243 中くらいの感想 それで私の方もいつになく、ふざけるのをやめて遠藤さんに調子を合せ、しんみりと愚 ち 痴り愚痴られていると、 「君、今、書斎か ? 」 「いや、べッドの中よ」 「そうか、オレもべッドの中や。するとオレと君とは今、寝物語をやっとるわけやな」 「まあ、そういうことになりますネ」 すると突如、ダミ声が叫ぶ。 「あーあ、佐藤愛子と寝物語をするようになったとは、遠藤周作、もうオワリやな ! 」 陰々滅々は消えて、いつもの、「わるさ」になっている。 私は一句作った。 幼馴染ははや禿げはじめ秋の風
225 中くらいの感想 つつ、梅雨の雨に打たれて無惨に朽ちて行くのをじっと眺め、胸に湧きひろがる悲哀の中 に沈むことを、むしろ快いものに思うかもしれない。
眠れないで悩んだという経験は私にはあまりない。眠る前に本を読もうとして枕許に積 み上げているのだが、三頁読むのがせいぜいで、ああどうしてこんなによく眠れるのか、 眠れなければもっと本を読めるのにと歎きつつ眠ってしまう。 寝室に対しての特別の注文は、光が射し込まないこと、ただそれだけである。もう一つ 欲をいえば寝室は狭いよりも広い方がいい。寝室に限らず私は、鼻先がひろびろと開けて いるのが好きなので、家の中にあまり物を置きたくない。 昔の生活を思うと、あの頃は本当に家の中がひろびろしていたと思う。広い家に住んで 想 たいたというわけではなく、家の中に物がなか 0 たのだ。テレビもステレオもストー。フもク すがすが ーし ーラーもなかった。実にカランとして清清しかった。 と っ よ 今は何だかゴチャゴチャといつばい並んでいて、その中に人間が小さくなって暮してい わだんす ち るようだ。私の寝室は十畳だが、べッドの足もとには和簟笥、洋簟笥が並び、右手はドレ ソサー、左手のテープルと頭の上の棚には本の山、ラジオ、電話、メモ帳、小物入れ、老 鼻の先
「お前が佐藤愛子か」 ームキま、 とマスクにサングラスの男ま、 「佐藤愛子だがそれがどうした ! 」 とわめきつつ、心の中で「しめた ! 書ける ! 」と思っていたことを白状する。 私のような人間は、殺人鬼に出会って殺されつつも、 「しめた ! 」 と思っているのかもしれない 娘の高校入学試験の日は朝から東京には珍しい大雪の日であった。雪のためバスは動か ない。前の夜から大雪警報が出ていたのであるから、心ある親は前日にタクシーなりハイ い。だが私はそんなことは頭に浮かびもしない。バスが動かぬ ャーを用意しておいたらし とあれば歩くほかなし、と娘と二人で雪の中を歩き出した。ただ歩いているだけでは面白 想 くないので、面接試験の練習をしはじめた。 9 「佐藤響子さん、あなたは今日、どんなふうにしてここまで来ましたか ? 」 ら 「えーと、いつもはバスに乗るところを歩いて、それから電車に乗りました」 中 「歩いた道はどれくらいですか」 「えーと、停留所の数で三つです」
「あのとき、食わしてやったやないか ! 」 と何かにつけてうるさい 講演旅行の汽車の中で、私は遠藤さんが眠ってる間に彼が買った貝柱の干したものを食 べてしまったことがある。その貝柱のことを、それから五年経った今でも遠藤さんは憶え ている。 「君はあの汽車の中でも、オレのカイバシラ、食うたやないか ! 」 それも「ご馳走してやった」という数の中に入るのである。 ある時、私と遠藤さんは淡路島にいた。徳島の講演の帰り、飛行機のストのため淡路島 経由のフェリーポートで神戸へ向うことになったのだ。 十二月の夕暮であった。フェリーポートの時間を待っ間、私たちは土産物屋をひやかし ていた。 土産物といっても、冬の淡路島にはとりたてて珍しいものはない。 遠藤さんはタコの姿ばしというのを買った。何やら不気味な形をしたもので、タコを切 らず、そのままペタンコに伸ばしてあるものである。 「こいつはうまいのやで。こういう素朴な形をしたやっこそ、ホンモノの味があるのや」 それで私もその乾しダコを買った。帰宅して土産を待ちかねていた子供に、 「ハイ、お土産」
