船 - みる会図書館


検索対象: 私は忘れない
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1. 私は忘れない

圏それなのに、その船の中でこんな美しい女性と乗合わそうとは : : これから八時間、この美し い人と一緒に船の旅が続けられるとは、これまでの絶望的な気持がどのくらい慰められるか分ら ない ぶオオオオ・ : また汽笛が鳴った。船は鹿児島港を離れ、薩摩灘目指して進み始めた。 日本は小さな国だといわれ、事実東京から鹿児島までは全日本空輸の飛行機でなら一つ飛びだ ったが、見上げる空の青さは、東京と薩摩灘とでは大違いである。青さが、濃いのだ。 れ白雲が浮んで、走っていた。風があるらしい。 忘甲板の下に二等船室があって、万里子は畳敷のその部屋に荷物を置くと、すぐまた甲板に上っ へさき てきた。船が走る。群青色の海に、舳に白い飛沫をあげ、艫に青い水尾を曳いて、第二みゆき丸 あさもや は風を切って進んでいた。鹿児島港はどんどん遠くなり、朝靄に包まれた桜島が、まるで絵のよ うに小さくなった。 「どちらへ行かれますか」 かぶ 声をかけられて振向くと、眼鏡をかけた青年が、もっそりと帽子を冠って立っている船の揺 れるのに負けまいとして、両脚を開いて踏んばった形だから、どう見たって格好はよくない。 だが万里子は、気持よく返事をしていた。 「黒島 - さつまなだ ひまっ みお

2. 私は忘れない

はっとして顔をあげ、耳をそばだたせた人々も、最初はそれを信じなかった。まだ雨は降り続 いているというのに、船が来るという筈がない。 しかし ぶオオオオオ : ぶオオオオオ : ・ 二度、三度と、汽笛が大里の人々の疑いをかき消し、浜辺の出迎えを催促するように鳴り響く と、校舎の中の人々は、 よ「船だ」 れ「船だア」 忘「船が来よったどオ」 危篤の病人を忘れたように騒ぎたてた。 戸外へ躍り出てみると、雨には初の勢がすっかりなくなっていた。雨量は相変らず多いが、昨 夜来のように荒くなかった。 それまで瞑目して、行方不明になった五人の男女と、妻の死を考えつめていた校長も、 「おオ」 眼を開けて、立上っていた。 すべ 二百人の内、老人と幼児を残して、殆んど総ての人々が飛出して行ったあと、区長と教育長が 残って、教頭の指図通り戸板の上に病人を寝かし、雨よけのビニール布をかぶせ、

3. 私は忘れない

ている。 「お腹が空いたでしよう。船は揺れませんでしたか」 「さんざんでした。実は : : : 」 しぐさ 君雄は、右手で握りしめていた帽子を顔の前へ振り上けて、科をして見せた。 「やりましたか ? 」 校長先生が、すかさず云った。 「はあ、やりました」 「では、もう船に乗るのは御免ですね」 れ「考えただけでもぞっとします」 忘「それはよかった」 君雄が ( ? ) という表情で顔を上げたが、校長先生は子供たちを呼び集めていた。片泊の子供 たちはカ仕事になれているらしい。君雄の荷物を軽々と担ぎ上げた。 「大里まで歩いて大分かかりますが、片泊校で一休みしましようか」 「歩きます」 船酔いを白状した上に、休憩したいと云ってはだらしがなさすぎる。君雄としては大ふんばり の元気な返事をしたものだった。 だが、歩き出して岩から土の上に出ると、ふと君雄は立止った。 「どうしました ? 」 かっ

