「すみません、大庭さん。昨夜はアパートへ帰らずに、父の家に泊ったんです。スタジオから近 かったものですから」 「どこへ泊ろうと君の自由だ」 演技課長は、怒ったところで無駄だということに気がついたらしい。もう万事が終っていた。 「黒板を見てから帰りなさい」 進行課の出口に、黒板が下っていて、大部屋俳優の明日の日程が書き出されていた。午後四時 になると、この告知があるのだ。門万里子の名前は、水谷組はもちろん、どの監督の仕事にも出 なていなかった。 れ仕出しもチョイ役も明日はない。 忘 これまで一日おきぐらいには、何かと使われてきていたから、まだ私は忘れられていない、忘 れられていない、とそれが励みになって通っていたのだ。 ートに帰らなかっただけで、演技課長を怒らせ、水谷監督に見出されるチャンス 昨日一日ア。ハ を失い、明日の仕事もなくなっては、万里子にとって耐えられる不幸ではなかった。 「大庭さん」 万里子は青い顔をして、進行課の部屋にもう一度入って行った。 「私が悪うございました。水谷先生に、とりなして下さい。お願いします」 「もう遅いよ。小森君を抜擢したんだ」 ・フ = イスだった。いわは万里子の後輩である。 小森というのは、今年入ったはかりのニュ
「その格好で取り澄しちゃいけない。お茶目さんの顔をしてごらん。そでをひろげて、そうそ う。足首を楽にして、力を抜いて、そうたそうだ。首をかしげてごらん。ちょっと笑って。い や、歯を出しちゃいけない」 彼が狙っているのは笑くぼだった。そう気がつくと、万里子は急に自信が出た。 「三番のライト、上げて。そちらも全部スイッチ人れてくれ。よし」 ライトの熱気で冷房装置がなんにもならなくなった。万里子は、振袖と帯に包まれた上から灼 きつけられて、胸から腹部、それに股から足まで、汗でぐっしよりぬれてくるのが分った。耳の 後にも、汗がったい落ちる。 うまくない れ「万里ちゃん、こっちを向いて。いや躰だけだ。顔の位置は前通りにして、チョ 忘な」 先生が傍に来て、乱暴に両肩を撼んでポーズをつけた。彼の額が、また汗ばんでいる。幾度も 私 レンズ越しに万里子を見ては舌打ちをして、 「気を楽にしてごらん。ああ、さっきの顔だよ。忘れちゃ困るなあ」 すきばら 先生も空っ腹で、気が立ってきたようだった。 万里子は真剣に、気を楽にする努力をしていた。先刻見た黒島の写真のことなど、すっかり忘 れていた。こんな空気の中で、思い出せる筋合いのものではなかった。 仕事が早いので有名な、職人気質のカメラマンだったのに、門万里子一人を十二通りに撮影す わら かたぎ からた
たた いですな。昔の軍隊に叩きこんでやりたかった」 「酒匂先生」 校長が、急に顔をひきしめた。 教頭が、急に生徒のような返事をした。 「私も兵隊に行った経験がありますが、そして軍隊での体験を貴重なものだったと思っています が、しかし今の若い人たちに、あんなまねは決してさせてはならないと思っていますよ」 冫レ、小生もファッショはいかんと思います」 れ大きな体から、蚊のなくような小さな声であった。 忘「勤評反対にも、道徳教育についても、時代の流れが背後にはあるのです。辺地にいても、それ を見落してはいけないと思いますよ」 私 「はい」 「酒匂先生」 「はい ? 」 校長は、いたずらっぽい眼を光らせて、もうにやにや笑っていた。 「やもめ暮しが続いてますね、お互いに」 「いや、これは」 「実は鎮静剤を見つけました」 227
「どうでした ? 」 「レンズが割れてます。つるも片方が折れました」 小さな声に、絶望的な響きがあった。 「ご免なさい。悪かったわ。でも、まっ暗だものだから」 「はあ、仕方がないです。呼ばれたのは、なんの用ですか」 「ハンカチ持ってらっしやる ? 」 「ハンカチですか」 「手拭でもいいのよ」 れ「ああ、それなら」 忘腰に下けた手拭を渡してくれたが、受取った掌に、べっとりとそれは汐風を含んでいた。 過失とはいえ、眼鏡を割ったのを詫びたい気持があったので、万里子は話しかけた。 私 「おなか空いたでしよ、赤間さん」 「はあ、奮戦しましたから。しかし、僕だけではなかとでしよう」 「すぐおむすびを持ってくるわ。暗がりで食べるのは、これが二度目ね」 「はあ、そうです」 「風は止むかしら」 「止むでしようが、家は殆んど倒れてしまったから、復旧するまで大変ですよ」
「おーい」 返事があった。校舎の便所の方らしい。人をかきわけて、そちらの方に行き、もう一度、 「赤間さあん」 「はいイ」 どうも外の方らしい 「外ですか」 「はあ、あまり暑いもんで」 暗がりを手さぐりで、万里子が戸を開けて外に出ようとしたとき、敷居に爪先をひっかけて、 な れ「あっ」 忘飛上ったのと、君雄が近づいたのと同時で、カ里子の頭と君雄の顔が衝突し、悲鳴が両方のロ から出た。 私 「ご免なさい、痛かった ? 」 「いや、眼鏡を落したです」 「まあ、眼鏡を ? 」 探すつもりで、万里子が一一、三歩横に歩いた足の下で、 「あらッ ? 」 君雄が手早くかがんで手探りで拾いあげたが、 「ああ」 147 ハリバリと日がした。
