西野 - みる会図書館


検索対象: 由美かおるの西野流呼吸法
163件見つかりました。

1. 由美かおるの西野流呼吸法

いながら、西野バレエ団に通っていた。入団申し込み らの電話も混じっていた。 「映画の共演 ( 日活『夜のバラを消せ』 ) がそれで決が一緒だった由美かおるとは、梅田の阪急前で待ち合 まったんですよ。それからは私の周囲が急激に回転しわせ、一緒に稽古に向かう仲だった。その後藤に西野 はマネジャーになるよう懇請したのである。 だした。予定されているスケジュールに合わせ、歌と 「四度目の誘いには、私もうなずかざるを得なかった。 踊りを覚えることで精一杯なんですー 彼女についていれば、本格的なショービジネスの世界 テレビ収録と同時に映画出演のために上京。二週間 が勉強できるとも思ったからです。しかし、それ以上 ほど石原裕次郎の家から日活撮影所に通うが、やかて に由美ちゃんの魅力に私もひかれたんですね。 新宿御苑に近いマンションに移る。この激しいスケジ 裕次郎という大スタアを相手に、演技など少しもわ ュールを飛びまわる由美かおるに、連れ添う元バレエ からぬ由美かおるが、堂々とカメラの前に立つ。その 仲間かいた。 可よりも彼女のプロポー 「映画撮影のために彼女が上京する時、 ( 西野 ) 先生呑みこみの早さに驚いたが、イ ションに圧倒されたとい、つ に呼ばれて、マネジャーとしてついてくれないかとい 酒場の場面があった。スタジオに作られたクラブは、 われた。でも、私にはバレエの教師になる夢があった しよくだい スモークがたかれ、由美かおるの背より高い燭台に、 ので、三度、 たくさんのロウソクが揺れている。酒場に踊り子とし 誘いを断わっ ています て潜入した網タイツに赤いヒールの由美かおるは、踊 りながら脚を回し蹴りのように高く蹴り上げ、ロウソ 後藤味世子 クを一本一本消してゆく。このシーンを本番一発で撮 ( 現姓中野 ) 子 は山口県から った直後、スタジオ内には裕次郎たちの感嘆に満ちた 世 高卒後、大阪 藤拍手がいつまでも鳴り響いていた。セットの陰で見守 の っていた後藤も、思わず手をたたきながら、「すてき に出て、機械醪 ャ とつぶやいていた。 部品製作会社 ) ン 、不 の事務を手云 ~ ( を霧ま 「きりつと上がったヒップ。切れのいいウエスト。胸。 マ

2. 由美かおるの西野流呼吸法

「悟りとは何かわかりますか、それは死ぬまで道を求めて努力することです。 釈迦やキリストは勿論、ゲーテは『もっと光を』と最後にいったし、べートー べンは最晩年、耳が聞えなくなっても作曲したでしよう。これが吾りです」こ れは西野皓三先生が、ある日、西野塾大阪教室でいわれた言葉である。これを 聞いた時、私は「西野先生は本物だ」とはっきり思った。この時、先生は実に さりげなくいわれた。「大切なことほど、さりげなく一言うべきものです」とは 京都のある高名な哲学者の言葉であるが、西野先生のお話はいつもそうである 褝ヒ西野流呼呱法平野宗浄 217

