128 しようしんばう 「裏方様ーーー裏方様」あわただしく、生信房は、こういって、草庵の縁から、奥へ告げ この岡崎の草庵へ新しく侍いて、 生信房というのは、つい先ごろーー去年の暮に しんしやみ 実直に働いている新沙弥であった。 たちい その実直ぶりや、起居のはやい様子だけを見ては、誰もその新沙弥がついさきの年ま で、世の人々から、魔か鬼かのように怖れられていた大盗天城四郎がその前身と思いっ く者はあるまい とく寺一のしろう 彼は、吉水の上人に、その前名である天城四郎とか、木賊四郎とかいう悪名を捧げて しまって、そのかわりに、信をもって生れかわるーーーという意をこめた「生信房」の名 をいただいたのである。上人は、その折、 「わしはもう老年であるから、そちに附随を申しつけて、永い先の道を手をとってやる うえん ことができない。善信はまだ年も若く、年来、そちとは有縁の間がら、また、師と頼ん でわしにもまさる人物であるゆえ、善信について、向後の導きと教えをうけたがよい」 母乳の香の庵 いおり あまぎの
師は、 「呼べ」という。かくしていたことが、つい西仏のことばの端からわかったのである どんなお叱りをうけるか。弟子たちは、しいんと黙りこんで、にわかに起っ者もない 釜ロ信はかさねて、 っ , ) 0 「呼びなさい」と、 「は」もう否まれなかった。 じようそう ひとま 定相が立って、暗い一間の中へ入って行った。やがて、恐縮そうに教順が出てきた めの しおしお その後から、生信房は、布で巻いた額の傷口を抑えながら、悄々と出てきて、師のま 禿 に巫 ~ った うつむ 俯向いている。一同は、気の毒そうにその姿を見、また、きびしい師の面をそ ( 愚 と仰い そして次にいった。 「痛そうな」自然に師の唇から洩れた声であった。 へ、自身も出て来た。 禿 ひたい おもて
しなの き・ようげ この信農の教化 「聞けば、よほど宿縁のある地とみえる。ぜひ参らすばなるまい しやくりよ、っち も、後は、佐々木光実と釈了智の二人に頼んでおけばよかろう」親鸞は、央諾した。 そして、 、一うち - みひかり 「わしはまた、明日から、次の新しい荒地を耕やそう。仏の御光のとどかぬ所を、また っ その法悦を知らぬ衆生を導くのが、この愚禿にふさわしいお勤めでもある」と、 すぐその翌日だった。何という身軽さであろう、親鸞は、生信房を案内として、西 仏、光実、了智の五人づれで、もう角間の草庵を引き払い、みすずかる信濃を後に 浅間の煙のなびく碓氷の南へーーー峠を越えているのだった。 もっとも、佐々木光実と了智の兄弟は、碓氷峠のあたりまで見送って、元の地へ引っ っちか 返した。もちろん、親鸞によって開拓された信濃地方の帰依地をなお培い守るためであ る。 親鸞と生信房と西仏は、間もなく、常陸の下妻にわらじを解いた。 あかギ ) おおとね そしてこの地方の・ーー大利根のながれと、赤城おろしと、南は荒い海洋に接している しもうき一ギ、かい 下総境のーーー坂東平野をしすかにながめ、ここにまだ、文化のおくれている粗野な人清 と、仏縁のあさい飢えたる心の民衆を見出して、 ( われここに杖を立てん ) と、親鸞はひそかな誓いと覚悟とを抱いた。 下妻に、三月寺という、もう荒れ果てた廃寺があった。 、つす・い
152 内へお入りあそばして、生信房と一緒に、静かに念仏を申しましよう」手をとって、彼 じゃく もう大風の後のように寂として、どの は、涙の母と子を、庵のうちへ誘い入れた。 部屋も、空虚を思わせる岡崎の家だった。 四 輿には、墨黒々と、 だいじようかんぶ 太政官符越後流人 日野釜日信 と書いた札が打ってある。 善信は、その輿のうちに揺られていた。戛々と、おびただしい蹄の音や、草摺のひび きや、その人馬の足もとから揚るほこりにつつまれながら ( 玉日 : : : ) と、、いにさけび、さすがに、わが子の声が、まだ後ろに聞える心地がし て、幾たびか、岡崎の林を振りかえった。 きんさく 禁柵の外へ出ると、そこには、知縁の人々が、百人以上も待っていた。輿に添って来 た覚明や性善坊を介して、人々は、わっとむらがり寄って、 「善信御房つ」 「おすこやかに 「また来る時節をお待ちなされ」 いおり かっかっ ひづめ く、ずり