4. 私は忘れない

教頭が叫んだ。 「船だ」 つま 校長はもう土間に立って草履を爪がけていた。 万里子も反射的に二つの。 ( ッグをんでいた。あの荒れた海で、とても船は来ないと思ってい たのに、この雨、この風をついて第二みゆき丸はやって来たのた。 大里の部落中が、また浜をめがけて駈け降りて行く。教頭も、校長も、万里子も、その中にま じっていたが、暮れて間もない海は、つい数時間前に万里子が見たときより一層うねりうねっ て、波柱が砕けて磯を打ち、あがるしぶきは桟橋の遙か上にある坂道にまでしぶいてきた。 てんません れこれでは、伝馬船を引出して漕ぎ出すこともできない。船は波に突き上げられて、すぐひっく 忘り返ってしまうだろう。 第二みゆき丸は、沖合はるかに浮んで、これも波のまにまに浮いたり沈んだり揺れかたがひど 私 「大里の皆さん、大里の皆さん」 第二みゆき丸から、スピーカーでこう呼びかけてくるのが聞こえた。 「大里の皆さん、聞こえますか」 磯や桟橋の近くに出ていた人々は、一斉に両手をあげて振った。 「波が高くて、船はこれより、近づけません。片泊から回航しましたが、あちらも、海が荒れて いて、近寄れませんでした。残念ですが、今回は、黒島には寄らすに、帰ります。皆さん、もう そうり

5. 私は忘れない

凵りが残っている。 大喰いの君雄も、箸を置いてうなだれていた。万里子はといえば、彼女はただ落着かなか ? た。 ようやく船で送り出した重態の病人のその後の安否を知ることもできないとは、なんという苦一 しさだろう。これをも辺地教育者は耐え抜かねばならないのか。 松代先生を乗せた船が本土に帰ってから四日目の朝が来たが、また雨が降り始めた。これは前 のような豪雨ではなく、また豪雨になる危険性も考えられないような、カない陰気な雨であっ 忘「船は来るでしようか」 「さあ : : : 」 誰もはかばかしい返事をしなかった。 午後になって、万里子は一人で磯へ出てみた。 「ああ」 ためいき 思わす溜息が出た。 あの清澄で、底まで見透せた海の水が、まるで嘘だったように濁って、豪雨のときに流れこん だ島の土がまだ残っているのかと思えるように、海は一面に泥色をしていた。土用波に似た大き なうねりが近寄ると、みるみるうちに高さ四、五メ 1 トルもある波柱になって、襲いかかるよう おおぐ うそ

6. 私は忘れない

「胸が : : : まだムカムカするんです」 校長先生は君雄の気分の静まるのを待ちながら、こんなことを云った。 「その船酔いの苦しさを忘れないでいて下さいよ。内地へ帰るためには、も一度船に乗らなけれ ばならないのですからね。辺地教育者に禁物なのはホームシックです。二度と船に乗りたくない と思えたら、まず滑り出しは上々です」 しみじみとした口調だった。凄んで云われたなら、君雄にはやりきれない言葉だったが、校長 先生の声にはどこかュ 1 モラスな響きがあって、君雄は素直に聞いてしまっていた。 「ぼつぼつ行きましようか。陸地はもう揺れませんよ」 れ「はあ」 忘 親と子のように並んで歩き出した背に、 「あのオ、ちょっとうかがいますけど」 振向くと赤いプラウスに七分のスラックスが、君雄と星島校長の両方に救いを求めた。 「この島の旅館は、 ' とこにあるんでしようか」 「旅館 ? 」 かんだか 校長先生は心の底から驚いたらしく、彼に似合わしくない甲高い声で訊き返した。 「ええ、旅館を探してるんですけど。私、東京から来たんですー 「ほほう、東京から」 校長先生は赤間君雄のようには感激しなかった。不審の方が先立ったのである。

7. 私は忘れない

た。 「船が来なくなると、いもだけになってしまうこともよくあります。万里子さんは、おつらいで しよう。今度の船には、どっさり食糧を頼んでおきましたから、もうしはらくの辛抱です」 「いや、酒匂先生、今度船が来たら、万里子さんはお帰りになるのです」 「ああそうでした。いやこれは」 天災の後片附けがすむまでは、校長も教頭も、どちらも酒を飲むのは控えているのらしい。 「私、明日は釣に行って来ようかしら」 しよくぜん 万里子が云いだしたのは、食膳の貧しさに耐えかねてのことである。ェビもタコもタイも、鮮 れ魚に不自由のない黒島で、いもがゆばかり食べている法はない。 忘だが、校長が云った。 「シケです。島が荒れるときには、海も荒れるのです。磯を網ですくっても、魚一匹とれないの 私 ですよ」 「悪いときには悪いことが重なるのですな」 のろり 教頭が気軽く解説したが、その瞬間、膳をかこんでいた四人の脳裡に一時にある不吉な想いが よぎった。松代先生は、手おくれだったのではないか ちやわん 校長は青ざめて、色の薄い茶を茶碗に注いで飲んでいた。酒匂教頭は今更フタをしても間に合 わない口をどうしようもなく、下唇を噛みしめて、卓の中央に置いた鉢の中を見詰めていた。鉢 さけ くす の中には鮭のカン詰が、そっくりそのまま入れてあったのだが、四人の箸で突き崩され、汁ばか 213

