矢理に卵とバナ、を彼の手に握らしてやった。 少し時間が経っと、母も少しずっしゃべり出した。「家にいたときよりも、顔が少 おとろ し肥えたようで安心だ」と云った。母はこの頃では殖んど毎日のように、私が痩せ衰 ご - つもん えた姿の夢や、警察につかまって、そこで「せつかん」 ( 母は拷問のことをそう云っ ていた ) されている夢ばかり見て、眼を覚ますと云った。 母は又茨城にいる娘の夫が、これから何んとか面倒を見てくれるそうだから安心し 者てやったらいいと云った。話がそんなことになったので、私は今迄須山を通して伝え 生 てもらっていた事を、私の口から改めて話した。「分ってる」と、母は少し笑って云 党 工 蟹 私はそれを中途で気付いたのだが、 母親は何んだか落着かなかった。何処か浮腰で 話も終いまで、しんみり出来なかった。 母はとうイ、、云った、お前に会う迄は居 ても立ってもいられなかったが、こうして会ってみると、こんなことをしている時に お前が捕かまるんじゃないかと思って、気が気でない、それでモウそろ , ( 、帰ろうと 云うのだった。道理で母は時々別なテープルにお客さんが入ってくると、その方を見 て、「あのお客さんは大丈夫らしい。とか、又別な人が入ってくると、「あの人は人相 が悪い , とか云っていた。私がかえって知らずに家にいた時のような声でものをしゃ 196
候を調べたりするのが、かえって大目的で、万一のアレに手ぬかりなくする訳だな。 これア秘密だろうと思うんだが、 千島の一番端の島に、コッソリ大砲を運んだり、重 油を運んだりしているそうだ。 「俺初めて聞いて吃驚したんだけれどもな、今迄の日本のどの戦争でも、本当は 底の底を割ってみれば、みんな二人か三人の金持の ( そのかわり大金持の ) 指図で、 動機だけは色々にこじつけて起したもんだとよ。何んしろ見込のある場所を手に入れ 者たくて、手に入れたくてパタ / ( 、してるんだそうだからな、そいっ等は。ーーー危いそ 生 、つだ。」 船 工 蟹 きっかけ エウ海居 合ィまてウ でンで、イ 、チそウン グはれイチ イ がンが と脚下チガ 片気りのラ 方のれ腕 の膝るが ワのよ短と イよういな ヤうにのっ にしでて だギて けクや下川 がシつり崎 跛ヤてて船 にクいくが のとたる下 るて崎っ 川たよをき 崎 くデた 船ワ危ッ がイいキ丁 燻えヤこの度 製と外そ 鰊をが側の のん巻あに下 よいっ押に うてたし漁 にい。て夫 、るボやが す歯ロっ四 っ車船て人 かのの、程
蟹工船・党生活者 な運接 め歪暴か の林 み虐 の俗 作化 ロロ 疋観批た はおカ写 にす し判 そ てす 反活 の と映者お 生 でむ 目リ に の小 はな 、け焦も れな つ ロロが い はや に い人 こ大 発功 し時か間 れき 表 さ 。を たか し代 がる いあ ず の展 しす の最 、と 点を 県で 九 いそ かか 見オ 年 若な ばそ に小 る干 月 の自 比林 十 イ乍、 み犠 日 ん何 の時を牲 彼 が た時 兄 ず明 る実ま面 の 街 頭 た ち い る と し に 成 し て る っ っ と に努描 し た 作 家 で あ カゞ いそ進 以 月リ の 作 ロロ 較 し 巧 に 章 にや私 の 面 も る作林 、はあ はな代 小 し て い る ロロ の ま平あ さ て い る と し て は し ろ の 時 に よ く れ ま で 書 。け た と っ で し い る と い っ は ム 日 カゝ ら 見 ば た し か に の 欠 占 で あ カゞ 当 現 。を っ て干小 歪 み と が さ れ て い る れ作こ 家 と て の そ小動 林 カゞ の 、歪 のそ的 の ま 知反そ 映 の : 生 . の っ ち に 。は の 日寺 の 運 の 英 雄 的 な と の い っ と は っ て か な け ば な な し、 た に は は の よ っ よ り ら少ん い 亜・ し ば け れ な ら と も あ り っ る と ら 肯傍けれ展 る と は あ の 下 に 何 も し の を る も の で は も ち ろ な い も る を い オこ も の だ け カゞ な っ と で も だ生進 と は わ に な い か ど動触 を さ せ よ っ 不と則 むす的 る は ひ じ よ つ に 変 な 280 な甚あ はる と い っ い的私れか は そ の の だ し い な間て な 暴 虐 と た か っ し を かたれ だ く あ 当間べんか の 動す観方も な 。でれ は り 知 な い 人 に た い り に る ら く ぶ の と し て し り な - つ か ら る歪票と きだ少 扱し いで
