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検索対象: 私は忘れない
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1. 私は忘れない

191 着もぬいで、ハットバッグの中のものと着更えた。手早く、そして誰にも見られる心配はないと 思って着更えたのだが、つい傍に坐っていたのが君雄だとは気がっかなかった。 闇でなくても眼が見えなくなっている君雄を、かまう必要はないようなものだが、君雄自身は 気配から、万里子が一度全裸になって着更えたことを充分察していた。だが彼の心には一分でも かげ かれん 淫らな翳りはなかった。君雄はただただ、あの美しく、えくぼの可憐な若い女性が、いっからこ んなに活動的になったかと、驚嘆しているのだった。 「う、う、う : : : ん」 松代先生は低い声でうなり続けていたが、一声高くうめくと、また声がとぎれた。万里子は分 れらぬながら病人の手首をとって脈を探った。自分の脈搏と較べてみた。松代先生のそれと、屋根 忘から降りてきた万里子とでは較べものにならなかった。 「赤間さん 私 「はあ」 おどろ すぐ傍に返事があったのには、万里子も愕いたらしかった。しかし、すぐ小声になって、囁く ように云った。 「松代先生の脈を見て頂だい。あなたのと較べてみて、どう ? 」 「 : : : 力のない脈です。かすかで、しかしまだ動いとりますが、どうなるんだろう : : : 」 べッドのあちら側から、校長先生が二人に云った。 「静かに。眠れたら眠って下さい。この調子で明日も雨が降ると、体力だけが頼みの綱になりま ささや

2. 私は忘れない

いものではないのですよ」 星島校長と酒匂教頭が、かわるがわる説いてきかせたが徒労だった。万里子が大里の浜辺で泳 いでいるのを、人々が磯に集って眺めたのは、突飛な見せ物を見る眼で見たのであって、自分た ちと繋げて考えることはできるものではないのだ。 女生徒が活渡に動き出すのは、放課後の運動会準備であった。竹を細く裂いて、まるい籠を一一 っ編み、それぞれに色紙を貼って鈴割りの鈴を作る。 「中に鳩でも入れるといいですね」 君雄が思いついて云うと、酒匂教頭がほほうと感心して、 れ「それはいい。鳩はおらんがひょ鳥か百舌なら獲れますからな , 忘秋の渡り鳥が、そろそろ姿を見せ始めたが、どうも鈴の中から現れるにはイキがよすぎる。 すずめ 「そのくらいなら雀の方が : : : 」 云いかけて、君雄は首をかしげた。考えてみると、彼はこの島に来てから、一羽の雀も見かけ たことがなかった。 当日。校庭の入口に、青々とした校門が築かれていた。潮風に荒らされなかった山間の杉の枝 をとってきて、大里のが総がかりでつくりあげたアーチであった。 はんとうほう 校庭のトラックには短かい杭が打ち込まれ、青い蔦かずらがはりめぐらされている。攀登棒の

3. 私は忘れない

トの上に落ち、すごい勢ではねまわった。万里子は中腰になって、きやアきやアと陽気に騒ぎな がら、光枝がにんまりと笑ったのを見て、ようやく気が静まった。 五郎が黒鯛を王撼みにしたという情報が、日暮れまでに大里の部落中に伝わると、男たちは手 もり に手に、一本銛や、ヒッカケという漁具をたすさえて、海辺に集ってきた、まっ直ぐな棒の先に 爪のある鉄製のモリと、先が曲ってやはり爪のあるヒッカケは、どちらも柄に長い竹がついてい る。 つりざお 星島校長もヒッカケを二本と、釣竿などを持って、出かけてきた。 れ「家内からタ食のお数をとってこいと厳命されましたので 5 万里子に釣竿を、君雄にはヒッカケを手渡しながら、彼はそう云って笑った。しかし万里子は いつまで水着のままでもいられないと思ったので、急いでワンピースに着かえたが、それがドレ ッシイすぎるのに気がついた。 「着更えてきます」 釣竿を酒匂教頭に渡して、急な傾斜の坂道をかけ上った。 昼食の前に洗濯したスラックスもプラウスも、カラリと乾いていた。ニ = ーロンは水の切れが いいし、アイロンの必要がないのがこんな場合には本当に有がたい。 「まあまあ、便利なものができたんですねえ。色もきれいで、仕立てもハイカラですねえ。まあ 島に十年もいると、やつばり文明に遅れます」 かず

