ましたわ」 高年の離婚が増えている、しかもその殆どが妻の側からの申し出であると聞いたとき、 私はこの話を思い出した。日本の五十代の妻の中には「積年の恨み」を抱えている妻が少 くないのである。 「積年の恨み」の中には、「夫に食べさせてもらうほかに生きる道がなかったので、仕方 なく夫に従い、夫に威張られ、夫の我儘を許さざるを得なかった」恨み、「何の楽しいこ ともなく ( 楽しむのはいつも夫 ) ただ働くばかりであった」恨みなどがある。五十妻たちは、 主体性をもって結婚生活を生きていたわけではなかった。結婚そのものも多くは親の選ん だ相手であった。 その積年の恨みを、諦めと老化の中にまぎれ込ませるには、彼女たちはあまりに多くの 知識、見聞に取り巻かれすぎている。二十代三十代の妻たちの、何と自由に我儘に、した しように家庭造りをしていることか ! 人生のむつかしさを知り尽して来た五十代女性が、女の盛りも過ぎた年になって、新し く人生をやり直そうとしても、結局は後悔をするのではないかという声がある。そうする ことによって彼女は幸福を得られるかどうか、確かにそれはわからない しかしたと , ん・後 ちょうやく 悔することがあろうとも、一生に一度、主体性をもって跳躍しようというその意気を壮
合理的解決法 ? 人は信じないかもしれないが、その頃 ( 結婚生活を破棄して文学を勉強しはじめた頃 ) の私 は、純真無垢、世事や人間のこと、何も知らない女であった。結婚生活を六年も経ていた が、食うことに追われ、夫婦喧嘩に勝利を占めることばかり考えていて、男の機微も女の 機微もわからなかった。 そんな私をアナグマちゃんは、社会勉強と称して色んなところへ連れ出した。勿論、費 用はこっち持ち。こっち持ちといっても、電車賃とコーヒー代、ラーメン代くらいなもの で、駄べりながら専らテクテクと歩いた 屋赤線華やかなりし頃の吉原も歩いたし、新宿二丁目、洲崎バラダイスなんてところもそ のそろ歩いた。 陽は傾いたが、まだ日暮には間がある頃合の洲崎。ハラダイス。遊客の姿はいまだ現れす、 友 たそがれ 男 黄昏近い閑散と白い道には人の姿はない。ふと、向うをす足に下駄をつつかけた赤いスカ ーマネントのチリチリ髪をうわッとひろげて小走りに横切って姿を消した ートの女が、バ
とにするが、その子さんの夫は停年間近の大学教授で、自宅のほかに二階建木造アバ トを持っている。アパートからの収入と大学教授の月給で、平均以上の生活が出来る筈で ある。 なのに教授はその収入の七割を貯蓄に廻し、生活は相変らず三十年前の貧乏時代と同じ けんやく ように倹約生活である。三十年の倹約生活の中で子さん夫婦は東京郊外に家を建て、ア ートも建て、これでまず老後の心配はなくなった。二人の息子は結婚して家を出、娘も 自立してアメリカへ行っている。 子供たちがみな片付いて夫婦二人きりになってみると、俄かに夫が耐え難くなって来た。 これまで夫がケチなのは子供たちを一人前に育てるための必要だと思っていたのが、そう でなかったことがわかったのである。夫は根っからのケチ野郎だったのだ。今までの五人 家族が夫婦の二人暮しになれば、当然、生活にゆとりが出来る筈である。しかし夫はその いくら収入が増えて ゆとりを貯金に廻す。生活の苦しさはいくら家族の頭数が減っても、 想も同じなのである。 の ある日、彼女の夫はいった。 「昨夜のコロッケはどうした」 中 そういわれて彼女は思い出した。昨夜、夫がコロッケを一個半食べて、あとの半分が皿 に残っていたので、犬に与えたことを。
252 私は忘れていたが、私の結婚生活の破綻はすでにもうこの頃に芽生えていたのだ。 せん おそらく私は、、 しっても詮のない愚痴を父母への手紙に托していたのであろう。 それに対して父が、どんな手紙をくれたのか、慰めであったか叱責であったか私の記憶 しあわ 結婚して母となり、子をはぐくみ育てること以外に、女が倖せに生きる途はないと考え ていた明治の男である父は、家庭の不幸を訴える娘に対して、ただなだめすかして我慢さ せるほかにどんな方策も考え得なかったにちがいない。結婚を解消した後の私は、親戚の 厄介者として肩身狭く一生を過すだろう。 ( 女が独り立ちするためのどんな教育も私は受けてい なかったから ) 父はそう思ってただ、白楽天と共に詠歎するしかなかった。 それから三十四年経った。三十四年の歳月は私をして「人生れて男子の身となるなかれ、 百年の苦楽女に倚る」と男にポャかせる女にした。 泉下の父は安心しているカョ . ゝ、よしんでいるか。時々私はそれを知りたいと思う。 オモチャとクロサワ はたん
「あんたの男友だちはなんであんな汚い人ばっかりなんや」 といったので。 カマスちゃんに出会ってから五年後に、私はカマスちゃんと結婚した。結婚生活は頗る 快適だった : スポンにアイロンをかけてやる必要もなし、ワイシャツなど、色の濃いのを 買っておけば、十日ぐらい、洗濯しなくても黙って着ている亭主である。 私は家事はしないで、来る日も来る日も売れない小説を書いていた。カマスちゃんはあ あだな る女性からシームレスと渾名をつけられた。。 スポンに筋がついていないからなのである。 カマスちゃんは私にそれを報告し、 「アッ、ツ、ツハア と笑っていた。それで私も、 「ワハハ . と一緒に笑った。 そんな風に気が合っていたのだが、 十年余り夫婦でいた後、私たちは離婚し、カマスち ゃんはもとの「男友だち」に戻った。そしてカマスちゃんは年をとってャギちゃんになっ 私の「男友だち」の中には、こんな形の男友だちもいるのである。 すこぶ