ましたわ」 高年の離婚が増えている、しかもその殆どが妻の側からの申し出であると聞いたとき、 私はこの話を思い出した。日本の五十代の妻の中には「積年の恨み」を抱えている妻が少 くないのである。 「積年の恨み」の中には、「夫に食べさせてもらうほかに生きる道がなかったので、仕方 なく夫に従い、夫に威張られ、夫の我儘を許さざるを得なかった」恨み、「何の楽しいこ ともなく ( 楽しむのはいつも夫 ) ただ働くばかりであった」恨みなどがある。五十妻たちは、 主体性をもって結婚生活を生きていたわけではなかった。結婚そのものも多くは親の選ん だ相手であった。 その積年の恨みを、諦めと老化の中にまぎれ込ませるには、彼女たちはあまりに多くの 知識、見聞に取り巻かれすぎている。二十代三十代の妻たちの、何と自由に我儘に、した しように家庭造りをしていることか ! 人生のむつかしさを知り尽して来た五十代女性が、女の盛りも過ぎた年になって、新し く人生をやり直そうとしても、結局は後悔をするのではないかという声がある。そうする ことによって彼女は幸福を得られるかどうか、確かにそれはわからない しかしたと , ん・後 ちょうやく 悔することがあろうとも、一生に一度、主体性をもって跳躍しようというその意気を壮
十歳の女の気持もわかるし、「昔の美女」のいうこともわかるという、広い立場で頷いて いるのである。 ローティーンのいう「いい男」は郷ひろみだが、六十女のいう「いい男」はフランケン シュタインである。郷ひろみからフランケンシュタインへの道のりは険しくも長い。その 歳月の中に、女の歴史が詰っている。男への失望や歓喜や怒りや涙、絶望が。その経験が 郷ひろみからフランケンシュタインへ移行させる。 男はカオではない。力である、と。 もしかしたらフランケンシュタインは、フランケンシュタインであったがゆえに、「、 いオトコ」になったのかもしれない、 と私は更に愚考する。少年の頃のフランケンシュタ ぶこっ インは、多分、女の子にモテない無骨、無器用なブ男であったろう。彼の鼻はいかっ過ぎ、 ロは大きすぎ、顎は張りすぎ、眉は険しすぎたであろう。 だが中年になった写真のフランケンシュタインのいかつい顔には、ある種の優しさが漂 想っている。それはいくらかもの悲しげで、冥想的ですらある。彼はハンサムではないが、 の 安心してそばにいられる、という顔である。いろいろなことを考えて来た顔ともいえる。 ら その「いろいろなこと」の中には、「ハンサムでない自分」のこともあったろう。「どんな 中 男になれば女から愛されるか」ということもあっただろう。そしてまた「よろず不如意な 人生」をどう生きるかということもあったにちがいない あご
「金魚エー、金魚」 てんびんばう これだけだった。向う鉢巻をし、金魚桶を通した天秤棒を肩に、イキに調子を取って、 ゅーらりゆらりとやって来る。 「竹やア、竹、さお竹ェ」 こっちもこれだけだった。 「桃はいらんかな、桃」 これでいいのだ。野越え山越えドンプリコなんて、しゃべり過ぎだ。冬にはヤキ芋屋が 来て、これまたしゃべりまくる。どうしてこの頃は、あっちもこっちも、こう一一一一〔葉数を多 く使いたがるのだろう。 家の中で、テレビのコマーシャルが声をはり上げれば、外は外で、チリ紙交換の挨拶か らスー ーの宣伝カーに桃売り。私は言葉の洪水の中に呆然と佇んで、買う気を失うので ある。 たたず
134 七色パンツの男 「男友だちの部屋」の連載をはじめてからもう二年近くになる。はじめの頃は気づかない でいた男友だち連中も、こう長くなってくるとそろそろ気がっきはじめたようである。 この間もウサギちゃんに会ったら、 「ボクのこと書いて原稿料を稼いだのですから、あのおカネ、もういいでしよう ? 」 とい , っ 「あのおカネ」とはいっかウサギちゃんに貸した金の、利息の残りのことである。ウサギ ちゃんは私に払う約束の利息の中から、ビデオカセットを買ったのだ。 なにゆえよりにもよって私に支払うべき金の中からビデオカセットを買わねばならぬの か、とそのとき私は怒ったのだが、 「このご恩は決して忘れません」 と浦島太郎に助けられた亀みたいなことをいわれて、私はごま化されてしまったのだ。 次に電話をかけて来たのがタヌキちゃんである。例によってダミ声で、
ホコリ高きアナグマちゃん アナグマちゃんは数ある私の男友だちの中の、一番最初の男友だちである。 といっても、そんなに若い時代のことではない。私などの十代の頃は、男と女の間に友 情が成り立つなんてことは絶無といってもよかった。何しろ、男女の交際が禁じられてい た時代である。女学生が男の学生と遊んだり、一緒に歩いたりしただけで、学校から注意 人物と見なされたり、甚だしきは退学になる学校もあった。学校だけではない、親たちも また、我が子が異性と交際などしていないかと目を光らせ、疑わしきことがあると叱った り、お説教をしたのである。 屋だから、男も女も「ふン、女みたいなもん ! 」「男みたいなもん ! 」という顔をしてし のやちこばり、その実、胸の中は異性への憧れと関心でバクハッせんばかりという有様だっ たのである。 友 男 兄貴の友だちとか、妹の友だちとかいうのが家に出入りするので、自然、顔見知りにな ったり、