生信房は、師の顔を見て、 「そうでしようか。私などには、すこしもそんな気はいたしませぬが」と、 四 きゅうあく 心境に大きな変化が起っていたのである、たえまなく自己を考え、また真理を究握し ようとしてやまない善信の内省のうちに、このごろ、ふと、今も生信房にいったような 気持がたしかにわいてきている。 いき、よう 「 : : : おもうてみると、自力聖道の門から他カ易行の道へかかるまで、そのあいだの幾 多のまよい、もだえ、苦行、またよろこびなど、三十九歳の今日となって、振りかえっ てみれば、実にただ愚の一字でつきる。おろかしゃーーーわれながら今、その愚かさにお どろかれる」っぷやくように、善信はいうのである。 かしら 師のことばに、生信房はおのずと頭が下がった。そして、賢しくも、自分などが近ご ろ、やや念仏門の真実がわかったような顔をしていることが、恥かしくなった。善信 は、なおいう。 「このごろ、しみじみとわしは自分がわかってきたような気がする。ーー・飽くまで凡夫 さきの夜、あの生信房がいうのを聞くにつけて思いあわせ を出でない人間じゃと。 られたのじゃ。極悪無道の大盗四郎であった彼が、たちまち、なんの苦行や迷いや悶え もなく、嬰児が這って立つように、素直に念仏を体得している様を見ると、そこに、凡 あか′ ) さか つつ ) 0
1 日野善信 「おさらば」 「お、らば」 輿を追って、無数の人が、手を振って見せる。善信は、その群れに、目礼していた その一つ一つの顔に、さまざまなる過去の記憶を呼び起されつつ、 ( おわかれだ ) と、つよく思った。 いがでらさだかた しゅぜん 月輪の老公から特に付けられた伊賀寺貞固と、朝倉主膳の二人は、騎馬で、前駆の = えいざん 万一というのは、叡山の荒法師や、無 一に備えて、前駆のうちにまじっていた。 な僧のうちに、不穏な行動に出ようとする者があるという風聞が、この朝、伝わって」 たからである。 るぎい ( 流罪は軽い。善信を途中で引きずり下ろせ。そして、ぞんぶんに私刑を与えてから 都から追ん出してやるがよろしい ) そういう煽動をしている者があるという専らな風 なのだ。 しかし、官の警士や、領送使の侍や、そのはか、善信の徳をしたう人 が、輿の見えないほど取り囲んで、その上にも、進んでゆくほど、五十人、七十人し みちみち 途々人数が増してゆくので、たとえそういう計画があったにせよ、手の出せる余地はキ ったくなかった。 あわたぐち 岡崎から粟田口へーーーそして街道を一すじに登って蹴上の坂にかかるころは、もう 道路のかきも、樹々の間も、人間で埋まっていた。 もくねん 民衆は黙然と、眼で輿を見まもっていた。だが、心のうちでは、念仏を思わないも ( けあげ
「ーーー・では、後を楽しもう」 おう 「応」弁円とわかれて、法師たちは山へ走った。 彼らがもどってくることを、もう中腹の寺々では待っていた。 一人が聞くと、先へ走って行って、一人へ伝える。その者がまた、次の者へ伝える。 わずかなうちに、このことは、一山のうちに知れていた。 「いよいよ念仏門の滅亡の日も近づいた」 と、人々は暗黙のうちに、叡山天台の独り誇り得る時代が来ることを祝福して、法敵 よしみず 吉水へやがて襲うであろうところの暗風黒雨を想像し、 「こんどは、ちと烈しいそ。いくら強情な法然でも、善信でも、致命的な悲鳴をあげる にちがいない」いかに吉水禅房の人々がそれに処すかー・ー見ものであろうなどという言 せきがく 葉は、かなり長老といわれ碩学といわれている者の口からも洩れた。 はず 「好機。ここを外すな」叡山はまた、鳴動しだした。 そういう裏面のことなどは元よりおくびにも出すのではない。例の打倒念仏の理論を かかげて、洛中へあふれ出した。 南都も、それを伝え聞いて起った。彼らは、朝廷へ向って、再び、 ねんぶっちょうじがんもん 「念仏停止願文」 をさし出すと共に、辻に立ち、寺に立ち、檄を貼り、声をからして、念仏門を誂謗し 批判という中正は元々欠いているのだ、ただ、念仏を仆せ、法然を追え、善信を葬 ひばう
