あごひも 歩いていると、交番のところにも巡査が二三人立っていて、驚いたことには顎紐をか よど ちょっと けている。途中から引ッ返えすことはまずかったが、仕方なかった。私は一寸歩き澱 んだ。すると、交番の一人がこっちを見たらしい、そして私の方へ歩いて来るような 気配を見せた。 私は突嗟に、少しウロ / ( 、した様子をし、それから帽子に手をや って、「町にはこっちでしよ、つかーーーそれとも : ・・ : 」 A 」、一訊いに。 者巡査は私の様子をイヤな眼で一わたり見た。 生「 co 町はこっちだ。」 「ハ、どうも有難う御座います。」 私はその方へ歩き出した。少し行ってから何気なく振りかえってみると、私を注意 した巡査は後向きになり、二人と何か話していた。畜生め ! と思った。そして私は 懐の上から「ハタ」や「パンフレット」をた、いた。「口惜しいだろう、五十円貰い 損いしてー 私は万一のことを思い、とう / ( 、家へ帰ってきた。次の朝新聞を見ると、人殺しが そばづえ あったのだった。私たちはよく別な事件のために側杖を食った。が、彼奴等はえてそ んな事件を口実にして、「赤狩りをやったのだ。現に彼奴等はその度毎に「思わぬ 210 ふところ とっさ ひと
くしようという目的からだった。「ま君愛国」であろうが、何んであろうが、彼等は 自分の利益にならないものなら、見向きもしない。会社にこのことを献策したのは、 ハラシュート工場で、「マスク」を持っていた女工を殴ぐりつけた「職工の服を着た」 在郷軍人の青年団たちらしい。 須山はこの問題をつかんで、「僚友会」の清川や熱田を大衆から切り離すことをし ようと考えた。伊藤もそれに賛成した。労農大衆党という兎にも角にも労働者のため 者の党であり、兎にも角にも帝国主義戦争には反対している、だが本当は少しも「労働 うわ 活者のための党」でもなく、帝国主義戦争にも上べだけでしか反対していないのだとい 生うことを、皆の前で知らせる必要があった。須山と伊藤は「僚友会」の平メンバーに 党入っていた。プロレタリアートがプルジョワジーのあらゆる偽マン的政策の本質をえ ぐり出して、戦争に反対するという困難な仕事をしてゆくためには、何より「僚友 ひょりみ 会」のような見せかけの味方ーー右翼日和見主義者と闘って行かなければならぬ。須 山は慰問金のことで、「僚友会」の定期総会を開いたらどうか、と清川のところへ持 って行った。それと同時に伊藤の仲間や自分の仲間を通して、「慰問金ー募集の問題 ひろ を一般に押し拡めることにした。 237 総会に出てみると、驚いたことには青年団の職工も来ている。私たちが「僚友会」
身体つき ( こんなものは大にでも喰われろ ! ) がそのま、分るからである。早く冬が くれば、私は「さ、もう一年寿命が延びて、活動が出来るぞ ! 」と考えた。たゞ東京 然しこういう生活に入ってから、私 の冬は、明る過ぎるので都合が悪かったが。 は季節に対して無関心になったのではなくて、むしろ今迄少しも思いがけなかったよ うな仕方で非常に鋭敏になっていた。それは一昨年刑務所にいたとき季節々々の移り ことほか かわりに殊の外鋭敏に感じたその仕方とハッキリちがっている。 者 これらは意識しないで、そうなっていた。置かれている生活が知らずにそうさせた 活のである。もと、警察に追及されない前は、プロレタリアートの解放のために全身を 生捧げていたとしても、矢張り私はまだ沢山の「自分の」生活を持っていた。時にはエ 党場の同じ組合の連中 ( この組合は社民党系の反動組合だった。私はそこでの反対派と して仕事をしていた ) と無駄話をしながら、新宿とか浅草などを歩き廻わることもし たし、工場細胞としての厳重な政治生活が規制されていたが、合法生活が当然伴う 「交際」だとか、活動写真を見るとか、 ( そう云えば私は最近この活動写真の存在とい すく うことをすツかり忘れてしまっている ! ) 飲み食いが私の生活の尠なからざる部分を 占めていた。時にはこういう生活から、エ細としての仕事を一二日延ばしたりしたこ とがあった。又自分だけの名誉心が知らずに働いていて、自分の名誉を高めるような 251 ささ