ふちん 御大赦の天恩が下ったと思えばこの悲報に、人々は、暗 ぞ、念仏門の浮沈、せつかく、 黒の中に迷う思いをしておりまする。おっかれもござりましようし、定めし、おカ落し でもございましようが、何とそ、一刻もはやく京都へお出まし下さいますよう、私から も、お願い申しまする。どうそ、皆様にも、ともども師の御房をお励まし下さって、お 急ぎ下さいますように」 が、親鸞は、 と、西仏、生信、光実、了智などの人たちへも顔を向けていった。 「いや : : : 」と、かすかに顔を横へ振って、こういった。 「小松谷のおわかれに、この法然の舌はたとえ八ッ裂きになるとも、念仏は止めまいと その京都に 仰せられたーーーあのお声は、もう二度と聞かれぬことになったのじゃ。 : ・ああ、深 何たのしみあって参ろうそ、この上は、親鸞はもう上洛をいたしませぬ。 うっしょ くて、うすい現世のご縁であった」 ざん きゅうよしみずぜんばう また、叡 大祖の法然上人が亡い後の旧吉水禅房の人々が、これからどううごくか 山やその他の旧教の徒が、それを機会にどう策動するか。 ふんらんちまた 親鸞は今、かなしさでいつばいである。さびしさで身も世もない。そういう紛乱の巷 わず のことを、思うてみるだけでも煩らわしかった。 みやこ といったことばは、彼の真実であった。ありの もう京都へ帰る張合いもない ごたいしゃ みやこ
和「たとえこの法然房が舌を抜かれ身を八ッ裂きの刑にせんと御命あっても、わしは念仏 しらぎくだら 1 ′、んぎよう 勤行を止めることはいたさぬ。よし新羅百済の海の果てへ流さるるも、死を賜うも、大 しようしやくそん ばんのうだいしゅじよう しよばさっ 聖釈尊をはじめ無量諸菩薩が、われら凡愚煩悩の大衆生のために、光と、証とを、こ いちぎよう こにそと立て置かれたもうた念仏の一行であるものを。ーー何そや、権力、詐謀、威 ま・ま だいごもんじよう まっさっ 嚇、さようなものでこれを阻め、その不滅の大御文章を、人類のうちから抹殺すること つば そちたちも、 などできようか。わろうべき人間の天に向ってする唾でしかない。 夢、法然が信をさまたげ給うな」 ほの明るいのは桜並木だ。咲いている花のうえには残月があっ 夜はまだ明けない やかた 「いそいで・・ーーー」と、月輪の館から、老公をのせて、ぐわらぐわらと曳き出した牛車の こみどう うしは、手綱に泡をふいて、小松谷の法勝寺小御堂へ駈けつけてゆく。 「待てつ」 まと 「どこへ行く」小御堂の近くへ来ると、小具足を纒った武者たちが、牛車のまえに立ち とが ふさがって咎めた。 かんぶ 通ること相ならん。官符を持ちおるかっ」老公は牛車の裡から、 「誰の御人数であるか」と、たずねた。武者の一人が、 くるまうち くるま あかし くるま
R していたのです。 それをふと見ましたとたんに、私は、はツと思って眼にながれこ む血も知らず、仰向けに倒れたまま、虚空をにらんで念仏をとなえておりました」 なんにもいわなかった。善信はただ黙然と聞き終って、 いった。師の房がなにもいわないに 「傷口に風を入れてはならぬ。大事にされよ」と、 しても、その夜の人々は、生信房の話を聞いて、大きな感激につつまれたらしい。みな ↓ノいけ , れ 敬虔な面持ちをたたえて、 「さ、お寝みなされたがよい」と、生信房をいたわった。 幾日かたっと、その傷口も癒え、体の熱もさがった。生信房は、はればれと床を出 て、あしたはまた、町へ布教に出たいなどと友と話していた。 「生信房どの、お師さまが、お呼びになっていますぞ」 「え、お部屋で」 「いや、あの岩にお腰をすえられて」 「あ : : : 」と、生信房は、庵室の裏のほうへ眼をやって笑った。師の房は、外で、初冬 の陽ざしを楽しんでいるのだった。 「およびですか」そこへ行くと、 「お掛け」と、気がるである、師の房の顔までが、きようは小春日の太陽のようにかが やす
