ひたち また常陸の下妻という土地には、そのほかにも念仏宗には浅からぬ縁故がある。 うつのみやよりつ ほうねん それは、親鸞の同門のーー法然上人随身のひとりである熊谷蓮生房の親友宇都宮頼 そしてその頼綱はまた、蓮生房のすすめで、早くか もその地方の豪族であった。 じっしんばう 念仏一道に帰依して、名も実心房といっている。 かさまながとのかみときとも いなたくろうよりしげ なお、その実心房以外に、稲田九郎頼重とか、笠間長門守時朝などという関東の武 において名のある人々のうちにも、吉水禅房の帰依者が少なくないので、 うとくしゃ しようしんばう ( そのむかしの天城四郎が、今では生信房といって、親鸞門下の有徳者になっている みんかん という評判は、民間ばかりではなく、そうした上級にまで、大きな感動を与えながら冖 わった。その結果、 ひたち ( ぜひとも、親鸞上人を、この常陸へお迎え申したい ) という希望が、声となり、運 となって、やがてついに実現せずにいられなくなったのである。 生信房は、真壁の代官小島武弘から旨をうけて、 しよう 「ぜひ、上人をお請じ申しあげてこいと、以上のような縁故から、わたくしがお迎え ( しゅじト ` う ため、その使いをいいつけられて来たのでございます : : : 何とそ東国の衆生のために 華常陸へ御布教を賜わりますように」と、親鸞に会って告げた。 親鸞は、その機縁に対して、感謝した。また、そのむかしは郷里からも肉親からも 第 しだん あくだ 悪蛇のように指弾されていた生信房に、そういう余徳が身についてきたことを、どん宀 8 にか , つれしく田 5 った。
あとさき やろうにと、ことば甘くいわれましたので、後前の考えもなく年景について参りまし すまい ところが来てみると、年景には、妻子もあるばかりか、国府の住居には、幾人 ちょう もの側女がいて、その人々が、めいめい、年景の寵を争うので、嫉みぶかい女同士の争 いが、絶えたこともございませぬ」 じゅそ 「旱、 , つか : : 」親鸞は、領民たちの呪詛の声と、年景の生活のさまとを思いうかべて、 うなすいた。 いくとせ すべ 「ーーでも、この遠い国へ来ては、どうする術もございません。幾年かを忍んで参りま した。けれど、忍ぶにも忍べない日がついに参りました。年景は、わたしに飽いて、酷 くあたります、ほかの側女たちも手をたたいて事毎に告げロする。あろうことかあるま くもた こびと いことか、年景の召使で、蜘蛛太という侏儒と、わたくしが、不義をしているなどと云 いふらすではございませぬか」 「蜘蛛太 ? 」と親鸞は小首をかしげた。 「お上人様など、ご存じある者ではございません。その侏儒の蜘蛛太という者は、わた くしが京の六条にいたころから、よく町をうろついていた者で、主人を失って、路頭に 迷っているので年景にたのんで、その越路へ来る折、雇い入れてもらった男なのでござ います。 ですから、蜘蛛太は、わたくしには親切にしてくれます、共に泣いたり心 配してくれます。それがかえって悪かったので、あらぬ噂を立てられたのでございます が、気だてこそ、そんな可愛い所のある人でも、顔はおどけているし、背は四尺ぐらい - 一び - と そね ひど
だが、「親鸞とその妻」「親鸞」というふうに、徐々に祖師そのものに接近。丹羽自身も、べつに親 ・ 4 鸞をひいきにしているわけではないが、「歎異抄」の文句がいっしかずしりと胸にひびき、「人間の 正体」を正しくつかんでいた親鸞にひかれはじめ、それに精一杯の力を注入する。決して良妻賢母 ではなかった、いわば煩悩の徒であった、愚かしい母。その母の死に逢い、「自分の欲望のまま」 「おろかしくも生き」た母は、「結局、とりもなおさす私」だった、というつきつめた認識から、丹 羽の親鸞への関、いは、まさにわがこととして強く意識されていく。 吉川親鸞の場合、やはり口マンの構築、という衝動が下地にあって、「宮本武蔵」とときをほば 同じくして、結局のところ、主要テーマの中枢は同根、というかたちで描ききった。自己のへその 緒という点では、丹羽親鸞のほうが切実であるが、吉川親鸞も、親鸞に託しておのれを語る、とい うところが「宮本武蔵」と同じくあったと思う。その点では、約三十年を隔てての作品ではある が、帰着するところでは同一という気もする。丹羽はくりかえし、親鸞にひかれるのは、その思想 によるのではなく、「私達と同じ人間的なおろかなことを経験」しつつ、「あそこに達した」点にあ る、と力説している。吉川英治は、「宮本武蔵」に全力投球しつつ、それにあわせて「親鸞」を書 いているので、丹羽文雄の場合とモチーフも作家根性も質を異にするが、倉田百三時代に提出し た、あまりにも真摯な、息苦しいかたちではなく、むしろ人間の匂いにみちみちた、修羅場の親鸞 を、「御伝鈔」にもとづきつつ書きあげたのである。従ってある意味では丹羽親鸞に近い要素を随