けを作らせた。それは始めのうちはお互いの調子がうまくとれないで、どまっき、同 じところをグル′イ \ 、めぐりをしたりした。或るときなどはグルになっている化けの皮 が剥げそうになって、ヒャ , ・ ( 、した。そんな時は、終ってしるこ屋の外に出ると、三 一回、二回、と眼に見え 人とも自分がぐッしより汗をかいているのに気付いた。が、 て巧妙になって行った。サクラになるものが上手だと少しの考えもなく、たゞ友達位 のつもりでついて来た女工をもうま / ( 、と引きつけることが出来た。だからサクラに 者なるものは、意識の低い、普通の女工が知らずに抱いているような考えや偏見などを 活 ハッキリ知っていなければならなかった。 生女工たちは集まると、話すことは誰と誰が変だとか、誰と誰がくッついたとか、く ッつかぬとか、そんなことばかりだった。伊藤が連絡のとき、こんなことを私に話し 党 マスクにいる吉村という本エからキヌちゃんというパラシュート たことがある。 の女工に、「何処か静かなところで、ゆっくりお話しましよう」というラブ・レター が来たというので、皆が工場を出るなり、キャッ / ( 、と話している。そばやに行って もら からも、そればかりが話題になった。キヌちゃんはその手紙を貰ってから、急にお のぞ まるかがみひも しろ 白粉が濃くなったとか、円鏡に紐をつけて帯の前に吊し、仕事をしながら始終覗きこ んでいるとか、際限がない。ところが、仲間でも少し利ロなシゲという女が、こんな 203
「歯がゆくて仕方がない。と云った。私は伊藤のこのことは本当だと思った。私たち - っぬば は今度の戦争の本質が何処にあるかということは、ハッキリ知っている。然し自惚れ なく、私たちはそのことをみんなに納得させること、つまりみんなの毎日の日常の生 まず 活に即して説明してやることでは、まだ / ( 、拙いのだ。レーニンは、戦争の問題では 往々にして革命的労働組合でさえ誤まることがあると云っている。そこへもってきて ますます 清川とか熱田とかはモットそれを分らなくするために努力しているのだから、益ゝゝむ 者ず・かしい 生 会社では、此頃五時のところを六時まで仕事をしてくれとか、七時までにしてくれ 船とか云って、その分に対しては別に賃銀を支払うわけでもなかった、そんなことは此 蟹頃では毎日のようになっていた。臨時工などはブッ / ( 、云いながらも、それをしなか もら ったりすると、後で本エに直して貰えないかも知れないと云うので、居残った。が、 六時迄やるとどうしても弁当を食わなければ出来ない。弁当代は出ない。すると六時 迄仕事をやるために、かえって一日の貰い分が減るという状態なのである。それは賃 銀を下げるぞと云わずに、実際では賃銀を下げているやり方なので、みんなは「人を 馬鹿にしてる」と云って、憤慨し出した。伊藤のいるパラシュートでは、六時まで居 残りのときは「弁当代を出して貰わなければ、どうもならん」と、云っている。 218 このごろ
かっこう 若い同じような恰好の男が二、三人トランクを重そうに持って、船へやってきた。 「臭い、臭い ! 」 そう云いながら、上着を脱いで、ロ笛を吹きながら、幕をはったり、距離をはかっ て台を据えたりし始めた。漁夫達はそれ等の男から、何か「海で」ないものーーー自分 達のようなものでないもの、を感じ、それにひどく引きつけられた。船員や漁夫は何 処か浮かれ気味で、彼等の仕度に手伝った。 者一番年かさらしい下品に見える、太い金縁の眼鏡をかけた男が、少し離れた処に立 生って、首の汗を拭いていた。 「弁士さん、そったら処さ立ってれば、足から蚤がハネ上って行きますよ ! 」 工 蟹 と、「ひやアーーーツ ! 」焼けた鉄板でも踏んづけたようにハネ上った。 見ていた漁夫達がドッと笑った。 「然しひどい所にいるんだな ! 」しやがれた、・ シャラ , ( 、声だった。それは矢張り弁 士だった。「知らないだろうけれども、この会社が此処へこうやって、やって来るた し′、、らも・つ めに、幾何儲けていると思う ? 大したもんだ。六カ月に五百万円だよ。一年千万円 ロで千万円って云えば、それっ切りだけれども、大したもんだ。それに株主 へ二割二分五厘なんて滅法界もない配当をする会社なんて、日本にだってそうないん のみ ところ
