おび 「なんだ ? なんだろう : : : あれは ? 」河童は、眼を大きくしたまま、怯えたし うに、そうつぶやいた 「あーー」吉も、その前に、足をとめていたのだ 0 た。 二人とも、呼吸をのんだ。そこの大銀杏から小半町先の一廓いに、館構えが見え、 こずえ とのづく 声びた殿作りの屋根が、墨で刷いたように、赤松の梢と、築地の蔭に、沈んでいる。そ あそん 第 それはさっき河童がいった有範朝臣の館にちがいないのである。しかし、二人は、 のほかに、異なものを見たのであった。 しるように、しやがれた声に聞えた。 小川がある、土橋を越える。やや広い草原をよぎると、河童は、竹の先つばで、 おおいちょう 「あそこに、大銀杏が見えるだろう」と、指していった。 おおぎまち ありのり 「 : : : あの銀杏のそばの土塀が、正親町様だよ。藤原有範様のお館は、あそこを曲がフ と、すぐき、」 「や、ありがと」道をすすんで、二人は目じるしの大銀杏を横に曲がりかけた。するし 河童は、何かに、驚いたように、 「おやっ ? 」と、立ちすくんでしまった。 ひとかこ やかた やかたがま
「ごめん下さい」範宴のいる僧院の外で、聞き馴れない声がした。次の間にいた性善坊 「どなた ? 」障子をあけると、 「おお ! 介じゃな、ゝ やしろう 「箭四郎か」 「変ったのう」 「まあ、上がれ」 「山門のうちも、なかなか広くて、諸所に、僧房があるので、さんざん迷うた」 「達者か」 「おぬしも」 しようれんいん 「六条のお館は、和子様が、青蓮院にお入りあそばしてから、まるで、冬枯れの家のよ うにおさびしくてな」 やかた 「そうだろう。 して、お館様にも、おかわりないか」 「む : ・・ : ます、ご無事と申そうか」 み 「して、ムフ日は」 ろ「この近くまで、お使いに来たので、そっと立ち寄って、和子様のご様子を聞いて帰ろ , っ力と・
そし % 侍従介は、眉をひそめながら、草履を突っかけて、ふたたび、庭へ下りた。 て邸内の畑だの、竹林だの、小山だのを、 やかた 「和子さまーーー」呼びたてつつ、そしてまた、奥のおん方やお館の耳へは入れたくない ように、、いをつかいながら、血眼で、十八公麿のすがたを探しまわっていた。 ちょうど、折もわるく。 おく 東の屋の一室に、あるじの有範は、この安元二年の正月から病にかかって臥せ籠って いたのである。そのために吉光の前も良人の病室から一歩も出たことがないような有様 であったので、それも一つは、こういう間違いの起る原因でもあった。 で、召使たちは、よけいに心を傷めて、病室にこの過失を知らすまいと努めたのであ こしもとそぶ ったが、 ひとっ館のうちの出来事ではあるし、そこへ呼ばれてきた侍女の素振りにも不 審が見えたので、母である彼女が覚らないはずはなかった。 さわ 「十八公麿のすがたが見えぬとて、そう、噪ぎたてることはない」侍女のことばを窘め て、彼女は、静かに良人の枕元を離れた。彼女もまた、それを知るとすぐ、病人の心づ おそ かいを惧れたからであった。廊下へ出て、 わたどの 「まさか、築地をこえて、館の外へ走り出はすまい。池の中の渡殿を見てか ? 」 あそこも、探したようでございます」 みぎわ 「池の亀を、面白がって、よう汀で遊んでいることもあるが、よも、水へ落ちたような 様子はないでしようね」 ちまなこ ありのり 一と やまい たしな
はって、しばらくじっと性善坊の顔を見つめていたが、 じじゅうのすけ 「おお、貴殿は、そのむかし、日野のお館にいた侍従介どのか」 「挈 : つじゃ こうん 「これは : : : めずらしい」今は、孤雲とよぶ庄司七郎の菰僧と、性善坊とは、かっての 争いも、恨みもわすれて、手を握りあって、互いの変った姿に、しばらくはことばもな 九 「どうしたのじゃ、七郎どの。 いや孤雲どの」 「まあ、聞いて下さい」庄司七郎の孤雲は、岩に腰をおろした。性善坊も、草むらへ坐 つ ) 0 ぶぜん 憮然として、孤雲は、宵の月をながめていた。何か、回顧しているように。やがて、 まぶた そっと、瞼をふいて、 かんじゃ もう、何年前になるか、あの六条様のお館へ、間者に入って、捕まった年からの ことです」 「 , っ亠む : : : 」 「主人の成田兵衛から、不首尾のかどで、暇を出されたので、家にある老母や妻子には すぐ飢えが見舞います。そのうちに、京の大火の晩に、足弱な老母は、煙にまかれて死 0 いとま やかた
