どこか遠くの方で、嬰児の泣く声がする。平次郎は、夜具の中で、ふと、数年前に死 んだお吉と自分との間にできたーーー亡き児の声を思い出した。 「 : : : 似ている」彼はそっとした。 ちょうな 嬰児の泣き声は、地の底からするように聞えた。 また、ともすると、手斧の刃 で、ばんと、後頭部を一撃に斬って殺したお吉の亡霊が、血みどろな顔をして、自分と 共に、この家に帰ってきているような気がしてならない。 ( ーーーゆるしてくれ ) 必死に叫んだと思ったら、それは夢だった。 びっしよりと冷 こわ たい汗の中に身は硬ばって眠っている。 なきつま 死んだ児の泣き声ーーー亡妻のうらめしげな顔ーーー火の車、地獄、鬼、赤い火、青い 火。 まぶた ゆきき 怖ろしい幻覚ばかりが、眼がさめても、瞼の前を往来している。がたがたと骨ぶしが ふるえる。夜の明けるのが、刻々と、待ちどおしい 「おツ」ふと寝床から顔を上げると、窓の破れ戸の隙間が赤く見えた。日の出だ、と彼 は救われたように飛び起きた。そしてガラリと戸を開けてみたのである。 そうぎよう 「ーーーあっ」だが、空はまだ真っ暗だった。そして彼方の原を、十二、三名の僧形の人 たいまっ ほのお 影が、おのおの、真っ赤な焔をかざしてーーーそれはもちろん松明であるがーー粛々と無 あか′、 あなた
っ ? ) 0 「さ ! 逃げるんです」と、 「あの火事は、法勝寺ですか」 「火事だけなら、こんなにあわてはしません。衛府の者がやって来たのです。とうとう やって来た ! 何十人という捕吏を連れてーーー」 住蓮は、ことばを続けて、 どこまでもどこまでもーーー人里を避けて、西のほうへお逃げなさ 「この峰づたいに 他宗の者や、田舎の役人などに気をつけて」おののいて、足も地につかないでいる 松虫と鈴虫とへ、 「こうしている間に、捕吏が登ってくると、もう最期になります。私たちが、付いて行 ってあげたいが、私たちは、これからなお、吉水の上人に、事の由を申しあげて、この 禍いが他へ及ばさぬようにしなければなりません」 安楽房も、急き立てて、 「さ、早くなされい ・ : なあに人界は追われても、到る所に、仏界はあります、浄土 はあります」 そまみちょ 「では : : 」と、転ぶようにふたりは細い杣道を攀じてゆく。 「気をつけてーーー・」 えふ
れーーーとさけぶ。 、民衆は、まだ耳をかさなかった。笛ふけど踊らず、民衆の批判のほうが、遥か にもう進んでいたのである。 今ーーー眠ろうとしていたところであった。破れんばかりに戸を叩いて、 「お二人っ ! 起きていますか。ーーー住蓮と安楽です。すぐ、すぐ してください、逃げる支度を」まるで、山海嘯のような、不意であった。 松虫と鈴虫は、 こお : 」と全身を凍らせた。。 たが、松虫はさすがに年上であった。 とっさ 「あわててはいけません」わざと静かに、 こうなだめて、咄嗟に身仕度をし、足ごしら えまでして戸を開けた。 あんたん その時のほうが、彼女はぎよっとした。いつも暗澹と樹々の風ばかりしている山裾の ほうが、真っ赤なのである。そこらの樹木の一本一本がかそえられて、葉や幹の下草ま でが、赤い火光にかがやいているではないか 「火事ですか」 住蓮と安楽は、小屋のうしろで突く這っていた。岩清水ヘロをつけて吸っているので ある。濡れた顔のまま、 やまつなみ わ 逃げる支度を
