0 稽古にかけつけてくる高弟の方々がおられま四 す。 ソニー株式会社の副社長 ( アメリカンソ ニ 1 会長 ) 盛田正明さんは、稽古を始められ て四年になります。現在、ニューヨークに在 住されています。月に一度、本社での取締役 会で帰国する折、必ず稽古にお見えになりま す。ニュ 1 ヨークでは多にな中、毎日稽古を されています。盛田さんはテニスの名手とし て知られていますが、西野流呼吸法を始めて 私テニスの腕前がさらに上がり、ほとんどプロ ・コナーズなど ニさ並みになられました。ジミー アメリカのトッププロともよく練習されます。 田 盛盛田さんのものす ) 」いサープやレシープを目 のあたりにして、あるプロには「僕と代わって試合に出ないか」と真顔で言 われたのです。 世界有数の総合医療企業の日本法人、バクスター株式会社の小松万豊会長 はスポーツ万能の方ですが、ゴルフとスキーが格段に上達されました。たて ん続けに優勝し、部屋がゴルフのトロフィ 1 で一杯だといっておられます。 ~ 万住友銀行の玉井英一一専務取締役は、特に気の成長が著しい方のお一人です。 つい先日 ( 昭和六十三年六月 ) もゴルフのコンべで、他の企業のトップの
西野バレエ団は一階に広い稽古場が二つあった。玄 「そんなら、学校終わったら、二人で行こか」 関をあけると、上階への階段があり、二階は二つの更 「うん、行こ、行こ」 教室で交わした少女らしい会話が、西辻由美子の運衣室と大きな衣裳部屋が備わっていた。階段の踊り場 からは広い稽古場を眺めることができる。 命を決定することになる。 「稽古場では各クラスとも約六十人ずつでレッスンを 「私の一生を左右した級友の勧めでしたが、彼女は一 年ほどでやめ、私だけが川西から通うことになりまやります。その中で由美ちゃんは、小さくてまだ未熟 身体全体が白く光っていたような印 な技術でしたが、 すー 西野バレエ団は、すでに二百坪の敷地に二階建ての象を受けた 稽古場の外壁には〈公認大阪バレエ学園西野ハ 稽古場を持ち、生徒数三百名を超える、関西でも最大 手のバレエ団に成長していた。西辻由美子が入団した レエ団〉と書かれた大きな看板が掲げてあった。大阪 に初めて同バレエ団の看板が立ったのが一九五三年 頃、バレエ団として大阪フェスティバルホール、労音 公演、東京公演などを次々と成功させ、貝谷八百子バ ( 昭和二十八年 ) 。洋行帰りで、バレエの情熱と野心を みなぎらせていた西野皓三は、まだ二十八歳の若さだ レエ団、小牧正英バレエ団などとクラシックバレエの った。 覇を競う大きな勢力として存在していた。 西辻由美子は、西野バレエ団の稽古場をのぞいただ 「完璧主義」貫く師・西野皓三 けで、身のすくむような興奮をおぼえる。そこでは、 九十機に及ぶ四の大編隊が商都・大阪に焼夷弾の ハレエ好きな少女への指導でなく、誰もが一人前とし て扱われる大人のレッスンが、厳しく行なわれていた雨を降らせた。焼失家屋三十一万戸。死者一万余名。 一九四五年三月十三日。大阪大空襲によって湧きあ からだ。由美子はその日のうちに入団願書を受けとり、 がる黒煙を、西野皓三は芦屋近郊 ( 香櫨園 ) の高級住 両親を説得にかかった。川西から京橋まで一時間半。 りつぜん 無論、遠いバレエ通いと聞いて、父親は反対したが宅地にある実家から、慄然たる思いで眺めていた。大 と、バレ阪・浪速区で、商工組合の常務理事の子として西野は 「勝手にやめたり、投げたりせんなら 生まれた。その愛着のある大阪が灰燼に帰していく。 工教室の変更を認めた。 189