3. 由美かおるの西野流呼吸法

血をにじませながら猛稽古を続けた。西野皓三は呼吸 法を創始した今日まで、「手を抜くということはな パレ = の野皓三帰国 日ハい来年はウエルズ学校〈留学川 かったに違いないし、「手抜きは西野皓三のもっと も嫌いな言葉であるはずだ。それほど西野は「至上」 米、 = 1 轡 0 を目指し「完璧主義」を貫き通している。 、ま製年費彡ッスレ・聞 レエら一ア わたしはある席上で、西野皓三の背に腕を回す機会 ド、メ下 0 求リタン、バレエ・ス があった。この時とばかりに素知らぬふりをして、そ やル朝義直 0 ・、彎第で民日 の背筋を探った。。 ヒアノ線のように細く強靱な筋肉。 第野民 0 新「第女あバレ朝 ま本以よ・まいク 「煢の」聾第の その一本一本が律動しながら集合し、しなやかな背筋 ツ . に , 第フ第・に報 」す 0 ラライツ、バレエを を構成していることに驚いたことがある。西野を初め のテクうツを、 ) いアイデア国 「歡し一、いるで、日帰 て知った者は、その跳躍力に瞠目するが、どれもバレ 0 子 , 0 01k ・ウ西野 ~ い学新長帰る 、、、てい , ダーンパレと , ョ第のメ、ポリタン・ 工にすべてを捧げた当時の猛稽古が基礎となっている。 第レエをすル第専同 ) もいの与」・西 ハレエを始めて二年後、西野は二十四歳の若さで宝 くるみ 塚月組公演の振付を任される。しかし、宝塚歌劇の振スキー『胡桃割人形』で世に問う姿勢を示した。演 そうじん 付だけに満足せず、一九五一年 ( 昭和二十六年 ) 単身出・振付が西野皓三。美術・中畑艸人。演奏・関西交 響楽団。出演が西野バレエ団の第一期黄金時代を飾っ 渡米。ニューヨーク・メトロポリタン・バレエスクー た馬場敦子、荻野元子たちである。その上演プログラ ルで一年、振付の基礎を勉強して帰国する。まだ戦後 混乱期の続く中で、芸術を求めての渡米は大きな話題ムに、二十八歳の西野はバレエに対する激しい情熱を 垣間見せた文を寄せている。 となり、その帰国は新聞でも報道された。 一九五四年 ( 昭和二十九年 ) 一月十四日。大阪産経 《「ジゼル」はロマンチック・バレエの代表的なもの 会館で、待望の西野バレエ団旗揚げ公演が上演された。 であり、 ( バレエ発祥の ) 当時、欧州全体を風靡して 西野皓三はこの旗揚げに本邦初演の『ジゼル』 ( 全曲 ) を持ちこみ、それにバッ、 いたロマンチシズムの波が、このバレエの台本にも振 『若者と死』、チャイコフ

4. 由美かおるの西野流呼吸法

わって来た関係上、身体障害者は坐禅が出来ない、とすれば禅では身体障害者 を救えないのではないかという事に悩み続けて来た。それで呼吸法の事を真剣 けつかふざ に考えるようになったともいえる。結跏趺坐をしないでも優れた呼吸法がある はず ならば、それでこそ身体障害者は健常者と等同に救われる筈である。それが可 能なのは西野流呼吸法なのだとわかった時、私の実践方法が極めて明確になっ た。西野皓三先生は天才であるが、西野流呼吸法は我々凡夫でも充分実践でき るということ、そして現在先生から直接指導を受けられるという事、この事が 私に大きな自信をもたらせたといえる。 私は若い頃、禅の師家で剣道の名人と言われる大森曹玄老師に親しくさせて いただいた事がある。その頃老師から直接筆褝道や直真影流の型や居合道など を習ったが、師匠から僧侶が武術などやるべきではないと叱られ、それ以来武 術アレルギーのようなものが私の心底にあった。それで私の親友である東大教 授鎌田茂雄氏から合気道を勧められた時も、良い事とわかっていながら何かな じめなかった。それでは合気道の師範であり、中国拳法の師範である西野先生 になぜ入門したのかと問われるであろう。一口でいえば西野先生は単なる武術 の師範だけではないということである。西野先生にとって合気道も中国拳法も すべて自家薬籠中のものになってしまい、それらが西野流呼吸法の中に溶け込 んでしまって武術の臭みが無くなってしまっているように私は思ったのである。 それゆえ西野流呼吸法は武術よりもむしろ禅の方に一致していると私自身は解 釈している。世間ではよく剣禅一致とか武禅一致といわれているが、しかし私 220