8. 私は忘れない

に磯を打つ。その波しぶきは、万里子の全身に降りかかって、降っている雨よりもすっと強いカ を感じさせた。 これでは全く魚などとるどころではない。人間も海にもぐれないし、魚だっておちおち泳いで はいられないだろう。 悪いときには悪いことが重なる : : : 山の畠が荒れたときは海の獲物もとれないのだ。 船は来ない。万里子はそう確信した。風が出て来ていた。海は今より一層荒れるだろう。いも を埋めたばかりの黒島は、またもや暴風雨の中で苦しめられるのだ。黒島は、苦労島の謂ではな と万里子は考えた。船が来ないと分っても、絶望したのではなかった。またまた島 よかったか れには彼女の仕事が残っている。 いしよう 忘東京で、今日は役がつくか、明日はスタアになれるかと、美しい衣裳と名声にあこがれて過し ていた頃と比較にならないほど、ここには直接的な生き甲斐がある。 船は来ない。 万里子が未練げに海の向うを見ている理由は、もはや彼女自身の問題ではなかった。松代先生 はどうなっただろう。生死さえも定かでないのが、万里子にはやはり我慢がならなかった。 豪雨で、あっという間に押し流され、失われた二つの生命を、万里子が忘れていたわけではな しかし島に生れて島で育ち、天災を半ば運命と諦めて、原始的な生活のまま、うごめいてい る人たちの中に入って、彼らと共に自然の暴威と戦い、彼らをカづけ、少しでも本土の人々の生 活水準へと彼らを引き上げるために尽してきた辺地教育者がーー辺地にいたために、助かるべき 215

9. 私は忘れない

249 「いや、これは」 「校長先生、松代先生をお見舞してから帰りますよ」 「すみません。元気でいると伝えて下さい」 ゆらりと揺れて 、ハシケは島を離れた。子供たちが一斉に叫んだ。 「万里子あんねえ、あしたよオ」 大人たちも声を揃えた。 「あしたよなア、万里子さん」 さよならという別れの言葉を、黒島では明日よなア、というのであった。 れ船に着いて甲板にかけ上ると、万里子は腕が付け根からちぎれるかと思うほど、カ一杯で手を 忘振り続けた。そして叫び続けた 「あしたよオ。あしたよなア」 まだ島が遠くならぬうちに、万里子の視界はぼやけてきた。眼から涙が噴きこぼれているのだ った。 青い空と青い海の間に、小さな船がどんどん小さくなっている。万里子の着ている真紅のプラ ウスが、一つの点になって燃え続けていた。 「不思議なお嬢さんでしたな」 酒匂教頭が云った。いろいろ考えた末に、それ以外の言葉が見つからなかったのらしい。

10. 私は忘れない

親切に教えてくれる人があった。 島を見て、それが分った。四日に一度の便船が着いたというのに、磯辺に人影がないのであ めんく 「急に黒島へ先に着いたので、島の人たちは面喰らっているのかしら」 船長は首を振って、 「黒島には電信の設備がないので、船が着いたというのは汽笛で知るだけなのです。見ていてご らんなさい、もうじきそこらは人で一杯になりますよ」 わ「人が : : : でも家が見えませんね」 忘「ここからは見えませんがね」 また汽笛が、島の人たちに催促するように鳴り響いた。 ぶオオオオ・ : 「ほらほら、出てきた、出てきた」 まっ先に子供たちが駈け下りてきた。同じ道を、やがて男たちが下りてきて、磯の岩かげに数 まきかか しげ 人が消えた。あちこちの草の繁みに、道があるらしく、女たちが細竹の束や薪を抱えて現れ、船 に向って手を振っている。彼女たちの身なりは、貧しく、アッパッパと着物とがないまざったよ うな格好だった。子供たちもはだしが多い。 岩かげから、 る。