良人の酔いは、もう充分の度を超えているし、あしたの仕事に出る体のためにも気。 ( かわれたので、 「お酒はもうございませぬ、それよりも、もうお寝みなさいませ」臥床へ夜具をしき、 けると、その顔をかすめて、いきなり一枚の小皿が飛んできた。小皿は、幸いに彼女 ( 顔へはあたらなかったが、うしろの壁へぶつかって、烈しい音と共に、粉になって砕」 「この嘘つきめ」と、平次郎は険しい顔を向けてわめいた。 お吉は、何を怒られたのかちょっとわからなかった。その、呆っ気にとられたよう 4 顔がまた、酒乱の良人の気持をさらに隹 . だてたものらしく、 仏「たった今、いくらでも酒は買ってあるから安心して飲めと吐かしやがって、もう無豸 夫 とは、なんのいい草だ」突っ立ってくると、何を云いわけする間もなかった。もっし きょ , つばうへき も、こんな場合、云いわけをすることは、よけいに良人の兇暴癖を募らせるものであプ こともお吉はよく知っている。 お寝みなさいませ」 「この横着者め、おれを寝かせて、てめえも早く楽をしてえのだろう。 くらも飲んじゃいねえ、もう少し燗けてこい」 ふしど : ま、まだ」
71 葉隠れの花 あくび 「う、あ、ワあ・・ : : 」と、欠伸をする。 また、用ありげに、僧房の中を、うろうろ歩き廻った。わざと、道をまちがえた振〔 をして、台所のほうへまで、歩いて行った。 「いねえな。どう嗅いでも、ここには女のにおいがしねえわい。やはり、吉水には匿」 れていねえとみえる」彼は、弁円のことばが、腹立たしくなって、 「あの野郎、とんだ無駄骨をさせやがった : : 」と、限んだ。 みき 見限りをつけて帰ろうと思ったが、禅房の門まで人がいつばいなのである。それに けだる 何となく気懶くもあったので、彼はまた、人混みの中に坐り込んで、ケロリとした顔 していた。 ほうねんもん しわぶき 法然門の人々が出て、代る代るに、念仏門の教えを説いている。聴者は、咳声もし 4 いで熱心に聞き入っていた。四郎は、そういう人々を見まわして、 「何がいったい面白くて ? 」と、不思議な顔をした。 そのうちに、彼は眠くなってしまった。南縁の猫のように、眼を細め、涎をなが 1 て、こくりこくり居眠り始めた。 時々、はっと、自分の居眠りに気づいて、四郎は赤い眼をあいた。そして、さすが」 少し間のわるい顔をしながら、まわりの聴衆を見まわした。 よだれ
、聴衆は、水を打ったように静かな空気を守りつづけ、眼も、耳も、全身をもっ て、法話の壇のはうへ向けていた。一人として、そこに居眠っている四郎の様子などに 気を散らしている者はない。 「ホ ? : 」仏教の話などには、何の感興も持たないはずの四郎が、その時、やや眸 をあらためて、前の者の肩越しに、壇のほうへ、大きな眼をみはった。 ・ : 」思わずつぶやいたので、そばの者が、ふと彼の顔を見た。 「釜ロ信だ : 四郎は、下を向いた。てれ隠しに顔を撫でる。 聞くともなく、善信の声が耳へ流れこんでくる。覚えのある声だ。 ( しばらくぶりだな ) と、思う。 おんと 壇の上に立って、岡崎の善信は今、低い音吐のうちに何か力強いものを打ちこめて、 じゅんじゅん 諄々と、人々と、人々のたましいへ自己のたましいから一一 = ロ葉を吐いているのだった。 めつきり体が弱くなって、法然上人が人々へ顔を見せることができない日でも、 ( オオ、善信様が ) と、彼のすがたを仰ぐと、聴衆はそれだけでも満足するのだった。 * ずいき 随喜して、もうロのうちの念仏に素直な心を示すのだった。 に . わも その善信が、かなり長い時間にわたって、庭面の暮れるのもわすれて、自己の信念を 説き聞かせていると、人々は、いっか、涙をながして、 ( おれは間違っていた ) ( 生き直ろう )