おとといも来てみた。きのうも来てみた、そしてまた今日も、 ( もしゃ ? ) と思って来たのである。 しようごいん しかるに天城四郎は影もかたちも見せないではないか。聖護院のほうへやって来るか と心待ちにして、毎日、帰るとすぐ宿房の下男に聞いてみるが、手紙も来なければ、使 いも見えない ( まあ、見ていろ。近いうちにおれが吉報を持ってゆくからーー ) と、さも無造作にい つばね って、松虫と鈴虫の局のありかを突きとめてくるように広言して行ったくせに、十日以 しくら盗賊の通癖とはいってもあまりにずばら過ぎる。 上も沙汰なしとは、、 「あいつが広言を吐いてひきうけるようなことをいわなければ、おれが自身で探したも のをーーー・」弁円は、腹が立って、たまらなかった。しかし、その文句をいう相手がいな いので、彼はつい、独り言に、そうつぶやいて、河原の方を見たり、堤の上を眺めた すべ り、ややしばらくを、意味なくそこで立ち迷っていることしかする術はないのであっ せんとうのごしょ あせ 彼がしきりと焦心っているのも、実は無理でないのであって、仙洞御所の命はいよい つばねせんぎ なかっか一しよう よきびしく、中務省の吏員はやっきになって、二人の局の詮議に今は白熱しているか たちなのである。 まちなか それに、市中へ立てた官の高札は、たちまち効き目があって、それに掲示された恩賞 ぞうにん を利得しようとする洛内の雑人たちが、密偵になりきったように、寄るとさわると、松 りいん
仕かけ、村でも仲間でも、手におえぬ厄介者とされておる奴でござります」 「たわけが」と、国時は、棟梁へも、奉行へも、叱りつけるようにいった。 し。ようじよう がらんこんりゅう 「さような身持ちのわるい無頼な人間と分り切っていながら、なぜ、伽藍建立の清浄 なお作事に使っておるかっ、そのほうどもの人事の不行届きでもあるぞ」 : 、がしかし 「はっ : : : その儀は、重々私どもの責任と思うて恐れ入っておりまする。 その河和田の平次郎という職人の性質は、今も申し上げた通り、酒乱、無頼、凶暴、何 一つ取得のないやくざ者にはござりまするが、ただひとつ、鑿を持たせては、不思議な らんまぎいく ごうてんじよう てんびん 腕を持っていて、天稟と申しましようか、格天井の組みとか、欄間細工などの仕事にな ると、平次郎でなければほかの大工にはできないというので、仲間の者も、つい、み いちもく ながらそれには一目おいておりますので」 「だまれ」国時は、叱咤して、 「たとえ、建立の仕事の上で、どのように必要な職人であろうと、畏れ多くも、勅額を 奉じ、衆生のたましいの庭ともなろうこの浄地に、しかも、まだ普請中から、血をもっ ーーー他の て汚すようなさような無頼の徒を、なぜ、使用しているか。ゆるしておるか。 職人どもへの見せしめにも相成らん、きっと、厳罰を申しつけい 「恐れいりました」 そうじゃ、この地域の内では刑罰はならん、あちらの草原へ曳き出 「すぐにせし して、首を刎ねい」 のみ
みようりたいせん - つ力し されぬ。ともすれば、愛慾の広海に溺れ、ともすればまた、名利の大山に踏み迷って」 る凡夫なのじゃ、聖者などとは、滅相もない過賞、幼なじみのおん身にいわれては、 , の愚禿こそ、穴にも入りたい」 「親鸞どの」弁円は、しかと、その人の手をにぎりしめて、 「幼少から、これほどのおん身を、友として持ちながら、なぜ弁円は、早くからおん丸 のその真実と徳に触れることができなかったであろうか。今さらながら口惜しい のみならす、このよい年ごろをしてまで、この稲田の草庵の栄えを嫉み、自己の行法宀 のち 道門の衰えを、ただおん身あるがためと憎み、板敷山に待ち伏せて、お生命をちぢめ / : 怖ろしい、思えば、怖ろし、 ものと、つい今日も、毒矢を研いでいたのであった。 自分の心であった」 あや 「だがーーー親鸞を害めなさろうとしたその心が、真の宿縁となって、ここにおん身が古 実を吐き、わしが真実の手をのぶることとなったと思えば、その害心に、わしは掌を七 わせる。まことをいえば、親鸞は、いっかおん身がこうして訪ねてくる日のあることも 信じていた」 王 「えつ、それまで、この弁円の心が、わかっておいでであったか」 明 雀「何か、通ずるものがあったとみえる。わしの心には、おん身の心が映って、ばんやい その日が来たと思えばよろこばしい そんな気持がしていた。 そういって下さるからには、弁円の願いも 「おれの果報は、まだ尽きなかった。 ねた
こよいは村の者も寄っていなかった、いやもう夜も深いので、それらの者も帰り、禅 房の弟子たちも室に眠り、親鸞の妻子も夢の中に入っているのかも知れない。 じゃく たんけい 寂としてーー庵室のうちは静かなのであるーーーただ短檠の一穂の灯が、そこの蔀簾 のうちで夜風に揺れていた。 満顔を汗に濡らし、声は百雷の墜つるように弁円は、全身を怒気に満ちた瘤にして再 び呶鳴っこ。 くとく ひたち 「親鸞はおらぬかっ、愚禿はどこにおるかつ。すでにここに立ち帰っておろうが。常陸 つかさはりまのきみ むざん まいす * かんじよう 一国の修験の司、播磨公弁円が、破戒無慙の念仏売僧に、金剛杖の灌頂をさすけに参っ ぶつだ ば、つくじゃく た。われこそは正しき仏陀の使者、破邪顕正の菩薩、孔雀明王がお旨をうけて参った 者。ーー出てこすば、踏みこんで、愚禿の素首を打ち落すがよいか。 会おう、親鸞 つ、出てきませいつ」 横たえている三尺の戒刀に反りを打たせ、大魔の吼えるように、ひっそりした庵室の 中の一つ灯へ向っていった。 王 明 雀「おう」と、垂れこめた簾を徹して、その時、明らかな親鸞の答えがひびいた。次に 「誰じゃ」それも親鸞の声であった。 へや すだれとお すこうべ いっすい しとみすだれ
