彼女たち - みる会図書館


検索対象: 親鸞(三) (吉川英治歴史時代文庫)
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1. 親鸞(三) (吉川英治歴史時代文庫)

は、大きな体を部屋のまん中に横たえた。焦々とした眼を、開いたりふさいだりしてい 、どこかで、自分を責めたり、また惑ったり るのだった。さすが、愉央ではないらしい 怒ったりするものが、顔の皮膚をどす黒く濁していた。 ひたい ーー奥の棟 「酒を持ってこないか。おいっ : : : 酒を」と、呶鳴って、額へ手をあてた。 にいる妻だの子だのが、げらげらどこかで笑っているような声がする。むつくりと、彼 は起き上った。 「これ、誰か、山吹をさがしに行っておるのか ? 」 側女たちは顔を見あわせた。誰も黙りこんだまま答えずにいると、年景の額に、青筋 が膨れあがった。 あれ 「だまっているところを見ると、誰も、彼女の身を案じて、見に行った者はないのだ かきおき な。ーーー、・遺書をのこして、出て行った者を、おまえらは、笑って見ているのだな」 「どいつも、こいつも、なんという薄情な奴ばかりだ。山吹は、もう死んでいるかもし じもん れない」年景は、こううめいて、自悶に耐えられぬように、 「ーー・ああっ、彼女は、もう死んでいるかも知れない。おれは心から彼奴が憎いわけ ぎんそ じゃなかった。おまえらがなんのかのと讒訴をするので、おれも疑いの目で見初めたの

2. 親鸞(三) (吉川英治歴史時代文庫)

ためいき ( なぜ御所へなど上がったのか ) と、悔いの嘆息が出るのだった。 に。よしよう 町家にいたころは、御所の内裏といえば、どんなに典雅で平和で女性の幸福を集めて いるところかと、あこがれていたものである。 そして、そこの多くの女性のうちで せんぼう ちょうひ も最も羨望される寵妃となって、上皇の愛を賜うほどな身になった今日になってみれ ・あ - 一が ば、昔の憧れは、まことに幼稚な少女の夢にすぎなかった。 なるほど、身にだけは、珠をかざり、綾を着て、和歌や絵にある生活のままな姿はし きんてい ているが、上皇は、御政治のことさえ、今帝におまかせしきれないほど、御気質の烈し いお方であるので、後宮の彼女たちには、ロにも出せない気苦労がある。 その上に、寵妃たちを取り巻く、典侍とか、女官たちのあいだには、閥の争いだの、 ひね 意地わるい嫉視だのがあって、日蔭で冷ややかに歪くれた眼と眼が、絶えす、行儀作法 のろ の正しいなかで、根強い呪いと闘いを交わしているのが、ほとんど、明けても暮れても のことなのである。 うつむ 灯「ああ : : : 」松虫がこうつぶやくと、鈴虫も俯向いたまま、重い吐息をついて歩いた。 てんが

3. 親鸞(三) (吉川英治歴史時代文庫)

亠よオこ よくそ思い切って脱れてきたと、自分で自分の勇気を宥わるのであった。しいんと、 冬の夜は冴え返っている。眼を閉じて、捨ててきた過去の生活を考えると、よくも、そ こに長々といたものかなと今さらに思うのであった。 えんじ みえ あの嫉視と邪智の泥沼に。嘘と見栄だけにつつまれた臙脂地獄に 「も少しです、ご庵室は」 「い、ギ、オ ( しょ , つ」 「住蓮様は、おりましょ , つか」 松虫はまた、若い安楽房のすがたが、なぜか 鈴虫は、よく住蓮の名を口にする。 忘れ得なかった。 彼女たちは女である、彼らはまた、若い男性なのだ。こうして、生命がけで、御所を すてて逃げてきたのは、ただ仏陀だけが魅力だったとは思われない。やはり、恋にちが いないのだ。鈴虫は住蓮を、松虫は安楽房をあの専修念仏会のタベから忘れ得なくなっ から けれどそれは、醜い生活の殻から真実の生活 ていることは否めないことであった。 のりらいさん へ出ようとする真剣な願望に、仏陀をカとし、法の礼讃を明りとしてきたので、二人の 胸には、恋しつつ、恋とは自覚していないかもしれぬ。さればといって、まだ信仰と、 しうまでもなかろう。 うほどの開唐もないふたりであることは、、 のが

4. 親鸞(三) (吉川英治歴史時代文庫)

「なんの、お互いです」跛行をひいて歩く鈴虫の腕を抱えて、二人は糺の森をいそ」 たいまっ 樹蔭に入ると、真暗だった。いつもなら、松明にかこまれても怖くて通れそうもな」 かなた 道である。それが、少しも意識にならないばかりか、大きな光明が彼方に見える気持亠 らするのである。 かいなたす 友の腕を援けてやったり、凍てた大地に血をこばして歩くだけでも、二人は、何か 1 た ら充ち足りてくる生命のよろこびを感じるのだった。急激に生きている身であること 全身で知ってくるのだった。 森を出ると、狐色の枯れすすきに、細い月影が一すじの小道を見せている。道はだ / ししたに だん登りになる。やがて、鹿ヶ谷は近いのであった。 「ーーー誰も追ってきませんね」 「よいあんばいに 「ああ、ほっとしました」 「・も , っ挈、こが」 走「ええ、鹿ヶ谷です」顔を見あわせて、ほほ笑みを見あわせた。 。この夏の市 彼女たちはこの山を、半年のあいだどんなにあこがれていたか知れない わんぶつえ 脱 修念仏会の日からである。 5 「と , っと , つ、・米てしよいました。 : けれど、これでほんとの人間に生き甦った気がー み 力しオ かえ もり