伸びる足。小柄な身体が、広い稽古場一杯に花を咲か なかなか振り返ろうとしなかった。 せていた。 大衆の中へ。観客の前へ。 ししけどねえ 「バレエも、 西野皓三が舞踊界の一部から「変節」とも受けとら 母松江は、一時間半をかけて西野バレエ団に通う由 れた > への接近は、より多くの人々に、バレエの美 美子の背に向かって、いつもため息を洩らした。 しさを知ってもら、つこと。これが原占にあった。 「年とってから大変やから、音大にでもいって、先生 「千人の観客にバレエを見せるのと同じように、数十 になるというのはどうやろ」 万人の視聴者にバレエを見てもらうことも大切です。 お母ちゃん、そんな遠い将来のことなど、まだ何も 真実を手に入れようとすれば、その数十倍も異なこと わからへん。でも、稽古は楽しいわ。周りはみんな大 e-«> に向か、つことでこ、つむる をしなければならない。 人ばっかりやしな 誤解と中傷は覚語の上のことでしたねー メディア 由美子が入団した当時、西野皓三は上級クラスのレ 新しい媒体として発展途上にあったは、スタッ ッスンと振付、そして番組の構成に時間をとられ、 フも若く、次々と新番組を生んでいた。よみうりテレ 初心者指導は数えるほどしかなかった。西野から直接、 ビのディレクタ 1 だった橘功 ( 現同局チーフプロデ ューサー ) が、完成間もない大阪・京橋の西野バレエ彼女がレッスンを受けるのは、出演が決定してか らのことである。 団事務所を訪れたのは、東京オリンピック直後のこと である。 稽古場では一一十歳になった金井克子の踊りを、由美 「稽古場に案内されたら、すでに数十名の練習生がダ子は何度か眼の前で見る機会があった。 ルマ ( 黒の稽古着 ) 姿で汗をかいていた。そのうち、 すでにスタアのを獲得し 00 あ 0 た金井克子の踊 ひとりの少女に目が止まった。踊りも上手だが不思議りはダイナミックて、足は腰は大きな弧を描き宙に舞 っ , ) 0 な雰囲気を持っている。その子だけ、ウエストに白い 〈プリマとして、舞台を踏みたい〉 ヒモを結んでおり、横にちょこんと赤いバラを差して ひそかな思いを胸にした西辻由美子は、その踊る姿 を注視する男たちの存在に、まだ気づいていない。 西辻由美子はまだ十四歳だった。表情の豊かな手。 195
つまり投げる者と投げられる者が決まった上で稽古すは思っていたんですよ」 る型武道である。西野は取り、すなわち投げる術者と 仕事の合間に、由美かおるも、いい年をした男同士 して相手の差しだす手首を取り、覚えた通りにねじろ の " 殴り合い ~ を垣間見たことがある。 うとした。が、技を知る相手の高段者は強引にその逆 「あんな遊びに精を出すなら、もう少し踊りの稽古に を取り、西野を投げようとしたのである。 も力を入れて欲しいと、 ハレエ団の事務所の人たちは 「その瞬間、身体の中を電気が走り、足先がスーツと あきれ返っていました」 した」 " 気 ~ を感じ、それが「呼吸」と関係があると気がっ ねじられている手首に、なんの痛みもなかった。し くまでに、 " ケンカ十段″と仇名のついた西野の友人 かも相手がわずかにぐらついたように田 5 えた。ためし は稽古中に五回、病院にかつぎこまれている。 に西野は息を吐きながら手に意識を送ると、逆を取っ 「技が決まるとき、必ず意識が足にある。足から呼吸 ていた高段者がもんどりうって倒れたのである。 しているんですね 〈今のはなんだ / 〉 西野はよりいっそう強い武道を求め、拳聖として名 西野にとっても衝撃だった。力も入れず、相手の高 高い大気拳 ( 中国拳法 ) の達人、澤井健一師を訪ねた。 段者が転がったのである。 戦前の中国で″国手〃といわれた王向斉から大気拳 「それから私は " ケンカ十段 ~ と異名をとる年来の友を学んだ澤井師は、西野の情熱と、青年のような鍛え 人を呼び、新宿御苑の一角やバレエの稽古場で、その あげた身体を見て、自ら手をとって教えた。大気拳は 技かなんであるのかを知るため、それこそ殴り合いの 眼と金的を突く以外、何をやっても、 ししとい、つ生入戦 . 組 稽古を続けた」 み手の荒々しさで知られた武道である。門人は空手や 繰りだされる猛烈なフックを手で受ける。それだけ武道の有段者が多く、しかも一一、三十代の血気あふれ で″ケンカ十段 ~ は激痛に身体をよじった。左脇に飛る若者が大半だった。西野皓三はこの澤井宗師の下で びこんできた頭突きを右手で軽くはたくと、相手は脳血みどろの修業を積み、六年で日本に五人しかいない 震盪を起こし、病院にかつぎこまれた。 教師七段 ( 最高位・師範 ) の免状を受ける。武道にも ぎよう 「あの頃の先生は " 行…でもしているのかしらと、私「完璧」を求めた西野皓三の中で、次第に呼吸法が完