R 「和子様 : : : 」何度目かの声に、十八公麿はやっと気がついたように、無邪気な目をや って、辺りを見まわした。 まひる おび オやや脅えたらしい童心は、急に、白昼の庭の広さが怖 誰も、人影はなかった。。こが、 やかた【 くなったらしく、あわてて、館の方へもどりかけた。とーーまた、 「和子様、ここですよ」 : 」十八公麿はふりかえって、じいっと、厩牢の中にみえる人間の影をふしぎ こわごわ そうに見つめていたが、やがて、怖々と寄って行って、 「おまえは、誰 ? 」 くせもの 「わたくしは、お館にしのび込んで捕まった曲者ですよ」 「曲者さん ? 」 「名まえではありません、いわゆる曲者です。けれど、和子様には何も悪いことはしま せんから、安心して、少しここで遊んで行ってください」 「わたしは、淋しくてたまらないのです。いま、和子様のすがたを見たら、この胸が張 り裂けるようになりました。私にも、ちょうど和子様ぐらいな子があります。また私の 御主人の息子様も、和子様よりすこし年上ですが、やはり無邪気な少年です」 とうしてこんな所へ入っているの」 「曲者さん、おまえは、・ 「忠義のためです」 うまやろう
ないわ」そしてまた、 かじゃ 皆の 「臆病者つ、答えをせぬか。寿童冠者が勢いに怯じて、音も出さぬとみえる。 やかたひさし 者、石を撼れつ、石を抛れつ」声がやむとすぐ、ばらばらっと、石つぶてが、館の廂 や、縁に落ちてくる。一つは、宗業の肩を打った。 ぎようてい 「なんじゃ、あの業態は ? 」介は、睨めつけて、 「おのれ」と、ロ走った。そして太刀の反りを打たせて、 「お , つつ、 たった今、出会うてやるほどに、そこ、うごくなっ」 九 むねなり 血相を変えて、介が、出て行こうとする様子に、宗業は驚いて、彼の太刀の鞘をとら えた。 「これつ、どこへ参一る」 まつまろ 「あの悪口がお耳には入りませぬか。最前は、十八公麿様にお怪我をさせてはならぬ こら と、じっと怺えて、お館の内へ逃げこんでは参りましたものの、もう堪忍はなりませ ぬ。介は、斬って出て、斬りまくってくれまする」 「逆上したか、相手は、平家の侍の子じゃそ」 く↓つばし 「あの嘴の黄いろい小冠者までを、思いあがらせている平家の横暴さが憎うござりま す。素ッ首斬って、介が、斬り死にしましたら、少しは、見せしめになって、世間の人 すけ すけ お さや
こもそう くぐっし 「やいつ、何だ汝ゃあ ? 」傀儡師だの、菰僧だのが、起って来そうにしたので、 「へい」吉次は、戻って、 「雨宿りをしていた旅人でごギ、います」 たびがらす 「旅鴉か」 「やみましたから、出かけたいと思いますが、日野の里へは、まだ、だいぶござい士 1 しょ , っ力」 「日野なら、近いが、日野のどこへ行くのだ」 ふじわらのありのり 「藤原有範様のお館まで。はい、使いに参りますので」 とんきよう すまい きっこうごぜん 「あ、あのお慈悲ぶかい吉光御前様のお住居だよ」頓狂な声をして、女のお菰が立 ( すると、浮浪たちも、にわかに丁寧になって、 「吉光御前様のところへ行かっしやるなら、誰か、案内してあげやい」 かつば 「おらが行こう」竹の棒を持った河童みたいな小僧が、吉次の側へ寄ってきて、 「旅人、案内しよう」 「すまないな」 「なあに、吉光御前様には、おらたち、どれはど救われているかしれないのだ。あの 4 おちぶとうけ やかた 館は、そういっちゃ悪いが、落魄れ藤家の、貧乏公卿で、ご全盛の平家とちがい、築岫 くず つくろ わり た こも