やはり凡人ならざる親鸞がここになまなましく登場する。京都という場所もいつもの吉川流に流 ちよりつ いまその場所にみずからも佇立しているかのように巧みに編み出される。それそれの副人」 も、これまたいつもの吉川流に巧みに処理されている。「宮本武蔵」にお通や又八やお杉婆さん ~ 朱実を導入することによって、いかに作品が驂り深く、ふくらみを持っていることか。「親鸞」 , しても、ことは同じように運ばれている。そういう点は、私たちが少年時代に愛読した「神州天甬 侠」以来、吉川文学は、規模雄大な構想、ゆるぎのない構成をつねに持つ。その大きな構想や緊 ~ な構成は、小道具一つに至るまで的確な計算のもとに細部が充足されている。そうすることで決、 とら ロマンの構築がキチンとなされる。「親鸞」もそういうものの一つと見な亠 て張子の虎ではない、 ことが出来る。親鸞の自己形成物語、それは克己と寛容を内に秘めつつ、きびしく、しかしおお ( 嫡 正かに、悠々と展開する。「宮本武蔵」ほどの、その折、その折におけるヤマバにはいささか欠け の つよ 学 が ( それ故にしばしば映画化されるということもなかったが ) 、そのかわり、静かに、勁い親鸞 文 宗心理はダイナミックに描かれている。耐える強さは、一筋の途をひた走りつつ、得恋に至る。 期 正 吉川親鸞の出現以降は、しばらくの間は親鸞を扱った小説が出なかった。それだけ吉川親鸞の」 大 説っ力が強かったのであろう。しかし吉川親鸞に対して、丹羽親鸞がついに出現した。元来が浄土古 解 宗の家に生れた丹羽文雄であったが、また母にまつわる話、父にまつわる話を多く手がけてきた いわばおのれの生家との縁を断ち切ろうとしつつも、断ち切れず、そこにもど 0 てしまう丹羽文 ~
しゅじよう がらん 「招いても、縁のない衆生さえあるに、この伽藍の造営に、柱の穴一つ穿った者でも、 わしの眼から見ると、まことに浅からぬ仏縁のある者」 ・一くしゅ 「悪を懲らし、罰を明らかにせねば国守の法も立ちませぬ」 - 一うてい 「ごもっともでござる」親鸞は、国時のことばを大きく肯定しながら、すぐにまた、 「しかし、国法のこころは、人を罰するをもって、最高なりとはせぬものでおざる、罰 ともがらまこと 法は元、それによって、兇悪の徒も真の道に生き直るための罰でなければなりませ みどう ん。 この御堂が、真の生きた、伽藍であるならば、此堂をめぐって、造営に働く人 - ) - 1 ろ ひかり みだ たちも、いっか必す仏縁のご庇護によって、精神のうちに、弥陀の慈光をうけねばなら ぬはすと存じます。 : : : 宥しておやりなされ、親鸞に免じて、お聞き届け願わしゅうご ざる」 : 」国時は、考えこんだまま、即答を与えなかった。親鸞は、足を運びかけ て、 「では、大内殿。旅の支度もあるで、わしは、今日はこれで戻ります」 「お戻りか」国時は、顔を上げて、五、六歩親鸞のあとに尾いて送って行きながら、 ゆる 「ただ今のおことばによって、今日の罪人は、宥してつかわすことにいたしまする」と いった。親鸞は、自分のことのように、 かしら 「かたじけない」と、足を止めて、国時へ向って頭を下げた。 親鸞が戻って行くと、間もなく、城主の国時も館へ帰って行った。 まこと ゆる と っ
き届けて下さろう。思えば得難い生を同じ時にうけ、得難い明師におれはめぐり会った のだ。 親鸞どの」と、弁円は大地に膝を改めて、両手をついた。 「今日から、この弁円を、どうか御弟子の端になりと、加えてくだされまいか 0 やと仰せあっても、おれはすがりつく、しがみつく : それよりほかに、弁円の生き る道は見あたらない。お願い申しあげる、お聞き下されい」真実の声だった。 親鸞は、かろく、顔を横に振ってみせ、 じゃくねん 「いやいや、おことばが違う。 若年のころは知らす、近ごろに至って、親鸞がひそ くとく かに思うに、この愚禿が、人に何を教えてか、弟子を持つなどといわれるより、それゆ によらい えに親鸞は一人の弟子も持たぬ者と思いおります。身のそばにいる人々は、みな如来の ど、つぎよう 御弟子、本願の同行」 「オオ」飛び退って、 「そのおことば : ・・ : そのおことばこそ・・・・ : 」 弁円は、掌を合せて、いつまでも身を伏していたが、やがて、兜巾や戒刀を身から取 り除けて、 「この場を去らず」と、頑固な意志を示して誓った。 だが、親鸞は、その手をすく い取って、 「まあ、部屋へござれ。四方の話、越し方の訪れ、語り明かそうほどにのーー」 おきな そして奥へ向って、親鸞は、ただの百姓家の翁のように、無造作に呶鳴った。 て し一 みでし しよう ときん