どこか遠くの方で、嬰児の泣く声がする。平次郎は、夜具の中で、ふと、数年前に死 んだお吉と自分との間にできたーーー亡き児の声を思い出した。 「 : : : 似ている」彼はそっとした。 ちょうな 嬰児の泣き声は、地の底からするように聞えた。 また、ともすると、手斧の刃 で、ばんと、後頭部を一撃に斬って殺したお吉の亡霊が、血みどろな顔をして、自分と 共に、この家に帰ってきているような気がしてならない。 ( ーーーゆるしてくれ ) 必死に叫んだと思ったら、それは夢だった。 びっしよりと冷 こわ たい汗の中に身は硬ばって眠っている。 なきつま 死んだ児の泣き声ーーー亡妻のうらめしげな顔ーーー火の車、地獄、鬼、赤い火、青い 火。 まぶた ゆきき 怖ろしい幻覚ばかりが、眼がさめても、瞼の前を往来している。がたがたと骨ぶしが ふるえる。夜の明けるのが、刻々と、待ちどおしい 「おツ」ふと寝床から顔を上げると、窓の破れ戸の隙間が赤く見えた。日の出だ、と彼 は救われたように飛び起きた。そしてガラリと戸を開けてみたのである。 そうぎよう 「ーーーあっ」だが、空はまだ真っ暗だった。そして彼方の原を、十二、三名の僧形の人 たいまっ ほのお 影が、おのおの、真っ赤な焔をかざしてーーーそれはもちろん松明であるがーー粛々と無 あか′、 あなた
た、物いえば烈々と人を圧しる唇あり、起てば、群小を睥睨する威風があった。 けれど今のすがたには、そんな烈しい強いものは微塵もない これは、弁円にして初 まつまろ めて思い出される記憶であった。 今の親鸞の和やかな顔は、十八公麿と呼ばれてい おさながお たころの幼顔にそっくりである。四十を超えてからの親鸞は、いつの間にか幼少の顔の ほうへ近くなっていたものと見える。 あやま 「ーーーああっ、おれは過っていた」ぐわらりと、大地に地ひびきさせて、弁円は坐って 両手で顔を蔽うてさけんだ。 かたき 「 : : : 不覚不覚、一生の不覚だった。何十年のあいだ、おん身を敵と見ていたのは、こ の弁円の心に棲んでいた魔のしわざ。 ・ : ああ返らぬ年月を仇に送った、四十年を空し く迷路にさまよってきた」 さんぜん 憤怒の眼に血ばしっていたものは、潸然と下る涙に変った。 慈悲温光のなごやかな眸を、じっとそれへ向けていた親鸞は、 しゅげんつかさ 「どうなされた弁円どの、おん身が佐竹侯に迎えられ、修験の司としてこの地方へ下ら れていると聞き、いっかは折を得て、ゆるりと話したいと思うていたが、つい機縁もの おさながお いくっ う打ち過ぎてあった。 : だが、ようそござった、幼顔はお互いに幾歳になっても忘れ ぬもの、なっかしゃ : : : ご無事で在したの」そういう彼の言葉には、少しも策とか上手 おお おわ
レ , っこ。 燃えるだけのものを、弁円は今、五臓から四肢全体に燃やしきっていた。毛の一す〔 まで、針のごとくさせて汗をふき、内面の毒炎を、湯気のように立てていた。 「ウウーム」爪を怒らせて迫った猛虎が、はたと、何かにためらって、その飛躍を遮《 れているように、弁円は、いたすらに自分の威嚇に持ち疲れてきた。 この一瞬、弁円の眼に映っている親鸞は、まったく、常々彼が思い憎んでいた親鸞一 はなかったのである。彼の憎悪は、とたんに鉾を鈍らせてしまったのである。 じゅだん 、ちしちにち た じゅねん 板敷山の呪壇に、一七日のあいだ、護摩を焚き、呪念をこらして、眼に描きだして、 おんてき のろ た怨敵親鸞は、さながら自分を呪う悪鬼とばかり見えていたがーーー今、眼のまえにあフ によばさっ 親鸞を仰げば、三十二相円満な如菩薩の笑顔そのままではないか。 カカと 弁円は、踏みしめている踵の裏から、だんだんに力の抜けてゆく自分をどうしよう 7 ュな、かつわ」。 みうち ぶっし 彼も、仏者である、聖護院の御内に僧籍のある仏子である。菩薩の顔と、邪人の と、見わけのつかない人間ではない。 なんで親鸞は前からこんなよい顔を備えて」 たろうか。このほは笑みが一体人間のものだろうか。彼の殺意は、だんだんに冷えて っこ。 みやこちまた 「 : : : ああ : : : 」思わずうめいたものである。 京都の巷で見たころの親鸞の顔」 は、もっと険しいものがあった、勝ち気があった、世に負けまいとする鋭い眼があ えがお さえギ
めを止めた者がございます。見ると、それがうわさに聞く代官の萩原年景であったと しゅうそう えます、馬上からはったと私を睨めつけ、 これッ囚僧 , そうです囚僧と呼” のでした。聞けよ、そちは都にて邪教をいいふらし、罪を得てこの北国に流されたも ( ではないか 。しかるに、それにもなお懲りず、この地へ来てまでも、なお邪教を道へ おうと こうといたすか、代官をおそれぬ致しかたである、かような物など見るも嘔吐が催十 と、そう罵りまして、私が、松の木にかけておいた御名号を、いきなり鞍のうえ ら手をのばして、かようこ、ー し弖きむしッて : : : 勿体ない : : だ、大地へ」いっか自分 話に自分でつり込まれて、生信房の顔には、大粒のなみだがばろばろとながれていた。 