160 男はたいへん 私は二度結婚し、二度結婚生活を破壊した女である。一回目は二十六歳の時、二回目の 時は四十四歳だった。 そのため、ひと頃は離婚のオーソリティといったような存在となり、離婚談義というと テレビや雑誌から引っぱり出しに来たものである。 それはおよそ一九六〇年代から七〇年代にかけてのことで、その頃は「離婚」は女にと って人生の失敗を意味する大事件であったのだ。こんな風にいうと、今だって離婚は大事 件ですと憤られるムキもあるだろう。 しかしあの頃は、離婚は少くとも「不幸」を意味していた。、 たが今はそれは一つの蹉跌 かもしれないが、「不幸」ではない。不幸とか蹉跌という一一一一口葉で考えるのではなく、人生 の再出発と考えられるようになっているのではないだろうか。 私の知人が五十三歳で離婚に踏み切ったという。なぜ離婚したのかと訊ねると、「もう、 ほとほとあのケチんばうがいやになった」という答である。仮に彼女を子さんと呼ぶこ さてつ
「 x x ノん、いる ? ・」 くらいの会話を交すことはあったが、それもお互いに出来るだけ仏頂面を心がけた。へ たにニコニコ、愛想よくしたりすると、 「ニャニヤして、いやらしいやつや」 などと、愛想よくしただけで不良とかスケベイ呼ばわりをされたりした。 従って、私の十代の男友だちは一人もいないのである。 だから私の男友だちとのつき合いは、二十歳で結婚した私が、六年後に結婚生活を破壊 してひとり立ちしようと決心し、さる文学グループに加入した時にはじまる。アナグマち ゃんはその文学グループで、私に親しい言葉をかけてくれた最初の人だ。即ち、私の人生 での最初の男友だちということになる。 アナグマちゃんは私より三歳年下だった。しかし、外見のジジむささといい、落ちつき 払ったもの腰と いい、私より十歳も年上の人のように思えたものである。 アナグマちゃんは軍隊から帰った後、ずーっと失業者で、従って貧乏であった。必然的 にアナグマちゃんとっき合う時は、電車賃、コーヒー代、すべて私の負担となる。
「どうしたの、風邪でもひいたの ? 」 「チクショウ ! ああいうのとやりてえ ! 」 私は驚き、ただただ、 「へーえ」 と感心するばかりである。末熟なる私は、我々若き女が美男に関心を動かすように、男 は美女に対して欲望を抱くものだと思っていたのだが、そうではなかったことをはじめて 知った。 テ。フさんを見ると、ムラムラ、ゾクゾ アナグマちゃんはデブさんが好きなのであった。。 クするという。 ・ヘップバーン ? 何だネ、ありや。女じゃねえよ、あんなの、トリのガラ という具合であった。 屋 のそんなある日、私はおふくろと喧嘩をして家出をした。 ( 結婚生活を破壊した後、私は母の 家に身を寄せていたのだ ) 行く先がないので女学校時代の友だちの家に居候をしたり、着の 友 男 み着のままで長野県の山奥の一泊四百円の安宿に泊ったり、二か月余り転々として、仕方 なく東京に舞い戻って来た。アナグマちゃんは東京駅に出迎えてくれて、私の家出中に私
女先生と劣等生 ウサギちゃんと友だちになったのは、私が二十六歳の時、結婚生活をやめたが、 何も出来ることがないから小説でも書こうかという気になって、文学志望者のグループに 加入した時である。 ウサギちゃんは美青年であった。白くやわらかそうで、身についた丁寧語を使い、一見 して良家の子弟という風貌で、そうして着ているものは実にオンポロであった。もしかし たら、ウサギちゃんの美青年ぶりは、そのオンポロ風態によって、実際以上に引き立って いたのかもしれない。 ズボンはすりきれた風呂場の足拭きのようで、開襟シャツの背中にはべッタリと雑巾大 のツギが当って、おそらくはお手伝いさんの手によるものであろう、グシャグシャと乱暴 に縫ってあって雑巾ふうである。学生服はカビの生えたヨーカン色で、なればこそウサギ ちゃんの色白も映えるというわけであった。 よじん 当時ーーー昭和二十五、六年頃は日本は敗戦の余燼の中にあって、皆貧しく、食べること
崩すまいとした。それがその時、私が娘にしてやれるただひとつのことだった。 娘も私もそのうちに父親は家へ戻って来ると思っていた。しかし彼は間もなく再婚した。 だま 私たちは彼に欺されていたのか、欺すつもりはなかったが、そういうなりゆきになってし まったのか、そのへんのことは私にはわからないし、知りたいとも思わない しかし、娘 にはそれを認識させなければならなかったので、私はいった。 「バ。ハはほかの女の人と結婚したから、もうこの家には帰って来ないのよ」 その時、娘は暫く黙っていてから一一一一一口、語気鋭くいった。 「子供がいるのに、よく、そんなことができたわね ! 」 仕方なく私はいった。 「だって ノとママは離婚したんだから、離婚した以上 利はあるわけよ、そ , つでしよう ? 」 「 , っ , ん」 としぶしぶ娘はいった。娘が父親のことについて、非難がましい声を出したのはその時 だけである。 しかし彼はそうして私たちと別れた後も、平気で私たちの家へやって来た。何ごともな かったようにニコニコして、そうして私に借金を申し込むのだった。彼が現れるのは頼み 、バ。ハは他のひとと結婚する権