かす 花明りであろう、ほのかに廂の外は白い。音もなく、まだ人声もなく、たた微かに , ( ごく花の香のうちに、暁は近づいている。 よしみずしようにん : 吉水の上人には、はや今ごろは」善信は、持仏堂を出て、縁に立った。末明の売 ぶぜん を仰ぎながら、ふとつぶやいて、憮然となった。 : 」遠心的に、彼のひとみは、今朝、都を離れてゆく上人の前途をそこから日 送った。 と共に、自分もこれから間もなく、この岡崎の草庵から、雪の越路へ立 て行かなければならない身であることを思う。 まえ 乳のみ児の世話ャーー配所へ送られる良人への心遣りにーーー妻の玉日の前は、ゆう′ は、一睡もしなかったはすである。 だのにーーーせまい厨のほうでは、もう貧しい燈をともして、彼女が、乳のみ児の房事 が眠りからさめない間にとーーー朝餉の支度をしているらしい うつわ 陶器ものを洗う音やら、炊ぎの支度する気配が、静かに、そこで聞えた。もうこの しんそう き一きのかんはくけ みずしごと 善ろは、水仕業に馴れているとはいっても、月輪の前関白家に生れて、まったく深窓に 野。こった彼女がー・ーーと思 , っと、 もだ ふびん ( 不愍な ) と、ふと、あたりまえな人間のもだえるような悶えを、善信も感じずには、 られなかった。 くりや あき、げ こころや ふさま
ちょうな その時、平次郎がもう御堂の下まで来ていた。ドギドギと光る手斧の刃が、闇の中を けだもの うろついている。獣に似た恐い眼が、御堂の床下をのそいていた。それから廻廊の横の ほうへ廻りかけたが、 気配を感じたものとみえ、やがてのしりと、お吉の上がった階段 を彼も上がってきた。 つよい木の香が鼻を打つ。柳島のこの御堂も、昨日ですっかり落成していたのであ むしろかけ る。丸太足場も、筵掛もすっかり取払われて、きのうの夕方は、かんな屑一つないよう にきれいに掃き浄められていた。そして、御堂の庭には、敷砂まで撒いてあった。 いやがったなツ」吠えたける一声がしたかと思うと、平次郎は、お吉の影を見 つけて、タタタタタと躍り上がって、駈けてきた。 「ーーーあツ、あれつ」 けん やしゃちょうな 「うるせえつ」二十幾間かある廻廊を、お吉は黒髪をながして逃げまわり、夜叉の手斧 はあくまでそれを追いつめにかかった 五 もうだめだ。お吉はそう観念した。 全身が、死をおもうて硬ばってしまった。妙に、走る意力もくじけて、 ( 御仏さま : : : お上人さま ) とのみ心で叫んでいた。 と彼女は眼の先に、深い死の かど 谷間を見た。ちょうどーーー御堂の廻廊の曲り角であったーーーお吉は欄干の角へ仆れるよ こわ ま
著者ーー吉川英治 発行者。ーー野間佐和子 発行所ーー株式会社講談社 東京都文京区音羽一一ー 郵便番号一一二ー〇一 電話東京 ( 〇一一 l) 九四五ー一一一一 ( 大代 印刷ーーー凸版印刷株式会社 製本ーーー株式会社国宝社 落丁本・乱丁本は、小社書籍製作部あてにお送 りください。送料小社負担にてお取り替えしま す。なお、この本についてのお問い合わせは文 芸図書第一一出版部あてにお願いいたします。 定価はカバーに表示してあります。 PrintedinJapan ISBN4 ー 06 ー 196513 ー 1 ⑥吉川文子一九九〇 ( 文 2 ) 吉川英治黻文庫リ 親鸞曰 一九九〇年九月十一日第一刷発行
「弁円・ : ・ : 」 「なんだ」 * じん・、つりキ、 「おれはもう、神通力を失ってしまった。その代りに、この通り、仏果の功力という 7 のを授かった」 「待てオイ。ーーー貴様はいったい正気か」 「正気だ」 「そんな姿に変ったのは、あの事件の秘密を探るために、吉水禅房の奴らをあざむく・ めの手段にやったのではないのか」 わしはついきのう、上人のおゆるしを賜わ ( 「たれが、嘘や手段に、頭を剃るか とくど て、岡崎の善信どのの手で得度していただいたのだ」 「得度を」 うれ 「おれは初めて、明るいこの世を見た。うれしくて、欣しくて、堪らないのだ。この ~ 。考えてみると、おれの母も父も、おれを生れそ , わやかな心持を誰に話そう ? ふたおや : ああ誰かにこ ( ないの悪鬼だとばかり嘆いていた。その両親もどうしているやら。 花欣びを告げたいがとーーーそこで貴様のことを思い出してやって来たのだ」 えつ、そんなことで、この弁円を思い出したのか。じゃ松虫鈴虫の行方を突き 隠 葉 めてくれと頼んだことは」 5 「・も , つよせ」 ぶつか くめ・キ一