はっと、気づいて、彼はあわてて法衣のたもとで顔を拭いた。 私は、ほかの物とはちがいますので、やおれ待ち給え、と立ち塞がって、その調 暴を止めようとしたのです。 とたんに、蹴仆されていました。アッと、自分の額〕 手をやった時には、黒い血が、顔を染めていたのでございます。 馬のひづめで、 こかを蹴られた上、鞭で、二つほど打たれたとみえます」 なまつば : 」傷ましげに、人々は、生唾をのんだ。しいんと、声もないうちに。と、 禿 信房は、くわっと大きな眼を一方に向け、 「おのれツー わたくしはそう叫びました。以前は天城四郎である私です。むに ねじ むらっと起てば、代官の素ッ首ぐらいは、すぐ引ン捻ってしまったでしよう。 が、そのとき、ふと見ると御名号は彼の手に奪られずに、まだ松の幹に、風にヒラヒ一「 ののし いた むち ころも けたお ひ ふさ
囲で、 「お上人様、なぜ柿岡へゆくことを、承知してやったのでございますか」 「なんとかいって、後からでも、お断りなされたほうがようございます」と、不安に満 ちた眼をしていった。 親鸞は、顔を振って、 「なんの、ああいう頼みでは、千里の旅でも、断れぬ。 あなた方はまた、なんでわ しを止めなさるのか」 くち′ ) も 「でも : : 」と、ロ籠っていたが、顔を見あわせた後、一人が膝をすすめて言った。 「お上人様のお命を狙っている者がござりますでな。 : ご油断はなりませぬそ」 いのち 「ほう、わしの生命を」親鸞は、もの珍らしいことでも聞くように、微笑をうかべて、 こうべ 「それは何かの間違いでおざろう。この愚禿の頭など狙ったとて、なんの手柄になるも のそ」 「いえ」と、その時まで、黙っていた蓮位が、今度は、村の者たちに代って膝をすすめ まこと と 「お師さま、その噂は、真らしゅうございます。私も疾うから耳にしておりましたが、 むやく 近ごろは、。 こ遠方へお出ましもなく、また御気色を損じることも無益と考えて今日まで れんい みけしき
2 「 , ーー鈴虫様、これからどこへ行きますか」 : どこでも」 ひ 「御所へ帰るのは、まだ早いし : : 」と、焦げるような空の陽を仰いで、 とき 「なんだか、少しの刻でも、惜しい気がしますものね」 「せつかく、きよう一日、お暇をいただいたのですから、日いつばい、歩けるだけ、歩 うすものかずき いてみようではありませんか」年下の鈴虫は、そういって、羅の被衣に、埈まじり みち の風をなぶらせながら、子供つばく、走ってみたり、道ばたの清水を、手で掬ってみた 「おお冷たい ! 」そして 「飲めないかしら ? 」と、愛くるしい首をかしげて、友を見た。 「ホホホホ。誰も見ていないから、どんなことして飲んでも、笑う人はありませんよ」 松虫がいうと、 しずく 「じゃあ」と、鈴虫は、手でそれを掬って、唇から顔を、雫で濡らし、その顔を、被衣 の端で拭いた。 * きんり こうきゅう そんなことが、二人には、わけもなく楽しかった。御所の日常がーー禁裡の後宮生活 ふんしよくか というものがーーーまったく儀式化され、粉飾化され、そこに生きるものは、ただ、美し いとま すく
は、大きな体を部屋のまん中に横たえた。焦々とした眼を、開いたりふさいだりしてい 、どこかで、自分を責めたり、また惑ったり るのだった。さすが、愉央ではないらしい 怒ったりするものが、顔の皮膚をどす黒く濁していた。 ひたい ーー奥の棟 「酒を持ってこないか。おいっ : : : 酒を」と、呶鳴って、額へ手をあてた。 にいる妻だの子だのが、げらげらどこかで笑っているような声がする。むつくりと、彼 は起き上った。 「これ、誰か、山吹をさがしに行っておるのか ? 」 側女たちは顔を見あわせた。誰も黙りこんだまま答えずにいると、年景の額に、青筋 が膨れあがった。 あれ 「だまっているところを見ると、誰も、彼女の身を案じて、見に行った者はないのだ かきおき な。ーーー、・遺書をのこして、出て行った者を、おまえらは、笑って見ているのだな」 「どいつも、こいつも、なんという薄情な奴ばかりだ。山吹は、もう死んでいるかもし じもん れない」年景は、こううめいて、自悶に耐えられぬように、 「ーー・ああっ、彼女は、もう死んでいるかも知れない。おれは心から彼奴が憎いわけ ぎんそ じゃなかった。おまえらがなんのかのと讒訴をするので、おれも疑いの目で見初めたの