第 8 の一 " ' 尸 " ・ 4 きみたちに出演してもらいたいがどうか をやりたい。 プラウン管の中で精一杯踊ってみないか 「突然の話でしたが、と聞いて、信じられなかっ た。たくさんの人たちに私の踊りが見てもらえるかと 思うと、うれしくてね。もちろん、父は大反対でした。 それで私、断食をして抗議したんですよ」 西野か説得に訪れ、父時一はようやく折れた。 「けどな由美子、に出たかて、有頂天にならず、 人間らしくせいよ。途中でやめるんなら、最初からや めとけ 寂しそうに、しかし毅然と語った父親の言葉は、由 美かおるの頭から離れない。その後、猛スケジュール の中でも、泣き言めいたことは、一度も両親に語った ことはなかった。 翌日から猛稽古が始まった。バレエシューズをハイ ヒールに替え、稽古着を網タイツ姿に替えられた。西 野が曲に合わせてスピードのある振付を教えていく。 で 「初めての振付をヒールで踊るんですから夢中でした。 ム イそれとショーの中で歌う英語の曲を覚えなきゃいけな 最初の曲、憶えてますよ。ドリス・ディの『テ ョ 、ン ィーチャース・ペット ( 「先生のお気に入りー ) 』。なん の とか覚えて局のスタジオに行くと、ニューヨークの夜 景が組んであ 0 た。セットの中で無数のあかりが点滅
方々四人でコースを周りました。ニアピン賞を狙うショートホールでのこと ンヨッ です。一人があわやホールインワンという旗竿にからみつくスー トを打ったのです。全員拍手かっさいで、他の人々はこれでニアピン賞は決 まったとあきらめていました。 んそのとき、玉井さんは「まだ私が打っていませんよ、私を忘れているので 一一はありませんか」と落ち着いて言ったのだそうです。そして、予言通り、全 く奇跡が起こったのです。玉井さんが打ったポールは、カップイン寸前とい う所にオンしたのです。ニアピンは玉井さんに決まりました。優勝回数は増えるばかりです。 玉井さんはこう語っています。「西野流呼吸法を始めて、最初は武技はおろか、基本の呼吸法の稽 古だけで疲労こんばいしてしまいました。帰宅後一「三時間は休息をとらなければならないほどでし た。それが稽古を始めてわずか一一年で悠々と三十数人の屈強な若者に稽古をつけられるとい、つのは、 信じられない体力の向上だと思います。呼吸法のたまもの以外の何物でもないと感謝しています。こ かっぜん れまでは、やたらと肩に力が入っていたのですが、軟芝目が開いた思いです。百キロを超える雲っ くような大男と組み手をするときでも、西野先生に教わったエネルギーの根源を、ゆったりと丹田に おくように意識すると、相手が吹っ飛ぶのです。人間の持っ能力のすさまじさと楽しさを満喫する思 いです」 西野流呼吸法の発見 西野流呼吸法は、私のバレエの恩師であり、武道家 ( 中国拳法師範、合気道師範 ) としても知られ る西野バレエ団の西野皓三先生が、西洋のバレエ、東洋の中国拳法、日本の合気道の動きの神髄から インスピレーションを得て、独自に創り出した画期的な呼吸法なのです。
月のことである。 宿に帰ると一晩中、傷に " 気 ~ を送ったんです。そう したら二日で傷がふさがってしまい、撮影もすぐに続 「女は一一つの道は追えない」 けられるようになったんです。これには私も本当にび 一九 , ハ五年。テレビはカラー化を達成し、黄金時代 つくりした」 を迎えていた。『木島則夫モーニングショー』をはじ 「 " 気〃は生命エネルギーーという西野皓一二の言葉を め、ワイドショーが次々に誕生していく。その中、米 再確認する出来事だったという。 再び、本番。 いくつかのシーンを撮り、この日の出国の深夜トーク番組『ジョニー・カースンショ 番は終了した。 刺激された異色番組』が誕生した。 「顧みられてなかった深夜時間を開拓しようという企 京都駅で東京行き新幹線を待っ間、由美かおるは、 みからできた番組。これを東京と大阪で制作を分けた キョスクの女性従業員に声をかけた。 