かにこうせん 蟹工船はどれもボロ船だった。労働者が北オホッツクの海で死ぬことなどは、 丸ビルにいる重役には、どうでもい、事だった。資本主義がきまりきった所だけの利 潤では行き詰り、金利が下がって、金がダブついてくると、「文字通り」どんな事で もするし、どんな所へでも、死物狂いで血路を求め出してくる。そこへもってきて、 船一艘でマンマと何拾万円が手に入る蟹工船、ーー、彼等の夢中になるのは無理がない。 蟹工船は「エ船」 ( 工場船 ) であって、「航船」ではない。だから航海法は適用され つな 者なかった。二十年の間も繋ぎッ放しになって、沈没させることしかど、つにもならない こいしょ - っ 生 ョロ , ( 、な「梅毒患者。のような船が、恥かしげもなく、上べだけの濃化粧をほどこ ←されて、函館へ廻ってきた。日露戦争で、「名誉にもビッコにされ、魚のハラワタ 蟹のように放って置かれた病院船や運送船が、幽霊よりも影のうすい姿を現わした。 少し蒸気を強くすると、パイプが破れて、吹いた。露国の監視船に追われて、ス ピードをかけると、 ( そんな時は何度もあった。 ) 船のどの部分もメリノ ( 、鳴って、今 にもその一つ、一つがバラ′ ( 、に解ぐれそうだった。中風患者のように身体をふるわ した。 然し、それでも全くかまわない。何故なら、日本帝国のためどんなものでも立ち上 るべき「秋ーだったから。 それに、蟹工船は純然たる「工場」だった。然し工場 とき なぜ
矢理に卵とバナ、を彼の手に握らしてやった。 少し時間が経っと、母も少しずっしゃべり出した。「家にいたときよりも、顔が少 おとろ し肥えたようで安心だ」と云った。母はこの頃では殖んど毎日のように、私が痩せ衰 ご - つもん えた姿の夢や、警察につかまって、そこで「せつかん」 ( 母は拷問のことをそう云っ ていた ) されている夢ばかり見て、眼を覚ますと云った。 母は又茨城にいる娘の夫が、これから何んとか面倒を見てくれるそうだから安心し 者てやったらいいと云った。話がそんなことになったので、私は今迄須山を通して伝え 生 てもらっていた事を、私の口から改めて話した。「分ってる」と、母は少し笑って云 党 工 蟹 私はそれを中途で気付いたのだが、 母親は何んだか落着かなかった。何処か浮腰で 話も終いまで、しんみり出来なかった。 母はとうイ、、云った、お前に会う迄は居 ても立ってもいられなかったが、こうして会ってみると、こんなことをしている時に お前が捕かまるんじゃないかと思って、気が気でない、それでモウそろ , ( 、帰ろうと 云うのだった。道理で母は時々別なテープルにお客さんが入ってくると、その方を見 て、「あのお客さんは大丈夫らしい。とか、又別な人が入ってくると、「あの人は人相 が悪い , とか云っていた。私がかえって知らずに家にいた時のような声でものをしゃ 196
の信用が急に高くなった。職工たちはそういうことだと、直ぐ感激した。その代り須 山はおやじににらまれ出したので、ひょっとすると危いと、伊藤は云った。 「今度の慰問金の募集は、どうも会社が職工のなかの赤に見当をつけるために、ワザ とやったよ、つなところがある : ・・ : ? 私は確かにそうだ、と云った。 すると、彼女は、 者「少し乗せられたーーー」 生 と云った。 私は、何時もの伊藤らしくないと思って、 蟹「それは違う ! 」と云ったーーー「俺だちはその代り、何十人という職工の前に、誰が 正しいかということを示すことが出来たんだ。それと同時に、僚友会のなかに我々の 影響下を作れるし、それを放って置くのではなしに、組織的に確保したら素晴しい成 果を挙げ得たことになる。少しの犠牲もなしに仕事は出来ない。これらは最後の決定 的瞬間にキット役に立つ。」 伊藤は、急に顔を赤くして、 「分ったわ ! そうねえ。 242 分ったわ ! 」