5. 由美かおるの西野流呼吸法

てみたい。″ ' 生命の美 ~ を、今度は学問としてではなく芸術的創造として追求しようとしたのでした。 私たち日本人には少し理解しにくいことかも知れませんか、バレエはヨーロッパでは芸術の中心と ルぜん して J 輝く、いわば芸術の華ともいえる存在なのです。 西野先生は本場ニューヨークに留学し、本格的に " 身体の美 ~ としてのバレエを追求しました。そ してバレエの世界でも、いざというときに発揮される人間の " 生命の神秘 ~ に、幾度かハッとさせら れたのです。 例えば、先生がラフマニノフのピアノコンチェルト第一一番ホ短調「波涛」に踊りを振り付けている とき、突然ある " ひらめき ~ かわいてきて、普段のその踊り手からは思いもよらない動きか引き出せ たとのことです。 「人間は、ここぞというとき、一一度とできないようなことかできる。それこそか " 生命の神秘 , だ / と西野先生は言っています。 西野先生は最後に、 " 生命の神秘 ~ をつきとめよ、つと、東洋に目を向けられました。 歌舞伎の動き、能の動き、もちろんそれぞれに素晴らしさがあります。先生はさらに東洋の動きの 究極を求めました。生命には不思議な強さがある。この強さには " 生命の神秘 ~ を解く重要な鍵が隠 されていると田 5 った。 そして武道の世界に入ったのです。初めは合気道を始め、たちまち師範になってしまいました。 さらにより深く東洋の動きの神髄を追い、中国拳法を、日本では拳聖といわれる澤井健一先生から 学びました。その澤井先生が、西野先生の「ひたむきな情熱と、その天才ともいえる天分」を認め、 全く先例のない速さで西野先生に免許を与えられたのです。 こうして、西野先生は西洋と東洋の動きの神髄を獲得し、さらに自らの独創を駆使して、 " 生命の 真実と美と強さ ~ を解明する画期的な方法として " 西野流呼吸法 ~ を発見したのです。

6. 由美かおるの西野流呼吸法

、の A 」が IJ 西野流呼吸法は、読売新聞日曜版で「。 / 呼吸法」として連載され、好評を得ました。その大き な反響に応える意味も含めて、ここに西野流呼吸法を楽しく学べて、その奥義もっかめる本を出すこ とになりました。 西野流呼吸法によって導かれる、理想的な身体を " 宙遊 ~ と ) しいます。 " 宇宙 ~ に " 遊ぶ ~ ようにと西野先生がつけた用語です。 先生は、「なにものにもとらわれずに、あるがまま、それでいて字宙の秩序と調和し、自然に花が 開いたように / 輝い〃ていなくてはならないい きいきしているものは美しいと、 しいま、丁 無心で遊ぶ、無心で学ぶ、無心に物事を成す。子供が遊んでいるときは、まさにその状態にあります。 子供は遊びながら最大限に学びとっているのです。ギリシャ語の「パイディア」という一言葉が、 「遊び、と「学ぶ、の両方の意味を持っというのは興味深いことだと思います。 この子供の天真無垢な遊びや動きは、だれも止めることができません。生命エネルギーの純粋な高 揚かあるのです。大人の遊びにはどうしても作意が含まれます。 " 遊ぼう。と思うことがすでに、何 かにとらわれているからです。 子供はあくまで、心のおもむくまま、自在にふけります。この全く作意のない遊び。 単に " 遊戯三味。という一言葉がありますが、真実にはどこか共通するところがあるのでしよう。 西野流呼吸法の " 宙遊 ~ とは、まさにこの " 遊戯三昧 ~ と相通じるものだといえます。 " 宙遊 ~ の 身体とは、最も " 気…の巡りやすい " 開かれた身体 , にほかなりません。 西野先生が、西野流呼吸法の原点ともいうべき最も基本的な呼吸法 ( こ″天遊 ~ と名付けたのも、 に、真の動きの自在性を見たからです。 昭和六十三年六月 由美かおる 222