「あ : : : ありがたい」ふたたび泣きふす手を取って、善信は膝を立てた。 「さ。ーーー師の上人におひきあわせ申そう」 十 導かれて行く縁を踏んで、四郎はその縁の下に忍び込んだ夜の念仏の声を思い出し 「しばらくそこに・ ・ : 」と、彼を次の部屋に待たせておいて、善信だけが奥の間へ入っ た。ややしばらくのあいだ、四郎はじっとそこに坐りこんでいた。と、やがて、 ふすまあ へだ 「入るがよい」と、隔ての襖が開いて善信の半身が見える。 四郎は、容易にそこへ入り得なかった。何か怖ろしい重圧をうける感じだった。ま いや心がいかにも見窶らしく思えて負け目を感じるらしいので た、自分のすがたが ある。 びせつ 「遠慮のう」これは善信と向い合っている眉雪の老僧のことばだった。はっと四郎は頭 花を下げてしまった。うつかりしていたがそれが法然上人であると気づいたからだった。 ヾ 0 ここでもう充分結構でございます」 隠 葉 「寒風が洩るーーー」と、善信がいって、 四「上人は、ちとお風邪のきみでいらっしやるのだ。おことばに甘えて」 みすば
128 しようしんばう 「裏方様ーーー裏方様」あわただしく、生信房は、こういって、草庵の縁から、奥へ告げ この岡崎の草庵へ新しく侍いて、 生信房というのは、つい先ごろーー去年の暮に しんしやみ 実直に働いている新沙弥であった。 たちい その実直ぶりや、起居のはやい様子だけを見ては、誰もその新沙弥がついさきの年ま で、世の人々から、魔か鬼かのように怖れられていた大盗天城四郎がその前身と思いっ く者はあるまい とく寺一のしろう 彼は、吉水の上人に、その前名である天城四郎とか、木賊四郎とかいう悪名を捧げて しまって、そのかわりに、信をもって生れかわるーーーという意をこめた「生信房」の名 をいただいたのである。上人は、その折、 「わしはもう老年であるから、そちに附随を申しつけて、永い先の道を手をとってやる うえん ことができない。善信はまだ年も若く、年来、そちとは有縁の間がら、また、師と頼ん でわしにもまさる人物であるゆえ、善信について、向後の導きと教えをうけたがよい」 母乳の香の庵 いおり あまぎの
つきのわこう 「この老年になってー・ーこのあるまじき世の態を見ようとは : : 」月輪公は老いた。 夜のうちに白髪になったかと思うばかりに。 こんどの大事変で いやそれより前からも心配は絶えない立場にあったがーーー誰」 ぜんこう りも悲しみ、そして誰よりも肉体へこたえたのは、月輪禅閤であったにちがいない。 きえ 帰依する上人に対して。また、愛しいわが娘の聟ーー善信に対して。 「 : : : 何たること ! 」老いの唇を噛みしめ、 「わしの身で代われるものなら」めったに嘆いたり狼狽えたりしない彼が、 「いても立ってもおられぬーーー」とさえロ走って、幾日かを、物狂わしげに悲しまれ一 いたという町の人々のうわさも、決して、誇張ではなかったろう。 せんげ くるま そしていよいよ宣下の日になると、彼は、老いの身を牛車に託して、 々 「吉水へ」と、命じた。 いぎようお、つじよう 吉水へ これが最後の彼の運びであった。ーー光明の道、易行往生の信をもって 花 あんたん めかるみ った道を、どうして、暗澹たる悲嘆の泥濘として踏まなければならないか、禅閤は、 、もう、人の世がいやになった」牛車の内で、つぶやいていた。 たのである。その結果、善信は死一等を減じられて、 おんる ( 越後国、国府へ遠流 ) と決まったのであった。 寺 ) ま くるま むこ うろた