その後「地方のオか、 ( 党地方委員会の組織部会 ) に出ると、官営の z 軍器工 場ではピストルと剣を擬した憲兵の見張りだけでは足りなく、職場々々の大切な部門 には憲兵に職工服を着せて入り混らせていたという報告がされた。そこの細胞が最近 検挙されたが、それは知らずに「職工の服を着た憲兵」に働きかけた、めだった。そ ういう「職工」はワザと表面は意識ある様子を見せるので、危険この上もなかった。 倉田工業は本来の軍器工場ではないので、まだ憲兵までにはきていないが、事態がも 者う少し進むと、そこまで行き兼ねないことが考えられる。 活 生 221 時計を見ると未だ九時だった。それで少し雑談をすることにし、私たちは身体を横 にして長くなった。私は伊藤の鏡台を見て、それが笠原の鏡台よりもなかイ、立派で、 そろ 黄色や赤や緑色のお白粉まで揃っているので、 と云った。 伊藤はそれと気付いて、 からだ
蟹工船・党生活者 114 本船は移動することにした。監督は絶えず無線電信を盗みきかせ、他の船の網でも かまわずドン / ( 、上げさせた。二十浬ほど南下して、最初に上げた渋網には、蟹がモ リ / ( 、と網の目に足をひっかけてかゝっていた。たしかに xx 丸のものだった。 「君のお蔭だ。」と、彼は監督らしくなく、局長の肩をた、いた。 網を上げている所を見付けられて、発動機が放々の態で逃げてくることもあった。 しりあ一が 他船の網を手当り次第に上げるようになって、仕事が尻上りににがしくなった。 仕事を少しでも怠けたと見るときには大焼きを入れる。 組をなして怠けたものにはカムサッカ体操をさせる。 罰として賃銀棒引き、 函館へ帰ったら、警察に引き渡す。 いやしくも監督に対し、少しの反抗を示すときは銃殺されるも のと思、つべし。 浅川監督 雑夫長
と、私に云った。 須山は外へ出ながら、モウこれからは機会もないだろうと思って、私の家に寄って きたと云った。「君のおふくろは、会う度に何んだか段々こう小さくなって行くよう だ。」と云った。 者私は何を云、つんだろ、つと田 5 った。が、 フィにその「段々小さくなってゆく」という 活須山の一一 = ロ葉は、私の心臓を打った。私はその言葉のうちに、心配事にやつれてゆく母 か、こういう時にそんな事を云う奴も 生の小さい姿がアリ / ( 、と見える気がした。 党ないものだ、と思った。私はさりげなく、たゞ「そうだろうな : : : 」と云って、その 話の尻を切ってしまった。 須山と別れてから、伊藤が次の連絡まで三十分程間があるというので、私と少しプ ラ′ ( 、、することになった。私たちは、二十六日には須山のために小さい会をしてやろ うということを話した。そのために伊藤が菓子とか果物を買ってくることにした。 おおまた 伊藤は何時もは男のように大股に、少し肩を振って歩くのが特徴だった、それが私 の側を何んだか女ッほく、ちょこ / ( 、と歩いているように見えた。別れるとき彼女は 263 しり
と威張ってやるけれど、隣近所の人に女ェッて云うのは矢張り恥かしいわ ! 」 みんなに、何時かも、つ一度行こうか、ときくと、行こうというのが多いそうだ。そ れはあの芝居を見ると、うちの ( うちのというのは、自分の工場のことである ! ) お やじとよく似た奴がウンといじめられるところがあるからだという理由だった。 伊藤が、何気ないように、どうせ俺ら首になるんだ、おとなしくしていれば手当も 当らないから、あの芝居みたいに皆で一緒になって、ストライキでもやって、おやじ 者をトッちめてやろうかと云うと、みんなはニヤ / \ して、 生「ウン : ・ : 」と云う。そしてお互いを見廻しながら、「やったら、面白いわねえ ! 船 と、おやじのとッちめ方をキャッ / ( 、と話し合う。それを聞いていると、築地の芝居 蟹と同じような遣り方を知らず識らずに云っていた。 伊藤の影響力で、今迄のこの仲間に三人ほど僚友会の女工が入ってきた。それらは 大ッびらな労働組合の空気を少しでも吸っているので、伊藤たちが普段からあまりし ゃべらない事にしてある言葉を、平気でドシ / ( 、使った。それが仲間との間に少しの かんげき 間隙を作った。それと共に、それらの女工はどこか「すれ」ていた。「運動、のこと が分っているという態度が出ていた。 伊藤はその間のそりを合わせるために、今 色々な機会を作っていた。「小説のようにはうまく行かない」と笑った。 244