ろ 14 さけがめ 素焼の酒瓶と、素焼の盃が、山伏たちの手から手へ移されていた。 「ます、物見の報らせがあるまで、英気を養っておくがいい」と、弁円も、幾杯か傾け て、朱泥のように顔を染めていたし、他の者も、毒がまわったように、酔いしれている のだった。 その酒の気が、言葉となって、一人がいう。 1 」う 「思えば、業の煮える奴は、あの親鸞。ーーー越後の片田舎から流れてきて、わすか、 、つ・は挈、く 、九年のあいだに、優婆塞の聖壇十 , ハ坊の信徒を荒らし、われわれの行法の光をこの 近国から奪い去ってしもうた」 そうつかさ 「そればかりでない」と、 いったのは、総司の弁円だった。 ぎようりき だらく はりまのきみ 「この播磨公弁円ともあろう者が、親鸞ごとき堕落僧に、行カ及ばぬものと噂され、こ の近国の地盤をかすめられては、何よりも、本山聖護院へ対して、この弁円の顔向けが * くじゃくみよ、つお、つ 今日こそは、孔雀明王も ならぬ。大きくは、日本国中の修験者の恥辱ともいえる。 まいす 照覧あれ、この身が帯びる破邪の戒刀をもって、売僧親鸞の首根を打ち落し、生き血を 壇にお供えする」 いちしちにち た のろ 「一七日のあいだに、一万度の護摩を焚いて、祈りに祈り、呪いに呪った験もなく、な けんろ おこの上柿岡へ立ち越えて、愚婦愚男をたぶらかそうとする親鸞も、この板敷山の嶮路 しゆでい し はじゃ しるし
鸞は、僧房の窓を振向いて、 しようしんばう 「生信房はいるか」するとすぐ、生信房は外へ出てきて、 「おお。 ・人フ日もお出かけなされますか」 「大地を素足で踏むと、一日も踏まずにはおられぬような気のするほど、よい心地 じゃ。西仏にも、後から来よと告げてくだされ」 。い」と、生信房が、あわてて支度にもどってゆくと、その間にもう、親鸞は、檜の 大きな笠をかむって、すたすたと田の方へ出て行った。 稲田数千石の田の面は、一眸のうちに入ってくる。植えられた田ーーまだ植えられな い田がーーー縞になって見えた。あなたこなたには、田植笠が行儀よく幾すじにもなって 並んでいるのである。その笠の列も、空を飛ぶ五位鷺の影も、田水に映っていた。 「お上人さまがいらっしやったげな」田の者が、彼の姿を見つけて、すぐ伝え合った。 「おお、ほんとに」 「あんなお姿で来る所を見ると、さつばりわしらと見分けがっかんわ」 「都にあれば、尊いお身でいられるというのに、なんで、わしらと一緒になって、この 泥田の中へ、好んでお入りになるのじやろ」 みの 「お上人さまの功徳でも、この秋は、ふッさりと穂が実ろうそや」そういうことばの下 から、はや晩の教えを思い出して、念仏を口にする声もながれた。親鸞は、そこへ来 て、 ひとめ ひのき
ふちん 御大赦の天恩が下ったと思えばこの悲報に、人々は、暗 ぞ、念仏門の浮沈、せつかく、 黒の中に迷う思いをしておりまする。おっかれもござりましようし、定めし、おカ落し でもございましようが、何とそ、一刻もはやく京都へお出まし下さいますよう、私から も、お願い申しまする。どうそ、皆様にも、ともども師の御房をお励まし下さって、お 急ぎ下さいますように」 が、親鸞は、 と、西仏、生信、光実、了智などの人たちへも顔を向けていった。 「いや : : : 」と、かすかに顔を横へ振って、こういった。 「小松谷のおわかれに、この法然の舌はたとえ八ッ裂きになるとも、念仏は止めまいと その京都に 仰せられたーーーあのお声は、もう二度と聞かれぬことになったのじゃ。 : ・ああ、深 何たのしみあって参ろうそ、この上は、親鸞はもう上洛をいたしませぬ。 うっしょ くて、うすい現世のご縁であった」 ざん きゅうよしみずぜんばう また、叡 大祖の法然上人が亡い後の旧吉水禅房の人々が、これからどううごくか 山やその他の旧教の徒が、それを機会にどう策動するか。 ふんらんちまた 親鸞は今、かなしさでいつばいである。さびしさで身も世もない。そういう紛乱の巷 わず のことを、思うてみるだけでも煩らわしかった。 みやこ といったことばは、彼の真実であった。ありの もう京都へ帰る張合いもない ごたいしゃ みやこ