「おばさん のですが、我々大阪のスタッフは対視聴者というより、 「あれ、まあ、来てたんかねえ」 東京の制作 ( 日本テレビ ) に負けてたまるかという意 京都と東京を往復する間に、 いつのまにか仲良くな 識に燃えていましたね。当時としては画期的だった作 ったという。到着する新幹線に乗りこもうとすると、 家の藤本義一、舞妓出身の安藤孝子をキャスターにし 中年の女性従業員は「これ、車内で」と、ビニール袋たのも、そのひとつ。そうして雑誌のグラビア部分と を押しつけていった。サンドイッチが二箱。 して、華やかなショ】のコーナーを作ろうと、西野バ 「芸能界に入って、最近、やっとお客さんを有難いと レエ団へ相談に行ったんです ( 橘功・よみうりテレ 思えるようになってきたんです。デビューした頃は仕ビ ) 事が分刻みで入っており、ファンの顔など見る余裕も 稽古が終わった後、西辻由美子は原田糸子とともに 事務所に呼ばれた。西野皓三のほかに見知らぬ男たち なかった」 グルマ 稽古着のウエストにバラの花を差していたことを、 がいた。橘を始めとするスタッフである。 由美かおるは億えていなかった。西辻由美子が由美か 西野がふたりを呼んだ理由を説明した。新しい おるになり、プラウン管に登場するのは一九六 , ハ年一一番組ができる。その中でミュージカル仕立てのショー 198
手を抜かず、すべての番組に全力を投入してきた西 うな時代。しかも、強力に後押しした彼女たち自身が、 西野の前から姿を消していった。結婚。他事務所への野皓三は、いつのまにか芸能界を駆け抜けてしまって いたのだろう。そうして眼の前には相変わらず「身体 移籍。失踪ーー と美。という永遠のテーマがぶらさがっていた。 「すべてをかなぐり捨て、少なくとも引退するまでは 「西野さん、あなたは身体を使う天才だ。身体を使う けんめいに努力する集団でありたいと思っていた」 う・んしば 世に送りだした女性タレントに対し、西野皓三は天才がもうひとりいる。植芝盛平。合気道の達人だが、 六代目菊五郎などが師と仰いでいるほど、身体の使い 「ひとりひとりは優れた素質の持ち主」と言いながら、 かたが素晴らしい わずかな無念を洩らした。 まだ二十代の頃、舞台美術を担当していた中畑艸人 「人気はただ商売と結びつくだけで、本質とは違うも が、茶のみ話に = = 叩ったことが、あざやかに思い浮かん のです。人気の中で本質をいかに開花させるか。その だのも、この頃のことだ。 開花させる厳しさに、ついてこれる者が少なくなっ 武道。 「身体と美。と武道。直感した西野皓三は新宿・若松 。本各的に歌い、踊るシ e > が様変わりしていく 町の合気道本部を訪れる。すでに開祖植芝盛平は亡く、 ヨー番組も少なくなっていった。西野が描く「完璧 その子息植芝吉祥丸が道主となっていた。「芸能界上 が通じなくなってきたのである。美の神髄をバレエに がりーの西野はこの道主自らの手ほどきを受ける。す 求め、を媒介にその美しさを大衆に投げかけ、よ でに西野皓三は五十歳を越えていた。 り高度な「身体と美」を追求しようとした西野の考え 「稽古は毎日でした。数年間続けていた南米チリの国 は間違っていたのか。 あか 際音楽祭の審査員をやめ、バレエ指導は弟子たちに任 「そうではない。私は芸能界という垢をなめたからこ そ、呼吸法に到達できたと思うのです。浮き沈みの激せ、合気道の稽古だけに専念した」 かって極真空手の総帥、大山倍達は「ダンサーは武 しい世界で、ある時は無理に毒を飲んでも、前に進ま 道家の最大の敵になる」と、その著書に書いた。西野 なければいけなかったこともある。いわば私にとって も武道とバレエの共通するものをとらえたのか、わず 芸能界は″修業〃の場であったのですね」 そうじん