4. 私は忘れない

246 いよいよ帰る日が来たのだと思うと、万里子の心には万感迫るものがあった。大風の片泊。豪 雨の大里。その中で何の役に立ったとも思わないけれども、精一杯生きたという記憶が強かった。 いや、自分自身の記憶よりも、風の日に竹垣に刺されて血まみれになっていた片泊の女たち、雨 の日に人いきれでむれる校舎の中で、死んだように横たわっていた松代先生と、それを看とって いた校長先生・ーー万里子が自分の眼で見た惨事が、断片的に思い出され、その記憶はなまなまし かった。 ふと思い立って訪れた黒島を、離れようとしている今では、万里子は全く他人の住む孤島とは 思えなくなっていた。 れだが、とにかく万里子は島の人間ではない。彼女は都会に帰らなければならなかった。四日の 忘予定でいた滞在が、のびにのびて二十日近くなってしまっていた。万里子は帰り支度をしなけれ ばならなかった。 区長さんが持って帰ったカクテル・ドレスを受取るために、挨拶をかねて出むくと、庭先に土 ・ヘつついを新しく築いて大釜をかけ、区長さんは火をくべながら万里子を迎えた。 「よか天気ねえ。船はじっき来るどう」 「ええ、長々お世話になりました」 「なんのい。そがんこっ、こっちが云うこっちゃ」 「ところで私のドレスですけど、虫はとれましたかしら」 「いまとっちよるばってえ、いっとき待っちょって下さい。虫はじっきぼったえるでエ」

5. 私は忘れない

語尾を長くひつばれば、黒島では敬語になるのだが、万里子はそんな知識がないから、あまり いい気持がしなかった。片泊における区長の権勢は大したものらしいが、牛を見つけて乗れと云 われて、はいそうですかと乗れるものではなかった。 「私は、 いいです。松代先生と、それに赤間さんがお乗りにならなきや」 「いいえ、私は歩けますわ。さっき一時的にさしこんだだけです。もうなんともありません。赤 間さんこそ、お困りでしよう」 「とんでもないです。ぼ、僕は歩けます。足は大丈夫ですから」 押し問答の末に、やっと松代先生は牛の上に乗ったが、万里子のようにまたがらず、牛の脇愎 れに両足を垂らして牛の背に腰をおろした。 はず 忘部落の外れまで、区長が送って来た。細かく片泊部落内の被害の状況について、校長たちと話 している。ヒロシがひいている牛の後に万里子が竹で君雄をひつばって歩いていた。そのまた後 に、ツヨシが黙ってついて来る。 「ああ、やられましたな」 「ここらは早植えにしなかったのですか」 校長と教頭が立止って、道の右手に高く傾斜しているいも畑を見た。 来る道では緑こく一面に繁りひろがっていたいもの葉もいもづるも、潮風にただれて赤く枯れ うね てしまっていた。畝の上でヘたはっているのではなく、旋風でつるが根から断ちきられてしまっ 剏たのだということが分った。なんという怖ろしい風たったのたろう。

6. 私は忘れない

198 赤間君雄を見た。彼も、声を殺して泣いていた。細い目から、筋をひいて涙が流れている。万 そば 里子は、同志を見つけた思いで、彼の傍ににじり寄った。 「心臓が、動いていますって」 何か云いたか「た。口から出た言葉は、これだけだった。一筋でも光明は見ていたいという、 はんすう 祈りの声に違いなかった。君雄もこの言葉を反芻した。 「そう、心臓が : : : 」 このとき、はっと君雄は顔をあげた。なんという迂闊だったろう。彼は自分の行李の中にいく よばくかの薬品を持ち、その中に漢方の強心剤を持っていたことを、今、思い出したのだ。 れ「万里子さん、ぼ、ぼ、僕の行李の中に : 忘せきこんで鹿児島弁まる出したったが、分らぬままに万里子は彼の指図通りに動いて、その楽 を取出していた。 「酒匂先生、これが : : : 」 校長は目して三人の騒ぎと没交渉でいた。万里子が黒い丸薬を噛んで、教頭の渡す水を含 み、松代先生の唇に唇を押しつけて、無理やり強心剤を飲みこませた。柔道の心得のある教頭 えんか は、たくみに病人の胸と喉をさすって、飲んだものを嚥下させた。 続いて、奇蹟が起った。 ぶオオオオオオ : 雨の中に、汽笛が鳴り響いたのだ。

7. 私は忘れない

「チ、チ、チ、チ」 ふと耳許で小鳥の声がする。 とりカ - 」 つりさが べッドの上に鳥籠が吊下って、二羽のカナリヤが揺れ動くの中で、とり木のあちこちへ飛び 移っていた。 トの上に飛乗った。し、はらく籠の鳥を指先でかまったりしていた 万里子は靴を脱いで、べッ からだ が、それにもあきると、船長さんの好意に甘える気になった。べッドに躰を長くのばして、二度 三度寝返りをうっと、すうっと睡魔がよりそってきた。 こんなに揺れているときに、船室では苦しみ悶えている人々がいるというのに、のうのうと眠 れっていいものだろうかと考えながら、万里子はいつのまにか、ぐっすり眠りこんでいた。 忘眼がさめたのは、例の汽笛が鳴り響いたときである。腕時計を見ると午後五時を少し過ぎてい た。 私 ぷオオオオオ : また一声。 ぶオオオオ : ・ 海は凪いだらしく、風はまだ少し残っていたが、波は静かだった。 デッキに出て見ると、 「よく眠れましたかね」 船長さんがニコニコして聞いた。 な