外から帰ってきたらしい教順房の声が 「どなたか、急いで、水をくだされ、 たので、やっと抱えて戻ってきたのじゃ。 教順房の声なのである。 何事かと驚いて、人々が出てみると、その教順房と共に托鉢に出た生信房が、どうし えんばた たのか、両手で顔をおさえたまま、友の脇に抱えられて、よろよろと、縁端へ来て、俯 伏した。 「あっ、どうなされたっ、生信房どの」人々が、騒ぎ立てると、 「しつ・ : ・ : 静かにしてくれ。 : : : 師の房のお耳に入る、 : : : 静かに」と、生信房は、血 しおで真っ赤になった手を振って、またそこへ俯伏してしまう。 のりと」も こなゆき 「生信房どの、水をおあがりなさい」取り囲んでいたわる法の友たちの背へ、粉雪が、 さやさやと光って降りそそいでいる。ある者は、薬をさがし、ある者は布を裂いて、彼 ひたい の額の血しおを拭いてやる。 「ひどい傷だ 一体これはどうなされたのです」 「な、なに : : : 大したことはありません。戻る途中、滑川の崖で転んで、石で打ったの すすぎ 洗足ではない、生信房どのが、怪我をなされ はやく一口、水をあげて下されい」 なめりがわ めの うつ
ひたち また常陸の下妻という土地には、そのほかにも念仏宗には浅からぬ縁故がある。 うつのみやよりつ ほうねん それは、親鸞の同門のーー法然上人随身のひとりである熊谷蓮生房の親友宇都宮頼 そしてその頼綱はまた、蓮生房のすすめで、早くか もその地方の豪族であった。 じっしんばう 念仏一道に帰依して、名も実心房といっている。 かさまながとのかみときとも いなたくろうよりしげ なお、その実心房以外に、稲田九郎頼重とか、笠間長門守時朝などという関東の武 において名のある人々のうちにも、吉水禅房の帰依者が少なくないので、 うとくしゃ しようしんばう ( そのむかしの天城四郎が、今では生信房といって、親鸞門下の有徳者になっている みんかん という評判は、民間ばかりではなく、そうした上級にまで、大きな感動を与えながら冖 わった。その結果、 ひたち ( ぜひとも、親鸞上人を、この常陸へお迎え申したい ) という希望が、声となり、運 となって、やがてついに実現せずにいられなくなったのである。 生信房は、真壁の代官小島武弘から旨をうけて、 しよう 「ぜひ、上人をお請じ申しあげてこいと、以上のような縁故から、わたくしがお迎え ( しゅじト ` う ため、その使いをいいつけられて来たのでございます : : : 何とそ東国の衆生のために 華常陸へ御布教を賜わりますように」と、親鸞に会って告げた。 親鸞は、その機縁に対して、感謝した。また、そのむかしは郷里からも肉親からも 第 しだん あくだ 悪蛇のように指弾されていた生信房に、そういう余徳が身についてきたことを、どん宀 8 にか , つれしく田 5 った。
「 : : : あれつ、あの棟の奥の部屋に、まだ一人、逃げおくれた和子が、母の名を呼んで ・ゞ和「すよ , っ : ど , っしょ , っそ : ・ : ご和子がよ , つつ・ います。あれ、影が見えるつ : たもと 半狂乱になっている彼女なのである、乳ぶさの子も、袂にしがみついている子たちも、 ぐれん みな振りすてて一人の子を救うために、紅蓮のうちへ駈けこみそうにも見える血相だっ 「だいじようぶです」生信房は、彼女の肩をつかまえていった。 い。私が、抱いてきてあげる」ことばと共 「あの棟にはまだ、火がまわっていないらし 、生信房は、焔のうちへすすんで行った。年景の妻は、 みほとけ 「おおつ、御仏つ」泣いてさけんだ、焔へ向っても狂わしいほど感謝した。まったく、 かっこうだいぐれん 赫光の大紅蓮のうちに見える生信房の男々しい働きは、生ける御仏としか見えなかった。 おさなご ころも みつつ やがて、生信房は、法衣のすそも袂も隹 . された姿で、三歳ばかりの幼子を引っ抱え ななっ て駈け戻ってきた。その上に彼はまた、ほかの七歳ばかりの子を背中に負い 「さつ、早く」と、以前の大樹の下までのがれてきた。年景の妻は、 」と、手をあわせた。子たちは、 「忘れませぬ、忘れませぬ、死んでもこのご恩は まだ泣いていた。 ととき一ま 「父様あ」 とと とと 「父は : : : 父は : : 」いじらしいほど、小さい瞳に真剣をもって探しまわる。そこへま た、西仏のすがたが見えた。西仏に聞けば、萩原年景は、生信房が奥の家族を救いに行 さいぶつ た も お