7. 由美かおるの西野流呼吸法

できないものが " 気 ~ だったんですね。しかし、先生 西野と手を合わせた。押して来いという。押した。 の " 気 ~ は非常に物理的であり、明確なものなんで 動かない。また押してみた。 「まるで動かないのですよ。私にも意地があります。 松井健二は、西野皓三がある剣術の達人と立ち合っ 渾身のカで押したがまるで動かず、そのうち、後ろに た時のことを目撃している。真剣を上段に構えた剣士 飛ばされてしまった。正直言って私の手首の力は並み は西野の前で身動きできず、再度の立ち合いでも、 じゃないんです。それが細い腕の先生に負け、あげく、 " 気 ~ を送られた剣術家は鞘から剣を抜くことすらで 手首が切れてしまった。失礼な話だが、あの程度の体 きなかった。 格なら普通、カで強引に持っていってしまうのですか、 「これまでも長年の修業の中で、達人は生まれてきた 逆に私の身体が浮いてしまったのですよ 松井健一一 ( 東京都剣道連盟杖道会常任理事 ) は三十はずです。しかし、どんな達人でも自分の持っ技を、 じよ・つど・つ 年間、杖道を修業してきた全日本剣道連盟教士七段と人に伝え教えるカリキュラムを持っていなかった。し ハレエ団の かし先生は呼吸法という〃気〃を導くカリキュラムを いう高段者である。五年前に西野を知り、 見つけだしたのです。このカリキュラムⅡ呼吸法を行 稽古場で立ち合っている。 なうと、不感症になっていた五感から、薄い膜がはが 「何十回となく、 ( 西野 ) 先生につかみかかり、突き れていくような、従来、感じなかったものが感じられ、 を入れ、足を飛ばしてみた . 西野の顔面に、アゴに、松井の鋭い拳が入る。とこ見えなかったものが見えてくる。しかも武道だけにと ろが、入れた瞬間、飛ばされるのは松井であり、西野どまらず、あらゆる分野に呼吸法は関わっていく素晴 は平然と立ったままなのだ。「こてんばんにやられ らしさを持っています」 やがて門下生を相手に、手首を当てながらの押し合 て帰った後、松井は高熱を出した。その衝撃的体験の いが始まった。青年たちだけでなく、主婦や高齢者た 中で、松井は西野皓三の門下生になることを決意して ちとも西野は平等に接していく。 「普通、こうした力を持っと、 " 秘術 ~ と称して、 「これまで " 気 ~ は殺気、モノの怪など、感応的、宗 " 気 ~ を出すための方法など教えないものですよね 教的なものとして語られてきた。早い話、うまく説明 さや 214

8. 由美かおるの西野流呼吸法

手を抜かず、すべての番組に全力を投入してきた西 うな時代。しかも、強力に後押しした彼女たち自身が、 西野の前から姿を消していった。結婚。他事務所への野皓三は、いつのまにか芸能界を駆け抜けてしまって いたのだろう。そうして眼の前には相変わらず「身体 移籍。失踪ーー と美。という永遠のテーマがぶらさがっていた。 「すべてをかなぐり捨て、少なくとも引退するまでは 「西野さん、あなたは身体を使う天才だ。身体を使う けんめいに努力する集団でありたいと思っていた」 う・んしば 世に送りだした女性タレントに対し、西野皓三は天才がもうひとりいる。植芝盛平。合気道の達人だが、 六代目菊五郎などが師と仰いでいるほど、身体の使い 「ひとりひとりは優れた素質の持ち主」と言いながら、 かたが素晴らしい わずかな無念を洩らした。 まだ二十代の頃、舞台美術を担当していた中畑艸人 「人気はただ商売と結びつくだけで、本質とは違うも が、茶のみ話に = = 叩ったことが、あざやかに思い浮かん のです。人気の中で本質をいかに開花させるか。その だのも、この頃のことだ。 開花させる厳しさに、ついてこれる者が少なくなっ 武道。 「身体と美。と武道。直感した西野皓三は新宿・若松 。本各的に歌い、踊るシ e > が様変わりしていく 町の合気道本部を訪れる。すでに開祖植芝盛平は亡く、 ヨー番組も少なくなっていった。西野が描く「完璧 その子息植芝吉祥丸が道主となっていた。「芸能界上 が通じなくなってきたのである。美の神髄をバレエに がりーの西野はこの道主自らの手ほどきを受ける。す 求め、を媒介にその美しさを大衆に投げかけ、よ でに西野皓三は五十歳を越えていた。 り高度な「身体と美」を追求しようとした西野の考え 「稽古は毎日でした。数年間続けていた南米チリの国 は間違っていたのか。 あか 際音楽祭の審査員をやめ、バレエ指導は弟子たちに任 「そうではない。私は芸能界という垢をなめたからこ そ、呼吸法に到達できたと思うのです。浮き沈みの激せ、合気道の稽古だけに専念した」 かって極真空手の総帥、大山倍達は「ダンサーは武 しい世界で、ある時は無理に毒を飲んでも、前に進ま 道家の最大の敵になる」と、その著書に書いた。西野 なければいけなかったこともある。いわば私にとって も武道とバレエの共通するものをとらえたのか、わず 芸能界は″修業〃の場であったのですね」 そうじん