「そうですか。僕も黒島です」 「あら」 「大里の中学校に赴任するところなんです。急に欠員ができたもので一 「まあ、そうですか ? 」 東京では滅多に見られないタイ。フだ、と万里子は思った。素朴で、善良な青年に違いない。赤 間君雄の心中の悲哀など、万里子に察することのできる問題ではなかった。 「どちらからです」 「東京よ」 れ「そうですか、ほう、東京から ? 」 なか 忘君雄は唸るように感心した。鹿児島は田舎なのたな、と万里子は可笑しくなった。 「黒島は、どちらへ行かれますか ? 」 「片泊ですか、大里ですか」 「あ、あれは何かしら」 万里子が急に叫んで、海を指さした。 「トピウオかな」 「まあ、トビウオがいるの ? 」 為目をこらして、また魚が飛はぬかと海面を見ている万里子の横顔と、いかにも都会的な姿態に
6 ) 0 「もう一仕事してらしたの ? 」 「はあ。病人はどうですか」 「いま気がついて、お手洗いから戻ったところ。でも、すごく痛がってらっしやる」 「困ったことにならねはいいが : : : 今日にも船が来てくれるといいが : : : 」 教頭は首を横に振りながら、校舎の裏にシャベルをしまいに行った。 「赤間さん」 「はあ」 れ「私も見えないの」 忘「はあ、人が立っているのと、赤い上着だけは、分りますが」 「字は読めるかしら」 「読む気になれば、読めます」 「いま、何時ですの」 「時間ですか」 君雄は左手首に巻いた腕時計に、眼をすり寄せた。文字盤と眼球がすれ合うほど近づけてか ら、大分たって、彼は絶望的に腕を下した。 「四時ぐらいでしよう」 「まあ、そんなにしても読めないんですか。悪いことをしてしまったわ。ご免なさい。私どうし
ている。 「お腹が空いたでしよう。船は揺れませんでしたか」 「さんざんでした。実は : : : 」 しぐさ 君雄は、右手で握りしめていた帽子を顔の前へ振り上けて、科をして見せた。 「やりましたか ? 」 校長先生が、すかさず云った。 「はあ、やりました」 「では、もう船に乗るのは御免ですね」 れ「考えただけでもぞっとします」 忘「それはよかった」 君雄が ( ? ) という表情で顔を上げたが、校長先生は子供たちを呼び集めていた。片泊の子供 たちはカ仕事になれているらしい。君雄の荷物を軽々と担ぎ上げた。 「大里まで歩いて大分かかりますが、片泊校で一休みしましようか」 「歩きます」 船酔いを白状した上に、休憩したいと云ってはだらしがなさすぎる。君雄としては大ふんばり の元気な返事をしたものだった。 だが、歩き出して岩から土の上に出ると、ふと君雄は立止った。 「どうしました ? 」 かっ
「どうしたのです」 「テレビが来たア」 「え ? 何が ? 誰が来たのですか」 校長には、子供たちが、何を云っているのかさつばり分らなかった。 まるで神輿を担ぐようにして、大きな薦包みが数人の手で校舎に運び込まれたのは、間もなく にうゼん であった。校長も教頭も君雄も茫然としている中で、鹿児島市の電気会社からやってきた二人の 技師は、ごく事務的な表情で、 れ「どの部屋に据えつけますか」 忘「コンセントはどこですか」 と、すぐに質問した。 私 星島校長は進み出て、 「私が大里校の校長でございます。これはテレビだということですが」 「そうです」 「どこからの寄贈品でしよう」 「さあ」 一一人の技師は顔を見合わせ、それから知らないと答えた。ただ会社から命令されて、大里校に とりつけるようにと云われて来たのだというだけだった。 みこしかっ こもづっ
ら、それはその人が馬鹿者だというだけです」 万里子は安心して、社長の横顔を頼もしく見上げた。 ト住いをしているのであ しかし考えてみれば、万里子は継母と折合が悪ぐて家を飛出てアパ 時々こちらの勝手で家に帰っても、さて親が老いたときのことを毛頭考えたことがなかっ た。黒島で、あの騒ぎを見たのでなかったら、自分もうかうかと雑誌の見出しや広告で、そうい う時代が来ているのだと誤解してしまったかもしれないのだ。 「島か : : : 長いこと忘れていたな、私も」 れしばらく黙っていた社長が、こう呟いた。盃の酒を飲んで、自分の言葉の余韻と共に舌の上で 忘味わっていたようだが、 「白木君」 専務の名を呼んだ。 「はあ」 「黒島の話で思い出さなかったか」 「社長も、やつばり」 「君はポルネオだったかな」 「いや、。ハラオです」 「そうか、僕はメナドの傍の島だ。しかも、原住民の中に終戦から一一カ月はもぐりこんで暮して 265