かせて流浪をつづける親鸞の心らしいのである。二日も三日も、黙々として、その的の ない道を、五名は歩いた。 くろうどどの 「もしもし : : : それへおいであるのは、角間の蔵人殿ではおざらぬか」碓氷川のほとり ひとむれ で、こう声をかけた一群の旅人があった。三頭の荷駄を曳かせて、四、五人の男を連れ た郷士ふうの男だった。 「角間の ? 」と、親鸞に付き添うている人々は一様につぶやいて、 ( 誰のことをいうのか ? ) と、いぶかった。 駒の上から下りた郷士ていの男は、西仏房のそばへ来て、肩をたたいた。 くろうど 「ウム、やはりそうじゃった、角間の蔵人うじ、わしらは、穂波村の者だよ、あんたの 若いころから知った者だ、まア何年ぶりだか分らねえが」西仏は思い出した。彼の故郷 は信州角間村である、そのころは、角間の蔵人と呼ばれていたが、あまり遠い昔のこと で、自分の名とも思われなかったのである。 うすい この人々に出会ったのが機縁で、親鸞と西仏と、光実、了智の四名は、ふたたび碓氷 さく′一おり を越えて、信州佐久郡へ行くことになった。 南そのうち、生信房が一人ぬけたのは、彼もこの機に、久しぶりで郷里へもどって、多 ずう 年の悪名を洗い、郷土のために、これからの半生を念仏の弘通にささげたいという心願 たもと を訴えたので、親鸞もそれをゆるして、碓氷川から北と南へ袂を分ったためであった。 かくま ほなみ うすい あて
んだか不安心でもあるし、安心したような気もしてきた。 ( 落着いていろ、ロを拭いていろ ) と、彼は自分へつよくいって聞かせた。 急に、辺りの者が、一斉にべたべたと大地へ土下座し始めたので、平次郎もあわてイ 坐った。 いや、その辺りばかりでなく、山門から境内の者すべて、一人として、立っている亠 かしら かや がなくなったのである。萱の風に伏すように、すべての人々が、頭を下げ、念仏を唱 っ ばんしよう し、やがて、撞き出された梵鐘の音と共に、しいんとした静寂が見舞った。 「 :.. : 親鸞き、まじゃ」 「 : : : お上人様じゃ」ひそかな囁きに、平次郎はそっと首をのばして本堂のほうを日 こんどうず た。その時本堂の内では今しも稲田の草庵から移された善光寺如来の御分身が、金堂 どうし 子の内ふかく納められ、導師親鸞がおごそかな礼拝を終っているところだった。 とんきよう 「ーーーやっ」突然、こう頓狂なさけび声を揚げて、平次郎は、すべての人が頭を下げイ いる中から、たった一人、発狂したように飛び上がった。 しようにん っ ・ーー親鸞の十 導師親鸞聖人のそばには、大勢の御弟子たちが従いていたが、その中に ぐうしろに、俗体の女すがたが、オオ こ。こ一人まじっているのであった。 「ーーーお吉だっ。 : オオお吉にちげえねえつ」彼はふらふらと歩き出したが、すぐ 集につまずいて群集の中へ仆れた。 いっせい
5 ろ 0 も どう・ ) く 親鸞は慰めるに困ったように、縁を下りて、なお慟哭してやまない弁円を、いたわっ 「なんの : : : なにを嘆かれることがあろう。ーーー弁円どの、おん身の今のことばは、あ しん まりにこの親鸞を高く見過ぎている。親鸞とても、もう四十九になるが、今もって、真 一一諦のあいだに、多分な迷いを抱いて、一心の帰教する所は、決して定ま 0 たとは申 いや、その蔭は、むしろおれのほうが受けている。それを今、はっきりと気がっ いた。常におん身を呪詛しつつも常におん身を仮の敵と見、おん身の進んでゆく道を、 自分も負けまいという目標にして励んでいた。今思えば、おん身が他カ門の真の聖者で むち あったればこそ、ねじけ者、怠け者のこの弁円も、とにかく孜々として鈍才に鞭打ち、 みうち はりまのきみ 聖護院の御内から少しは頭角を出して、播磨公弁円といわれるまでになったのだ。 わびごと その余のことすべて、今となっては、詫一言もない、五十になって、弁円は初めて、おん 迷いの夢がさめたとは、このことでござろ 身を知り、自分の愚鈍を知り申した。 う。ゆるされい。親鸞どの、このとおり手をつかえ : : : 弁円が初めて、おん身の足もと にこう手をつかえて、詫び入るのだ。 : どうか、今日までの大罪をゆるしてくれ」 おえっ 大地へ顔を伏せて、弁円は嗚咽していった。 九