が助かり , オー ) よ , つ」 のち 「用もない生命を捨てるな。蠅が小癪にさわるとて、一匹二匹の蠅をたたいたら、数 = の蠅がうるさいしぐさをやめるであろうか。まして、お館も御病中、怺えておれ、黙 ておれ」 「ええ、いかに、何でも」 おし 「ならぬそ、決して、築地の外へ出てはならぬそ。唖になれ、耳をないと思え」 なりたのひょうえこせがれ おのれつ、成田兵衛の小伜に、雑ー 「耳も眼も、血もある人間に、それはご無理。 あざわら ばら、今日のこと、覚えておれよ」築地越しに、呶鳴ると、どっと外で嘲笑う声がー た。牛糞や、棒切れが、ばらばらと庭の内へ落ちた。 くりや 介ばかりではない。厨の召使たちも、歯がみをしてくやしがった。けれど、宗業も きっこうまえ だめるし、吉光の前もおののきふるえて、 ツ一ら 「怺えて賜も。相手になることはなりませぬそ」頼むばかりにいうので、涙を溜めな′ ら、つんばのように鳴りをしずめていた。 すると、奥の小者が、あわただしく廊下を駈けてきて、 記「おん方様、宗業様、すぐおこし下さいませ、すぐに」語気のふるえに、二人は、ぎ」 坊っとして、 「ど , っしやった ? 」 男「お館様の御容体が、にわかに変でござります。唇のいろも、お眸も、急に変っ はえこしやく こら
あしあと 「憎いやつめ」腹だたしげに、踏み折れている草の足痕を、睨めつけている。 むねなり そこへ、範綱、宗業の二人が、連れだって姿をみせた。昂奮した顔つきで、侍従介が 写経のことを訴えると、 「ふむ : : : 捨てて行ったか」二人はそれを見つめて、しばらく考えこんでいた。けれ ど、範綱も宗業も、べつだん不快な顔いろは出さなかった。捨て去る者には捨て去るも さち のの心がまえがあるのであろう、浄土の幸は人に強うべきものではないし、また、この よのなか 社会には、浄土をねがうよりも、すすんで地獄の炎をあびようとすら願う者もあるので ある。 たとえば、文覚のように。 うらな ゆくすえ 二人は、そう考えた。そして、遮那王の将来を心のうちで占った。中山堂の丘に、ち らと見えた野狐のような男の影は、ことによると、先ごろの夜、この日野を訪れた吉次 であったかもしれぬと、それをも、同時に、覚っていた。 「よいわ、どこぞ、人が足をふまぬところへ、そっと、埋めておけ」 「勿体ない、畜生じゃ」侍従介は、腹が癒えないように、まだ罵っていた。 やかた 「お館はおらるるか」 おいで遊ばします」 「取次いでくれい」 「どうぞ」と、熊手を引いて、先に立つ。わが家も同じようにしている館なので、わざ おく あじろがき と、式台にはかからずに、網代垣をめぐって、東の屋の苑へはいると、 一と ののし
きちじ おんおく かね 「砂金売りの吉次と申しまする。お館様か、御奥の方に、さよう、おったえ下されば、 おわかりでございまする」 「吉次 ? 」考えているらしい 雨あがりの草叢に、虫が啼きぬれている。吉次はまた、ことばを足して、 やた 「ーー奥州の堀井弥太と仰っしやってくだされば、なおよくお分りのはずでございま と す。かねがね、ご書状をもちまして」いいかけると、ガタンと、門の扉がうごいて、 みうちびと 「秀衡殿のお身内人、堀井殿か」 「それは、失礼をーーー」すぐ開けて、 「拙者はいつも、おん奥の御代筆を申し上げ、また、そちらよりの御書面にも、拙者の じじゅうのすけ 宛名で御状をいただいておる、当家の家来、侍従介でござる」と二十歳ぐらいな若侍が 顔を出した。 「や、そこもとが」 「初めて、御意をーー」二人は、旧知のように、あいさつを交わした。 きよみずみどう 「おん奥の方には、先っ頃、上洛りました節、清水の御堂のほとりで、よそながらお姿 を拝したことがござりますが、お館には、今宵が初めて」 「よう御座った、まず」と、内に入れて、侍従介は、門を閉めた。 きぎよう お 壺の内も外も、境のないほど、秋葉が生いしげつている。まだ、萩に早く、桔梗も咲 ひでひら くさむら の やかた やかた かた はたち た