三浦生き方のひとつの方法ですね。 五木かって、五〇年代から六〇年代にかけては、、 る説雑誌には三種類あったんです よ。ひとつは『新潮』『群像』『文學界』です。それから『講談倶楽部』をはじめとす るクラブ雑誌と呼ばれるジャンルがいろいろあった。そしてその中間に、『オール讀 物』『小説新潮』『小説現代』があって、これが純文学と大衆的娯楽読み物の中間のマ ージナルなところに位置していて、中間小説誌と呼ばれていた。古くは『小説公園』 などというのもありましたね。そういった中間小説雑誌は、文字通りマージナル・マ ガジンということで存在していたのです。当時・ほくは、六〇年代の日本では小説はま だ力を持っている、評論やルポルタージュよりも小説を書くほうがよりアクチュアル な読者と向かいあうことができると感じた。だから自分のメッセージを小説というか たちで伝えるほうがよさそうだと思ったのです。そこで、どの雑誌を書く場にするか を考えた時に、『文學界』をも選択できたし、クラブ雑誌を選ぶ道もあったんだけれ ど、やはりマージナル・マガジンとして活気があった中間小説雑誌を自分の活動の場 にしようと考えたんですね。そこで六〇年代に、〈エンタティンメント〉という言葉 を使って仕事を始めたわけです。
っていて、純文学雑誌か小説雑誌かという米ソの二極対決構造みたいな ( 笑 ) 状況に なってくる。こういう 状況になって、本来の日本人の中間層を代表するマージナル・ マガジンがなくなってきた。仕方がないからぼくはしばらく『別冊文藝春秋』とかに 書いた時期があったんです。 三浦マージナル貫徹ですね。 ( 笑 ) 五木中間雑誌がいかに自由な雑誌だったかというと、たとえば川端康成の『雪国』 はいろんな雑誌に分載されていたけど、最後の炎上する章は『小説新潮』に連載され たんですね。『雪国』というノーベル文学賞作品は『小説新潮』というマージナル・ マガジンに載った作品のひとつです。それくらい、マージナル・マガジンである中間 雑誌がいきいきしていたし、純文学とエンタティンメントの両方の連中が越境し合い ながらそこで仕事をした。だから、佐多稲子や三浦哲郎も書くし、梶山季之も書くし、 吉行淳之介も対談や連載を持っし、そういう時代がずっと続いたから、これは面白か っこよ 0 そういう時代から二項対立の時代へと移っていくにしたがって、・ほくはヴィヴィッ ドな読者の声が聞こえなくなったと思う。はね返ってくるものがない。「お前はこれ
その時代、中間小説雑誌には三誌で百二十万人くらいの読者がいるといわれていま した。それも四十万人ずつじゃなくて、ダブってますから、少なくとも五十万人程度 ハリケードに『小説現代』と の読者が中間小説雑誌を読んでいたわけです。大学の。 『平凡パンチ』と吉本隆明と高橋和巳の本が同居しているような状況があって、毎月 毎月井上ひさしや野坂昭如や立原正秋が書く小説に関して、直接的な反響がビンビン 伝わってきた。それが、酒場であったり、旅先であったり、またジャーナリストから であったり、学生からであったり、タクシーの運転手であったりしたわけです。みん なが、小説についての感想なり批評なりを、ヴィヴィッドに書き手に伝えてくる時代 いわゆる文芸批評で一行も扱われないということが、逆に中間小説で仕事を している人間の光栄だったような気もします。その分だけ、自分たちはマージナルな 読者とともに、マージナルな時代とともに疾走しているという実感がありましたね。 それが、六〇年代から七〇年代の半ばくらいまででしようか。 そのあとぼくが「休筆」と称して仕事を休んでいた時期に、中間雑誌の部数が、ゆ るやかに落ちてきたんですね。エンタティンメントを真面目に論ずる批評さえあちこ ちに登場してきた。かっての『講談倶楽部』などのクラブ雑誌はとっくに消えてしま
取り残された酔っ払い 五木・ほくはいまにして思えば十三歳の時、マージナルマンとして生きていこうと決 意したんだよね。マージナルマンという言葉はもちろん知らなかったけど。・ほくは生 後三カ月から、植民地になった韓国で育ったでしよう。ですから、感覚としての故郷、 マイ・ブル ー・ヘブンは、韓国であり北朝鮮の空であり大陸にあるわけ。しかし、・ほ くの出自は九州の福岡県だ。そこへ帰ってきても、居心地は決して良くはない。力、、 、の『異邦人』というタイトルを、ぼくは引き揚げ者と受け取った。同時に、意識の なかにデラシネという一言葉が浮かび上がってくる。といって、在日韓国人ではない。 だから、引き揚げてからまもなく、ぼくはこれから在日日本人として生きていこうと 決めたわけ。在日日本人とは何か。それは朝鮮半島、大陸、植民地と日本、その両者 がクロスするかしないかの辺縁のなかに、自分の居所を見つけて、その狭間に錐をも み込むように自分の領域を広げていこうとする人間である。そう考えたわけですね。 だから創作の仕事をはじめたときも、まず大衆と知識人の中間、そのマージナル層の ところに入っていくことにならざるをえない。