8. 私は忘れない

101 て、生れ落ちた、悲運の子たちなのであった。 片泊から大里までの暗い道すがら、 「名簿にのってない子供がいます」 と、校長の云ったのは、この子たちのことであった。 うわめ この部屋に入ったとき、赤間君雄がただ一つだけ救われたのは、彼らが決して上眼づかいに彼 を見なかったことである。この養護学級の子供たちは、かなり明るい顔をしていた。白痴という 運命の下にあって、ひょっとすると彼らは黒島の苦しい生活の外にいるのかもしれなかった。 万里子はといえば、これは深くものを考えることのない娘だから、この子たちがひどく知能指 な れ数の低い子だと気がつくと、彼女なりにいたわりを示したくなり、 じよ 5 ・ず 忘「まあ上手ね工。これ、あなたが作ったの」 クーリー・ ハットに似た帽子を、ひょいと自分で冠ってみた。 私 「似合いますよ」 「そうオ ? 」 万里子は気取って先生たちの前でポーズをとって見せた。酒匂教頭も君雄も感心して見ていた が、万里子は次の瞬間、自分が大そう哀れな姿をしているのではないかと反省した。ファッショ ン・モデルの真似と、無心に指を動かしている白痴の子供たちとの対照は、この場合、万里子に しゅうちしん 羞恥心を起させていた。 「この帽子、誰が冠るんですの」 まね

9. 私は忘れない

松代先生の担任していた小学校一、二年生と、君雄の受持っている三、四年生を、一つの教室 に集めて、ともかく授業は開始されたが、今度は大変に人気があった。それは教壇に君雄と万里 子が並んで立ったからだ。 あの豪雨と、その後始末の間に、子供たちはすっかり万里子を観察し尽していた。子供という のは、こちらから機嫌をとろうとすると、うとましがって逃げるものである。だが子供たちは好 奇心が強い。彼らに存分こちらを観察させてから声をかければ、安心して近寄ってくる。万里子 あいぎよう は特別の子供好きではなかったので、彼女から愛嬌を振りまいてないのが、却ってよかった。子 よ供たちは東京から来たよかおごじよが、大里の女たちも顔負けするほどよく働いたのをつぶさに どうけい れ見て、万里子を敬愛し憧憬していたのだ。 忘君雄は、殆んど眼を瞑ったままで、昨夜暗記した教科内容について、できるだけ平明に物語っ た。万里子がその都度、子供たちの机の間を歩いて、 私 ? これが、、ハスなの。大勢が乗れるのよ。車が四つあるでしよう。動くの 「ほら、これよ。いい よ」 説明したが、予期した通り子供たちの間には反応が現れなかった。彼らは好奇心すら起さない のだ。。ハスも、自動車も、トラックも、汽車も。乗物の中では、ただ飛行機だけを知っていた。 時折、黒島の上空を飛ぶ姿を見かけるからだ。 店や金銭についても、彼らは殆んど興味を示さなかった。ただ一つ、文房具屋だけ分った。職 そろ 員室の一隅に、学用品を揃えた戸棚があって、それだけが、子供たちが金を持って買うことので 23 ]

10. 私は忘れない

先にとりもちをつけてハネを狙ってとる方法だの、網を使ってとる方法たの、身ぶりをまぜて熱 演したが、教壇の下からは一向に反応がない。 「皆さんは嬋をとりますか。とりますね」 訊いても自分で答えなくてはならないのである。 隣の部屋でオルガンが鳴り出して、松代先生が唄っている。 「わたしのおうちは うみのそば わたしははまべが れすきですよ」 忘子供たちが、一唱節ごとについて唄っていたが、あまり音感が発達していないことがよく分っ た。 私 だがそれにしても、君雄は松代先生が羨ましかった。のんびりオルガンをひいて、唄っていら れる余裕のあり方には、校長と共に十年、この貧しい島で暮してきたという貫禄がある。昨日着 うんでい いて、今日この教壇に立った君雄とは雲泥の相違なのだった。この無ロで、うさん臭い眼でしか 教師を見ない子供たちを相手に、これから何年も暮さねばならないのかと思うと、君雄は顔を掩 って泣き出したかった。 本土ならば、どこの学校のどの学級にも、新任教師にすぐ迎合するオッチョコチョイな生徒が つなが 必らず一人か一一人はいて、それが最初の繋りでやがていつの間にか全体との交流が生れるものな ねら うらや