5. 親鸞(三) (吉川英治歴史時代文庫)

妻 仏 夫「出せつ、今見ていた物を見せろっ」良人の怒号を浴びて、お吉は、紙のように白くわ ってしまった。 6 「かくしたなっ、何か」 しま , つ。 いびき 「そうだ : : こんな時に」彼女は、そっと奥をのぞいた。良人の鼾を聞きすまして、 女は、肌着の奥から何か大事そうに取り出した。 それはいっか稲田の親鸞上人が みよう′ ) う 彼女のために書いてくれた六文字の名号であった。お吉はそれを、良人の眼をしの′ で、小さな軸に仕立て、自分の心のまもりとして常に肌に秘めていた。 ふと、生きる力を失った時、ただ独りで泣きじゃくりたいような時ーー・お吉は名号 取り出して、それに掌をあわせる。すると、親鸞の慈悲にみちあふれた姿に会う心地 してくる。親鸞の手にみちびかれて、無碍光如来の膝近くへ連れてゆかれる心地がしイ くる・・ 今も、彼女はそれを思い出したのである。すると、かたと、奥の暗い中で物音がした ふところ ハッと心の騒ぐほうが先で、お吉は、あわてて名号を巻きもせずに懐中へかくした。 「何を見ていたっ」良人の平次郎が、いつの間にか恐ろしい形相を持って、後ろに立 ( ていたのだった。 て

6. 親鸞(三) (吉川英治歴史時代文庫)

「ああ : : : 」住蓮は、裏へ飛び出して、ややしばらく入って来なかった。安楽房も、こ わかあま の麗わしい若尼のすがたを正視しているにたえなかった。しかも、相抱いて、寒々と、 それをもうれしいほどな彼女た うれし泣きに泣いているふたりのすがたを見ては、 ちの過去の生活であったかと思った。 「御仏の道に生きまする」 「信仰に生きまする」そういって、彼女たちはもう、次の日から、柴を拾って、貧しい ぶつだ 炊ぎをしていた。いつ行っても、ただ一体の仏陀を壇において、その前で、念仏をとな えていた。 かわがわ 住蓮と、安楽房とは、交る交るそこへ彼女たちの不便な物を運んでやっていた。 すると、何時とはなく、こう二人の者の行動を知って、 ( はてな ? どこへ行くのか : : : ) と、眼をつけていた者がある。 吉水禅房や、岡崎を初め、あらゆる念仏門系の法壇のある所を、所きらわず歩きまわ はりまばう って、狩犬のような鼻を働かせていた播磨房弁円であった。 ほうえ あれほど、月々の法会や、念仏の唱導を、活漫にやっていた鹿ヶ谷の法勝寺が、近ご ろ、はたと戸をとざしている。住蓮か安楽房かが、病気のためだとは称しているが、弁 円は、そのうわさを麓で聞くと、すぐ ふもと ししたに

7. 親鸞(三) (吉川英治歴史時代文庫)

といわれた。 それ以来、彼は、岡崎の草庵へ来て、草庵の拭き掃除やら裏方の用やら、夜の番人宀 しもべ ら、なにくれとなく忠実に下僕の勤めをしていたのだった。 ( 狼が、良犬になったようなーーー ) と、彼の前身を知る者は、奇異な思いをして見て、 た。それほど生信房は、正しく生れかわっていた。 今度の吉水崩壊の大変を知ると、彼は、歯がみをして、くやしがった。それが かんき一く・ えいざん かねて弁円から聞いていることによって叡山の卑劣な奸策が大きな動因となっている ( をよく知っているからである。 ( この身一つを捨てる気で、叡山に火をつけてやろうか まえ などとロ走ったりすることもあったが、 裏方の玉日の前からたしなめられると、 ( はい、そんなことは誓っていたさないことに、仏様にも約束いたします ) と、素直〔 服従ーした。 へや みごも 玉日の前は、もう、前の年から妊娠っていて、彼女の室には、いつのまにか、珠のし やや 仏前に詣るにも、弟子と話すにも、南縁から、三 うな嬰児の泣き声がしていた。 庵六峰の雲をながめているにも、その膝には、母乳を恋う良人の分身をのせていた。 このところ、彼女は母乳が出ないので、悩んでいた。良人はどこへ行ってどうなっ そうじよう 乳いるのか。その消息はいっこうにわからない。騒擾のうちに、暗殺されたといううわ亠 ちまた さえ巷には飛んでいる。そんなことがないともいいきれない良人の身辺であり、またソ の烈しい強い性格を知っているだけに彼女は胸がいたむのであった。 おっと みなみえん