えいぎんよかわ 二日の朝、都にある叡山の横川の旧友から、赦免を祝う手紙がとどいた。そのはかの 人々からも急に、ここへ届けられる書状が殖えだした。 それらの消息から親鸞は知ることができたのである。 行住坐臥、心のうちで、気 ほうわん にかけている師の法然上人の安否を。 でーー彼が知り得たところによると、師の法然は、去年の十一月下旬には、早くも、 ) めき 恩命に接して、配所の讃岐を船で立たれ、元の吉水禅房へ帰っておられるということで あった。 「お目にかかりたい」師を思う時、親鸞は甘える子のように、自分を抑えきれなかっ ( 一刻も早く ) と思い ( 越しかたのつもる話を ) と、矢もたてもなく、慕わしくて会いたくて、じっとしてい られなかった。 「わしは、都へ立つ。 すぐに立つほどに、支度してくだされ」急に、こういい出し たのが、正月の二十五日だった。雪で里の者も通えなくなったころである。 「えつ、すぐに ? 」と、人々は疑ったほどだった。 親鸞の決、いは固い。 ふ
402 解説大正期宗教文学の正嫡 歴史上の著名な人物を小説の主人公に全面的に据えて押し出す、という試みは、作家ならば一度 はやってみたい誘惑をそそられるものであり、また冒険でもあるといい得る。とくに宗教上の著名 はあく な人物に関しては、これをどういう角度、視点から把握し、どう描くか、ということは、、わば作 家の命とりともなるような危険をも含む大冒険でもある。 吉川英治の「親鸞」もいわばその種の冒険をあえて敢行し、その敢行が功を奏し、一つの確乎た る吉川親鸞を造型し得たもので、「宮本武蔵」とともに、この時期の彼の代表作として広く読まれ きびす たものである。「宮本武蔵」とほば時期的にだぶり、踵を接しての試みであったことは、「宮本武 蔵」に強くはらまれていた国民的感情を、この「親鸞」の場合にも、ほば同じ姿勢、方針で貫き、 す こうのとしろう 紅野敏郎 ( 早稲田大学教授 )
「 , っム・ : 」うなすいて、 「そう、そう」親鸞は、城主の国時をかえりみ、急に田 5 い出したようにいった。 この親鸞も、近々に、いちど信州路まで出向かねばならんのう。国時どの、しば らく、宮村の庵を、留守にいたしますぞ」 * じゅんしやく こ巡錫でも思い立たれて」 「ホ : ・・ : それはまた俄かな、急に、。 しゅじよ、つ 「いやなに、この伽藍に安置して、末世まで、衆生を導かせたもう本尊仏を請い受け 「あ、では善光寺へ」 「お迎えに行って参る」 「お供の方々は」 「本尊仏のお迎え、親鸞ひとりでもなるまい ほか二、三名は召し連れましよう」 話の半ばだった。 とうりよう だいぜん 大工棟梁の広瀬大膳と、その部下の者が、血まみれになった一人の男を抱え、ばらば らと駈けてきて、 っ ? ) 0 「権之助殿、これにか」と、 ぶぎよう 奉行の藤木権之助が、その様子を見て、なにか仕事の上の急用かと、 「オオ、何事」 いおり これにおる証信房、鹿島の順信房、その
もおか みよしためのり その前から、武弘のところに、縁談があったのである。真岡の判官三善為教の息女で 朝姫という佳人がその候補者であった。 そういう話が 親鸞の身辺に起りかけているとーーーすべての人間の運命というもの の動いてゆく機微な時節が、いろいろな方から熟してきているように、同時にまた念仏 、よりし・け 門の帰依者の稲田九郎頼重とか、宇都宮一族などの地方の権門たちが、 「いつまでも、上人のおん身を、あのような廃寺においては、ご健康のためによろしく ない。お心を曲げても、ぜひとも、もすこし人の住むらしい所へお移し申し上げねばわ ふぶきた ' れらの心が相済まぬ」そう結束して、下妻の庄からほど近い稲田山の麓ーーー吹雪ヶ谷に 新しく一院を建てて、そこへ、移住するようにすすめてきたのである。 ちょうなぞ 建保二年の春。菜の花の咲きそめる坂東平野の一角に、力ある大工たちの手斧初めの 音から、親鸞が四十二歳の人生のさかりにかかる稲田生活の一歩は初まった。 間もなく、庵室はできあがった。木の香のにおう新院へ、三月寺のほうから親鸞師弟 は移ってきた。 こじまのぐんじたけひろなこうど 間もなく、小島郡司武弘の媒介で、嫁御寮は、嫁いできた。真岡の判官兵部大輔三善 為教の息女といえば、里方も里方であり、媒人も媒人であるが、親鸞の目的は、身をも じきにゆう って、凡夫直入の生活をして見せるのにあった。在家往生の本願を実践するのにあっ かしよくてん で、もちろんその華燭の典は、い とも質素に行われた。 あさひめ
