れる男はすべていい男です。彼らはいい男に生れたのではなく、いい男になったのです。 昔、フランスの革命政治家ミラボーは、ひどいアバタ面でした。ある貴婦人がミラボーを しました。『虎をごらん 尊敬するあまり、肖像画を下さいというと、ミラボーは言下にい、 なさい。虎にアバタがあると思えば私の顔になります』と。このミラボーは女に好かれる しい男の 、ます。これぞ、 こと無類で、彼のまわりにはいつも女がっきまとっていたといし 代表というべき人物ではありませんか。男の顔は男の人生を語るものです」 私の一一一一口葉が終ると若い女性はニッコリ笑っていった。 「でもやつばりひろみはステキだわ ! アバタの虎より、ひろみの方がいい男だわ ! 私 はそう思います ! 」 そうして彼女は郷ひろみを愛人にしたい、 抱きたい、食べてしまいたいと悶えたのであ っ ? ) 0 ま、それはどう思おうとご自由ですが、と私はいい、「いい男」について語る資格はも う私にはなくなったと自覚した。 の もはや男に抱かれ守られることは女の夢ではなくなっているのである。彼女は自立し、 ら 生活力を身につけた。男に抱かれて川を渡ることは喜びでも何でもない。男に力がなけれ 中 ば、もしかしたら女が背負って渡るかもしれない かくて男は刻苦して力を蓄える必要がなくなった。顔姿を磨いて「いい男」になろうと
176 と相手を怒らせてしまう。 ハンサムというものには、このような陥穽があるのだが、たいていのハンサムはそのこ とに気づかず、己れのハンサムぶりを過信して花々が風にそよぐ央さばかり味わっている ものだから、 「ハンサムなんだけど、もうひとつ、もの足りないのよ」 「ハンサムだと思ってスカしてる」 「イヤミねえ」 「どうしてあんなにカッコつけるの」 本当はカッコなんかつけてはいないのだが、 そういわれたりするのも、己れの顔に安住 しているためではなかろうか しいい男がいたためしがない」 「自分をいい男だと自負している男こ、 これが私の持論である。 ハンサムは己れの顔を忘れなくてはいけない。忘れたときからまことのいい男になって 行く。プ男もまた、自分の顔を忘れなければならない。忘れたときから彼もまた、いい男 になるのである。 たまたま、「いい男とは何か ? 」と質問するハイミスがいて、私は答えた。 かんせい
ホコリ高きアナグマちゃん アナグマちゃんは数ある私の男友だちの中の、一番最初の男友だちである。 といっても、そんなに若い時代のことではない。私などの十代の頃は、男と女の間に友 情が成り立つなんてことは絶無といってもよかった。何しろ、男女の交際が禁じられてい た時代である。女学生が男の学生と遊んだり、一緒に歩いたりしただけで、学校から注意 人物と見なされたり、甚だしきは退学になる学校もあった。学校だけではない、親たちも また、我が子が異性と交際などしていないかと目を光らせ、疑わしきことがあると叱った り、お説教をしたのである。 屋だから、男も女も「ふン、女みたいなもん ! 」「男みたいなもん ! 」という顔をしてし のやちこばり、その実、胸の中は異性への憧れと関心でバクハッせんばかりという有様だっ たのである。 友 男 兄貴の友だちとか、妹の友だちとかいうのが家に出入りするので、自然、顔見知りにな ったり、
31 男友だちの部屋 カッパちゃんは昂然といった。 ( カッパちゃんが流行作家になった理由はここにある ) それにしても「まことの男とは何か。その定義はかくのごとく難しい。弱虫ながらま ことの男、強けれどまことならざる男、いろいろとややこしいのである。
212 私「あの人たちはどんな話してるのかしら ? 」 「『いやーン、うそオ』とかネ、女の方がですよ。すると男が『だからさア、 オいかア、キミがア』とかね」 「つまりイチャついてるのよ」 「男とイチャつくのが好きな女の子のそばに、むらがるのよ、ヤッらは」 私「あなたたちはイチャつくのが嫌いだから、それで相手にされない れてるわけ ? 」 「いえるわね」 「大学生でね、川端康成を知らないんだから話にならないんです」 私「やつばり男は頼もしい と思ったことはない ? 」 「この間、電車の中でペアルックの男と女が立ってたんですよ、そこへ痴漢が来たの。私 たちは腰かけてたからよく見えたんだけど、女が泣きそうになって、目で合図しながら男 の方へ寄って行くのよ、すると男は助けようとせず、女に押されてドアの方へジリジリ動 いて行く。痴漢は女にびったりでしよ、痴漢と女と男が無言でジリジリ動いて行くじゃな いの、おかしかったわア」 「そしてとうとう女は泣き出したのね」 「そうなの、女の目から涙が溢れて、シクシクやり出したのよ」 いったじゃ いや、敬遠さ
