抜くということはな パレ = の野皓三帰国 日ハい来年はウエルズ学校〈留学川 かったに違いないし、「手抜きは西野皓三のもっと も嫌いな言葉であるはずだ。それほど西野は「至上」 米、 = 1 轡 0 を目指し「完璧主義」を貫き通している。 、ま製年費彡ッスレ・聞 レエら一ア わたしはある席上で、西野皓三の背に腕を回す機会 ド、メ下 0 求リタン、バレエ・ス があった。この時とばかりに素知らぬふりをして、そ やル朝義直 0 ・、彎第で民日 の背筋を探った。。 ヒアノ線のように細く強靱な筋肉。 第野民 0 新「第女あバレ朝 ま本以よ・まいク 「煢の」聾第の その一本一本が律動しながら集合し、しなやかな背筋 ツ . に , 第フ第・に報 」す 0 ラライツ、バレエを を構成していることに驚いたことがある。西野を初め のテクうツを、 ) いアイデア国 「歡し一、いるで、日帰 て知った者は、その跳躍力に瞠目するが、どれもバレ 0 子 , 0 01k ・ウ西野 ~ い学新長帰る 、、、てい , ダーンパレと , ョ第のメ、ポリタン・ 工にすべてを捧げた当時の猛稽古が基礎となっている。 第レエをすル第専同 ) もいの与」・西 ハレエを始めて二年後、西野は二十四歳の若さで宝 くるみ 塚月組公演の振付を任される。しかし、宝塚歌劇の振スキー『胡桃割人形』で世に問う姿勢を示した。演 そうじん 付だけに満足せず、一九五一年 ( 昭和二十六年 ) 単身出・振付が西野皓三。美術・中畑艸人。演奏・関西交 響楽団。出演が西野バレエ団の第一期黄金時代を飾っ 渡米。ニューヨーク・メトロポリタン・バレエスクー た馬場敦子、荻野元子たちである。その上演プログラ ルで一年、振付の基礎を勉強して帰国する。まだ戦後 混乱期の続く中で、芸術を求めての渡米は大きな話題ムに、二十八歳の西野はバレエに対する激しい情熱を 垣間見せた文を寄せている。 となり、その帰国は新聞でも報道された。 一九五四年 ( 昭和二十九年 ) 一月十四日。大阪産経 《「ジゼル」はロマンチック・バレエの代表的なもの 会館で、待望の西野バレエ団旗揚げ公演が上演された。 であり、 ( バレエ発祥の ) 当時、欧州全体を風靡して 西野皓三はこの旗揚げに本邦初演の『ジゼル』 ( 全曲 ) を持ちこみ、それにバッ、 いたロマンチシズムの波が、このバレエの台本にも振 『若者と死』、チャイコフ