「どこだどこだ」わめき合った。 弁円はこなたからその様子を見て、さては、矢にも及ばなかったかと半弓を投げすて て、そこへ駈けつけた。 。こが、しからぬことには、彼がそこまで来る間にも、まだ一の手の者、二の手の 者、すべてが一致を欠いて、林の中へ入ったり、崖を登ってみたり、谷間を探したり、 ただうろついているに過ぎないのである。 親鸞は、親鸞は」 「たわけ者めが、なにを猶予しているのだ。 「さがして居申す」 「ばかつ。逃がしたのか」 「ではどうしたのだ。先に、起ち上がったのは誰だ」 「甲賀坊でござる」 「甲賀坊、親鸞を見たのか」 「見ました」 五 「ーー・見たというても、その親鸞の姿がどこにも見えぬのは何としたものだ」 「いや、たしかに」
229 憂春 のち 「いやいやここへ移ったのは後のことで、それまでの竹内のお住居は、物乞いの寝小屋 のような物でございました」 「お師さまは、 ) ・在宀至でいらっしゃいましょ , つか」 すす 「おられまする。 : さ、こちらで足をお洗ぎなさいませ」声を聞いて、親鸞は自分の へや 室から縁へ出てきた。二人が流れへ寄って足を洗っている様子をだまって見ていたので ある。 かしず 万野は、玉日の前が未婚のころから侍いていた忠実な侍女であったーーー親鸞のまだ若 い日の事どもを何かとよく知っている女であった。 「 : : : 万野も老けてきたことよ」と、親鸞はふと自分の若い日を胸に忍び浮べた。万野 はふと振りかえって、 「まあ ! 」と、親鸞のすがたを見あげた。そしてなっかしげに、 「お変りものう」と、走り寄った。すぐ語尾は涙にかすれてしまうのであった。親鸞は 手を取って、 はるばると、この遠国へ、さてもよう参ったのう。疲れたことであろう、ともあ れ、体をやすめたがよい」と何も問わずに、ふたりの労をいたわった。 四 室は明るかった。
疑っても疑いようのない事実が、麓から弁円の前へ、次々に注進された。 どうして、水も漏らさぬこの備えを潜り抜けたか、この板敷山の嶮を無難に通って行 ったか ? 親鸞がすでに稲田の草庵に帰り 弁円を初め、山伏たちには、不審でならなかったが、 着いているという事実はもう動かせない 明「やはり、あの僧には、ふしぎな霊覚があるのではないか」 じゅさっ 雀「こっちで、法力をもってすれば、親鸞も法力をもって覚り、こっちで呪殺の縄を張れ じゅ ば、彼も破邪の呪を行って、吾々の眼をくらましたに違いない」山伏たちは、今日の失 敗を招いたことから、かえって親鸞に対する恐怖と畏敬を高めてしまった。やはり彼は 「残念です」 「ゾ」 , っしたと」 ふもと こ、稲田の庵室へ 「ただ今、麓からの報らせです。親鸞と生信房のふたりは、もう疾くし 立ち帰って、弟子どもや妻子と和やかに笑いさざめいているとのこと。 ) く こや谷道の幾重もの柵は、何に備えていたのでござるか」 ま、一と 「げツ、親鸞は、もう稲田へ帰っていると : : : そ、それは真か」弁円は、信じられない ような顔をしていった。 し なご 一と と
所にはらんでいる。ただくりかえしいうようだが、丹羽の場合、おのれの母の死の直接的てりかえ し、として提出しているので、それだけへその緒の緊縛力は強、。 ほてん 吉川英治の「親鸞」は、「宮本武蔵」の補填作業のようなところもあった。しかしその補填は、 決して従属的なものではなく、彼の抱く一種の理想主義、それは挫折に傷つきながらも、なお人間 ゅうぜん 的、人生的向上を求めて止まない向日的意志、それをつねに核としつつ、おのれのペースで悠然と 長編を書きつづける。従って補填というより、競いあう位置を占めているもの、と私はとらえた 倉田百三の「出家とその弟子」、吉川英治の「親鸞」、丹羽文雄の「親鸞」、これでもう親鸞を描 、くら発想、角度、視点を変えてみても、この三作の く作家はあるいは出て来ないかも知れない。し 嫡 なかにほとんど出つくしているといってよい。「宮本武蔵」の場合は、発想、角度、視点、を変え の 。し力ない。つまり 学れば、また別の武蔵ものがいくつも出てくる。しかし「親鸞」の場合は、そうま、 宗そういうおのれに密着した、強い、テコでも動かぬ、なにものかがこの三作にはたしかにある。 期 正 大 説 解 0 ・ 4