血をにじませながら猛稽古を続けた。西野皓三は呼吸 法を創始した今日まで、「手を抜くということはな パレ = の野皓三帰国 日ハい来年はウエルズ学校〈留学川 かったに違いないし、「手抜きは西野皓三のもっと も嫌いな言葉であるはずだ。それほど西野は「至上」 米、 = 1 轡 0 を目指し「完璧主義」を貫き通している。 、ま製年費彡ッスレ・聞 レエら一ア わたしはある席上で、西野皓三の背に腕を回す機会 ド、メ下 0 求リタン、バレエ・ス があった。この時とばかりに素知らぬふりをして、そ やル朝義直 0 ・、彎第で民日 の背筋を探った。。 ヒアノ線のように細く強靱な筋肉。 第野民 0 新「第女あバレ朝 ま本以よ・まいク 「煢の」聾第の その一本一本が律動しながら集合し、しなやかな背筋 ツ . に , 第フ第・に報 」す 0 ラライツ、バレエを を構成していることに驚いたことがある。西野を初め のテクうツを、 ) いアイデア国 「歡し一、いるで、日帰 て知った者は、その跳躍力に瞠目するが、どれもバレ 0 子 , 0 01k ・ウ西野 ~ い学新長帰る 、、、てい , ダーンパレと , ョ第のメ、ポリタン・ 工にすべてを捧げた当時の猛稽古が基礎となっている。 第レエをすル第専同 ) もいの与」・西 ハレエを始めて二年後、西野は二十四歳の若さで宝 くるみ 塚月組公演の振付を任される。しかし、宝塚歌劇の振スキー『胡桃割人形』で世に問う姿勢を示した。演 そうじん 付だけに満足せず、一九五一年 ( 昭和二十六年 ) 単身出・振付が西野皓三。美術・中畑艸人。演奏・関西交 響楽団。出演が西野バレエ団の第一期黄金時代を飾っ 渡米。ニューヨーク・メトロポリタン・バレエスクー た馬場敦子、荻野元子たちである。その上演プログラ ルで一年、振付の基礎を勉強して帰国する。まだ戦後 混乱期の続く中で、芸術を求めての渡米は大きな話題ムに、二十八歳の西野はバレエに対する激しい情熱を 垣間見せた文を寄せている。 となり、その帰国は新聞でも報道された。 一九五四年 ( 昭和二十九年 ) 一月十四日。大阪産経 《「ジゼル」はロマンチック・バレエの代表的なもの 会館で、待望の西野バレエ団旗揚げ公演が上演された。 であり、 ( バレエ発祥の ) 当時、欧州全体を風靡して 西野皓三はこの旗揚げに本邦初演の『ジゼル』 ( 全曲 ) を持ちこみ、それにバッ、 いたロマンチシズムの波が、このバレエの台本にも振 『若者と死』、チャイコフ
かったのに、その著者はこちらが口を開く前に、きのうまであれほど強硬に言っていた要求を、な んと自分のほうから引っ込めてきたのです。そればかりではありません。その記事に読者プレゼン トのプレミアムをつけてもいいとまで提案してくれたのです。全く予想外の展開で、びつくりしま した。たとえば、その著者と会っているうちに、こちらの気持ちが相手の心を変えたというのなら、 それなりに理解できないではありません。 そのことを西野さんに報告すると、「呼吸は丹田に、顔はニコニコと、原山さんが心に描いたそ の瞬間から、状况のほうがどんどん変わり始めていたんですよ」との答えでした。四柱推命など東 洋占星術にも明るい西野さんの持論は、「占いは運命を予測することは可能だが、運命を変えるこ とはできない。唯一、運命を変えることのできるものは、呼吸である」ということです。そういえ ば、数年前、西野流呼吸法の稽古に通っていたころ、行き帰りの電車の接続があまりにもピタリピ タリとスムーズにいくので不思議に思ったことや、あるとき一一十年くらい会わない友だちのことを 考えていたら突然その友だちから電話がかかってきて驚いたことを思い出しました。 ということは、「スター・ウォ 1 ズ」でいう「フォース」とは、脳細胞の特別の働きではなくて、 その基本は正しい呼吸法にあるのではないかと思います。どんな困難な状況にあっても、平静な心 を保っためには、正しい呼吸法ができていなければとても無理です。 ( 中略 ) 正しい呼吸法とは、単に空気中の酸素を効率よく吸おうとするテクニックではなくて、西 野さんのいう「無限の世界とどこかで通じ合っている」ことを実感するための、電灯でいえば点滅 のスイッチのようなものではないでしようか ? そして、その電源が「無限の世界」に遍在する 「おおいなる心」から発していることを知れば、「スター・ウォ 1 ズ」における「フォース」の奇跡 も夢ではないのです。