8. 親鸞(三) (吉川英治歴史時代文庫)

うに手をかけた。 「ギ、まを見ろツ」 と躍ってきて、後ろから振りかざしてきた平次郎の手斧は、彼女の肩骨から うなじ 頸へかけて、柱でもけずるように、びゅツ、とななめな光を描いた。 ひそう ! 」これがーー彼女が良人へ残して行った悲愴な終りの一声であった。そ れと共に、彼女のからだは、欄干からのめり落ちて、御堂の真下へもんどり打った。 ずうんーーーとその闇の下に、不気味な地ひびきを聞くと、 「斬ッたっ」平次郎は青白い笑みをゆがめて、さけんだ。 ちょうな 「キ、斬ッた : : 」手芹をだらんとぶらさげたまま、彼はよろりと御堂の扉へよりかか った。そして、しばらくは茫然と眸をひらいて白痴のような口を開いていたが、何か、 冷やっこいものが、額から顔へかけて、たらたらと流れているのに気づいて、 「血・ : : ・血だッ : 」掌で、彼は顔をこすった。 と、彼の酒気はすっかり醒めて ふる いたのである、ぶるるツと、背ばねから慄いを立てて、 「ーーオ、オ吉つ」と、うつろな声でよんだ。 仏急に、身の毛がよだってきたらしい。平次郎は、きよろきよろと鋭い眼を闇にくばっ ちょうな た。ーー手にさげている手斧の白い刃をながめた。 「あーっ、おれは」大変なことをしてしまったと彼は初めて気がついた。自分のすがた が自分の眼に見えてきたのである。 ひたい てのひら ちょうな

9. 親鸞(三) (吉川英治歴史時代文庫)

あしおと とーーーその大地を打って、ばたばたと追いかけてくる者の跫音がひびいてくる。お吉 はハッとしてまた起った。 起ち上がったが、 もう、肺はそれ以上に走ることに耐え なくなっていた。よろよろと蹌めいてしまう。 「待たねえかっ、畜生つ」平次郎の声だった、声までがもう夜叉の叫びのように物凄く しやがれているのである。 どうしよう」お吉は髪の根まで熱くなった。自 5 は喘れるし、助けを呼ぶにもこの 深夜に誰がいよう。 あしおと 彼女は前にはもう もう後ろから来る荒い跫音は、すぐ近くまで追いついてきた。 何も見えなくなっていた。真っ暗な足の先が、たとえ淵でも、崖でも、池でも、駈けず にはいられなかった。 ひとみ とーー彼女の眸のまえは、谷間の壁のような高い影に塞がれてしまった。お吉は、何 物かにつまずいた。手をついた触感で、それが階段であると分ると、再び無我夢中にそ れを駈けのばった。 一さ はず よろめく身を支える弾みに、なにか冷たい金属の肌が手にふれた。それは階段の上の ) ばうし 擬宝珠柱であった。 みどう ・ : オオ新しい御堂の縁」ほとんど無意識 「オオ、ここは柳島の御造営の伽藍じゃな。 みひさし に近いうちに彼女はふと仏のふところを思った。慈悲の御廂の下ならば、同じ死ぬにも 狂乱した良人の刃物で殺されるにしてもーー、、幾分かなぐさめられる心地がする。 よろ がらん ふち ふ一 やしゃ

10. 親鸞(三) (吉川英治歴史時代文庫)

ろ 54 て、とうとう死んでしまった。 それからであるーー平次郎の気が急に変ってしまったのは。 ( 神も、仏も、あるものか。あいつらあ、神とか仏とか、ありもしねえ嘘ッばちをいし 触らして、飯のたねに、食い歩く山師だ ) 仏壇も、神棚も、平次郎は川へ運んで行って流してしまった。 それからというものは、急に、酒は飲むし、飲めば酒乱になる。そして、仕事はろく ゆとり ばくち にせず、すこし余裕があれば、博奕、女狂い、喧嘩、手がつけられない人間になった。 お吉は、良人の気持を、無理もないと思って、初めは素直にしていたが、元より貧し い職人の世帯である。折にふれて何かいうと、平次郎は、ふた言めには、 ( 出て行けっ ) であった。彼女の体には、生傷がたえなかった。けれど、 ( 今に 今に、眼がさめる日も : : : ) と、お吉は、貞節を守りとおしてきた。なんと 怒られても、疑われても、彼女は、、いのうちに、じっと涙をのんできた。 それも久しい年月である。いちど毒をあおった良人は、このごろは、心までその毒に すさ まわされたように、直るどころか、いよいよ荒んでゆくばかりに見える。 他人の家庭を見ると、お吉はうらやましかった。誰も皆、生々と、楽しげに働いてい る、また、その人たちの生活を見ていると、働く暇には皆、近くの宮村にある上人の庵 室へ通って、一体になって、念仏をとなえていることがわかった。 ふと、彼女の真っ暗な胸へもー・ーその念仏の一声がながれ込んで、微かなる光のよう かよ かす