悪くないイ かっては男友だちであったカマスちゃんは、やがて私の夫となり、そうして十年余りの 年月の後でアクシデントがあって、もとの男友だちにもどり、年老いてャギちゃんとなっ ある日のことである。 私が渋谷の横断歩道を、人の群にまじって歩いて行くと、向うから、くろぐろとしたヒ ゲで顔を包んだ男が、ニコニコしながらやって来た。 「やア」 屋とヒゲ男はいった。 部 ち と私はその顔に目を止め、 友 男「なによ、そのヒゲ」
「向うから来る奴ら、強そうだから、目が合わないようにした方がいし」 「へーえ」 と私はつい、向うから来る三人連れをしげしげと見つめたものである。 「何てことないじゃない、普通の男よ」 見るなといったら、見るなよ」 しししゃないの、どうってことないもの」 カッパちゃんは必死になって上を見つめ、 「インネンっけられても知らないぞ、オレは逃げるからな」 「だってさ : : : どこも変ったところないもの : ・・ : 」 そういっているうちに通り過ぎた。 「過ぎたわよ、もう」 カッパちゃんは吐息をつき、 屋「豪胆だなア、アイコさんは : : : オレはどうなるかと思ったよ」 の私が豪胆なのではない、カッパちゃんのキモが小さすぎるのだ。私の観察では向うから 来た三人の男は、どう見てもインネンをつけるような、そんなうるさい男には見えなかっ 友 おび 男た。なぜカッパちゃんがあんなに法えたのか、今も私は不思議である。 この「まことの男」は、時と場所によっては「まことの男」でなくなるところが困るの
私「男はどうした ? 」 「ドアに片頬をくつつけて、そのため、身体がナナメになって、それで目をつむって、眠 ったフリをしてるの。さっきまでイチャついてたのが、急に眠けに襲われるってことあり ます - か ? 」 私「じゃあ、その事件で二人の間はダメになったかもしれないわね、女は男に失望し 「ダメにならないんじゃないですか」 彼女たちはこともなげに答えた。 「そんなものだと思ってるんですよ」 彼女たちと別れた後、私はいったい若い男性の方は若い女性をどう思っているのだろう かと考えた。だが身近に若い男生がいないのでわからない。想像がつくことは、私などの 相 ~ 目には楽しそうに見える自由な男女交際は、我々が思うほど楽しくはないのかもしれない の とい , っことである。 ら かって若い男にとって女は神秘だった。女にとって男は、よくはわからぬままに敬意を 中 払うべき何ものかを持っている存在だった。男と女は互いに別個の存在であるがゆえに憧 れ、埋めがたい隔絶が横たわっているゆえに夢みたのである。
215 中くらいの感想 る。 「娘は男とっき合わさなくちやダメです。男とっきムロうことによって、女はいろんなこと を教えられます」と。 娘たちはポーイフレンドを沢山持って、確かにいろんなことを教えられた。そうして、 「オトコは女とネルことしかアタマにないのよ」 と二十歳の女子学生が平然と口にするようになった。昔なら商売女がいった台詞である。 男性と交際することによって女は男をバカにするようになったのは、これは男の責任で あるか。女の責任であるか。私にはわからない
十歳の女の気持もわかるし、「昔の美女」のいうこともわかるという、広い立場で頷いて いるのである。 ローティーンのいう「いい男」は郷ひろみだが、六十女のいう「いい男」はフランケン シュタインである。郷ひろみからフランケンシュタインへの道のりは険しくも長い。その 歳月の中に、女の歴史が詰っている。男への失望や歓喜や怒りや涙、絶望が。その経験が 郷ひろみからフランケンシュタインへ移行させる。 男はカオではない。力である、と。 もしかしたらフランケンシュタインは、フランケンシュタインであったがゆえに、「、 いオトコ」になったのかもしれない、 と私は更に愚考する。少年の頃のフランケンシュタ ぶこっ インは、多分、女の子にモテない無骨、無器用なブ男であったろう。彼の鼻はいかっ過ぎ、 ロは大きすぎ、顎は張りすぎ、眉は険しすぎたであろう。 だが中年になった写真のフランケンシュタインのいかつい顔には、ある種の優しさが漂 想っている。それはいくらかもの悲しげで、冥想的ですらある。彼はハンサムではないが、 の 安心してそばにいられる、という顔である。いろいろなことを考えて来た顔ともいえる。 ら その「いろいろなこと」の中には、「ハンサムでない自分」のこともあったろう。「どんな 中 男になれば女から愛されるか」ということもあっただろう。そしてまた「よろず不如意な 人生」をどう生きるかということもあったにちがいない あご