2 ろ 0 によし、よう 都から来た二人の女性の客をそよそよ吹いて、春のにおいを持っ微風が、静かにそこ ちくりん へ坐った親鸞との間を通って、裏の竹林をそよがせる。 「ーー・・・ます何より先に承りたいのは、師の法然御房の御消息、月輪のお館へは、讃岐の 上人より折々のおたよりもあろう、その後のご様子はどうおざるか : お変りもおわ たず さぬか」親鸞は訊ねた。 す たびごろも 埃にまみれた髪を梳き、旅衣の腰紐を解いて、彼の前に坐った万野と鈴野の二人は、 ( なにから先にいおう ) と、胸がつまってしまったように、ややしばらくの間、俯目に 指をつかえていた。 次の間には、西仏や生信房などの人々が、これも、都の消息を聞きたさに、膝をかた くして控えていた。 さめきのくにしあく はい、讃岐の上人様には、お館の御領地、讃岐国塩飽の小松の庄とやらいう所 し。ようふくじ きよ、つげ 新たに一寺を建てて生福寺と申しあげ、お変りもなくご教化の由にござりまする」 万野の答を聞くと、 「おお、そうか」親鸞は、ほっと深いうなすきをした。その安心が顔いろに現われて明 るい眉になった。 しゅうと 1 」 「それをうかがって、ます安堵した。 さて、次には、お舅君の月輪老公にも、さ だめしおすこやかでおられましような」 ぜんこうき ) ま 。し、その禅閤様は」万野のことばが濁ったので、親鸞はふと膝をゆるがせて、 あんど ふしめ
しやめんごりんし 赦免の御綸旨をおうけしたからには、いずれ近いうちに都へご帰洛なさることであろ おくそく ばきよう 弟子の人々は、そう臆測していた、もちろん、親鸞のこころにも、慕郷のおもいは燃 えていた。 ひとこと ( 玉日が生きていたら ) 彼は、妻に一一一 = ロ、このよろこびを聞かせたかった。 添う日までは、お互いにあらゆる苦患と闘い、添うての後は、身も心もやすらぐ間も るべっ なく流別して、そして、離れたままこの世を去ってしまった薄命なあの妻に・ーーまた、 ・次 . 冖」は、 しゅうと ) ) ( 月輪の舅御殿にも ) と、思った。 あ かの人はどうして在るか。都の様はいかに。 おうか らひろがった。そして、念仏門の栄えが謳歌された。 くとく ′一んじよう 愚禿親鸞言上 きらく うけじ。よう のお請状の一通をおさめて、勅使の岡崎中納言の一行は、その翌日、すぐ帰洛の途に ついた。 やがて、そのよろこびのうちに、建暦二年の初春は来たのであった。 よそく こういう新春を迎えようとは、親鸞をはじめ、誰も予測していない年であった。 さか
「師の法然様から ? 」 「いえーー」と、明智房は、いよいよいい難そうであったが、 あ ) ) い しうかくほういん 安居院の聖覚法印から」といって、あわてて旅 「法然上人からではございませぬ。 包みを解き初めた。そして、取り出した一通を、親鸞の手へ差し出すと、 ふみ 「仔細は、このお文に」と、ロをつぐみ、そのまま、後へ退がって、ばらばらとこばれ しずく る松の雫を背に浴びていた。 五 まっ と白けたものが弟子僧たちの顔いろに走った。何事にもかってものに動じた 例しのない親鸞の眉にすら、 「なに、聖覚法印から : : : このお文とな ? 」 不安の影がちらと曇って、やがて読み下してゆくうちに、書状をくりかえしている手 ふる がかすかに顫えを見せた。 ( 唯事ではない ) と、人々の胸には重いものがのしかかった 一 = 口が、この上人の涙ぐ 南親鸞のまっ毛には、明らかに、涙が光っていたのである。 まっげ んだ睫毛を今まで一遍でも見た者があるであろうか。 春 「 : : : お哀傷はさることながら、御赦免の天恩を浴み、おなっかしい京都の土をお踏み 遊ばしてからおかくれなされたことが、せめてものことでござりました」明智房のこと ため ごしやめん ふみ みやこ