皆は、太いコンクリートの煙突から就業のボーが鳴り出すと、腕を組んでその狭い入 ロめがけて「ワッショ、ワッショ ! 」と押しかけてしまった。そうなれば、守衛には 最早どうにも手がっかなかった。ーーー伊藤が見ていると、須山はその人ごみの中を糞 落付きに落付いて、「悠然と」降りて行ったそうである。 あとでおやじが「誰が撒いたか知らないか ? 」と一人々々訊きまわったが、確かに かかわ 須山か撤いたことを知っているものが居るにも拘らず、誰も云うものがいなかった。 豬青年団の馬鹿どもが、口惜しがって、プン / ( 、した。その日、須山のいる第二工場と、 生 伊藤たちのパラシュートでは気勢が挙がって、代表を選んで他の工場とも交渉し、会 船社に抗議しようというところまで来た。 帰りに須山と伊藤が一緒になると、彼は「こういう時は、俺だちだって泣いても 蟹 むやみ 、んだろうな ! 」と云って、無暗に帽子をかぶり直したり、顔をせわしくこすった りした。 途中、彼は何べんも何べんも、「こうまでとは思わなかった ! 」「こうまでとは思わ なかった ! 大衆の支持って、恐ろしいもんだ ! 」と、繰りかえしていた。 私はビラを撒いた日の様子をきくために、その日おそく伊藤と連絡をとっておいた。 私は全く須山が一緒にやって来ようとは考えてもいなかったのだ。私は伊藤の後から もはや
するほどにさえも仕事をしていないことを恥じた。 あて ヒゲの家には両親や兄弟が居り、その方からも私の名宛で ( 私たちの間だけで呼ば れていた名で ) レポが入ってきた。ー、ー自分は「白紙の調書」を作る積りであること、 私は一切のことを「知らない、という一言葉だけで押し通していること。みんなはそれ を見ると、 むなくそ 「これで太田のときの胸糞が晴れた ! 」と云った。 ひょりみ 者私たちは、どんな裏切者が出たり、どんな日和見主義者が出ても、正しい線はそれ 活らの中を赤く太く明確に一線を引いていることを確信した。 じんもん 生ヒゲは普段口癖のように、敵の訊問に対して、何か一言しゃべることは、何事もし ゃべってはならぬという我々の鉄の規律には従わないで、何事かをしゃべらせるとい 党 う敵の規律に屈服したことになるというのだ。共産主義者・党員にとっては敵の規律 にではなく、我々の鉄の規律に従わなければならないことは当然だ、と云っていた。 今彼は自分で実際にそれを示していたのだ。 「ヨシ公はシャヴァロフって知ってるか ? と、須山が云った。 「マルクス主義の道さ。」 199 うち
ゆくえ なって、雑夫の一人が行衛不明になったことが知れた。 さら 皆は前の日の「無茶な仕事」を思い、「あれじゃ、波に浚われたんだ。」と思った。・ イヤな気持がした。然し漁夫達が未明から追い廻わされたので、そのことではお互話 すことが出来なかった。 しゃ 「こったら冷ッこい水さ、誰が好き好んで飛び込むって ! 隠れてやがるんだ。見付 けたら、畜生、タ、キのめしてやるから ! 」 船監督は棍棒を玩具にグルイ、廻わしながら、船の中を探がして歩いた。 時化は頂上を過ぎてはいた。それでも、船が行先きにもり上った波に突き入・ると、 工 「おもて」の甲板を、波は自分の敷居でもまたぐように何んの雑作もなく、乗り越し 蟹てきた。一昼夜の闘争で、満身に痛手を負ったように、船は何処か跛な音をたて、進 んでいた。薄い煙のような雲が、手が届きそうな上を、マストに打ち当りながら、急 角度を切って吹きとんで行った。小寒い雨がまだ止んでいなかった。四囲にもり / \ と波がムクレ上ってくると、海に射込む雨足がハッキリ見えた。それは原始林の中に 迷いこんで、雨に会、つのより、もっと不気味だった。 、、リに凍えている。学生上りが、すべる 麻のロープが鉄管でも握るように、バ丿 足元に気を配りながら、それにつかまって、デッキを渡ってゆくと、タラップの段々
後でおふくろにうらまれると困るから」と須山は笑った。伊藤は分らないように眼を 拭いていた。 その後須山が私の家に寄るときに、私は四年でも五年でも帰られないことをハッキ リ云ってもらうことにした。そして私を帰られないようにしているのは、私が運動を しているからではなくて、金持ちの手先の警察なのだから、私をうらむのではなくて、 さかさ この倒になっている社会を、つらまなくてはならない事を云ってもらうことにした。、つ 者やむやのことより 、ハッキリしたことが分らせれば、かえってそこに抵抗力が出てく 活る。それに、私の知っている仲間が警察につかまって、それが共産党に関係があると 私の夫とか息子にはそんな「暗い 生云われると、残された家族の妻とか母親とかゞ、 党陰」が無いとか、「罪にひツかけようとして」共産党だなど、有りもしない事実を云 っているのだとか、そんなことを云っていたものがあった。だが若しもそうだとすれ ば、共産党というものは「暗い影」であり、又共産党なら罪にひツかけてもい、のだ ということを、これらの仲間の残された人たちが自分の口から云っていることになる。 ある 私は、六十の母親だが、私の母親がそれと同じように考え或いは云ったりしてはなら ないと思った。私の母親はその過去五十年以上の生涯を貧困のドン底で生活してきて しる。ハッキリ伝えれば、理解出来ると思ったのである。 193