9. 由美かおるの西野流呼吸法

ションはロック。少しばかり体力には自信があるつも過ぎた六十二歳である。体重六十キロ。この痩身のど 8 こに秘めたカがあるのか。 りでいた。ところが弟子たちと手合わせしてみると、 恥ずかしいほど、コロコロと負けた。 「筋肉には力を入れたり、緊張させてはいけない 西野の語る呼吸法は、これまでの武道の理論と大き 「筋力やスピードだけに頼らない武道。そうした世界 く違っていた。 を呼吸法は作りだしている」 ちゅうゆう 西野皓三はそう一言うと、弟子のひとりに対し、胸め 「逆に緩めるんです。宙遊といって、空中に漂うよう がけて思い切り突いてこいと命じた。百七十三センチな雰囲気の中で身体を動かす 由美かおるはレオタードにジーンズのジャン。ハーを の西野より背丈のある弟子が、充分に腰を落とし、す はおったまま、西野門下生が吹っ飛ぶ光景を見守って ばやい上段逆突きを入れた。ところが、突きが当たっ た瞬間、攻めているはずの弟子が、飛び跳ねるように 浮きあがり、そのまま吹っ飛んでしばらく起き上がれ 「ほんとに不思議ですが、これも呼吸法の持っ力なん なかった。 ですね。足の裏から息を吸い、その意識を丹田に落と 『気』。西野皓三は呼吸法によって会得したこの不思すーー私もこの呼吸法を学んで助けられたことが、何 議な力を " 気〃と呼んだ。 度もあった」 白昼の公園で見せつけられた呼吸法の威力。しかし、 「″気。でわからなかったら、生命エネルギーと呼ん でも結構。呼吸法によって、本来、人間が持っていた西野皓三は「秘術や秘技の類いではない。訓練すれば、 潜在的な能力、パワーを引き出すことができるんで誰でも″気″は出る」という。 直弟子のひとり由美かおるも " 気〃を出すことがで す。 呆然と、眼の前で起こる出来事を眺めていたが、我きるのか。 に返って気がついた。西野皓三は四人の弟子を相手に 彼女は " 気。の存在を知るところまで到達している れつばく のだろうか 裂帛の気合 する前、準備運動ひとっしていなかった。ー いを叫ぶわけでもなく、すばやい動きを見せたわけで 素朴な疑問を持ちながら、わたしは由美かおるの歩 たど んだ道を辿ってみることにした。 もない。しかもはるかに若く見えるが、西野は還暦を たんでん

10. 由美かおるの西野流呼吸法

いのですー ステージ全体を把握、構成し、舞踊家たちに今後の指 西野はバレエ界の閉鎖的な権威主義にも突き当たっ 針を与える組織者が必要である。西野はまさしく日本 ていた。優れた技量をもっバレエ団ではあっても、中 のディアギレフたらんとして、舞踊家としての道は自 ら閉ざしたのだろう。第一回公演後、西野バレエ団は央から見れば、斬新な意欲に満ちた若い戦後派の二 レエ団でしかない。西野は古典バレエに対する革新的 数々のステージを踏んでいくが、熱望されながらも、 意見を、そのステージで語ってきたが、伝統や権威は 西野が舞台に立っことはなかった。 一九五八年一月、西野皓三は団員六十余名を率いて 上京。日比谷公会堂で初の東京公演 ( 『白鳥の湖』全 幕 ) を行ない、絶賛を浴びる。そのステージを日本テ レビが中継放映していた。 ハレエ団として > に初出演したのは五三年 ( 昭和 二十八年 ) 、実況放送を開始しただった。大光 量の照明ライトの中、まだアシスタント・ディレク ターだった和田勉が、カメラの後ろで声を涸らしてい た。やがてよみうりテレビ ( 大阪 ) が開局すると「バ レエ・オムニバス』 ( のち「エビオス・バレエ劇場』 に改題 ) が始まる。構成・振付、西野皓三。毎回、創 作バレエを流した同番組は、茶の間でバレエ鑑賞がで きると評判を呼び、四年間続いた中で、馬場敦子、荻 野元子に続き、金井克子がスタアとして育っていく。 「この頃からバレエ公演が成功するたびに、私は苛立 ちに似たもどかしさを感じていた。専門家には理解さ れても、バレエはなかなか大衆の中に浸透していかな Y T v 「バレエ劇場」 のスチール