勢 8 ねんあ 「おい、おまえたち、そんな所へ寄って何をしているか」禅房から出てきた先輩の念阿 が近づいてきて咎めた。 一同は、さあらぬ顔で、 「いえ、べつだん何をしているということもございません」 たそがれ 「黄昏ではないか」 。し」 「禅房のお掃除もある」 「やります」素直に、若い弟子たちは、散らかって行った。 しかし、実生だけは、念阿の気がっかない間に、森の奥へ走っていた。そして、叡山 の肩に低く垂れているタ雲を仰ぎながら、どこともなく姿をかくしてしまった。 せん せん 宣戦 眼だけを出して、頭から顔はぐるぐると袈裟で包んでいる。 誰やら分りようもない。手には「入道杖」とよぶ四尺ほどの杖をつき、破れ法衣に高 ごろも
かかれなくなろうと思われまする」 「わしのことは、くれぐれ、案じてたもるな、この通り、ひところよりは、心の決定を 得て、体もすこやかに暮しておる」 ごあんど 「慈円様にも、御安堵のようにお見うけ申されます」 あらし 「こよいの暴風雨で、青蓮院のほうも何かと騒がしかろう。わしの見舞よりは、僧正の ひとみ お身のまわりこそ・・ーー」と、吠える空の雲に眸をあげて、 「はやく、もどれ」といいながら、窓をしめた。 「ひどいことでしたな」 あらし 「えらい暴風雨もあったもので」 「こんな大風は、もの心ついてから覚えがないわ」けろりと晴れた翌る日の青い空を仰 なぎたお ぎながら、町の人々は、倒壊した人家だの、流された橋の跡だの、巨本の薙倒された並 木などを見て歩いていた。 吉水の禅房は、山ふところに抱かれていたせいか、比較的に、被害のすくないほうだ ったが、 それでも、屋根は半分も剥ぎとられていた。 「降ったらすぐ困る」 「雨よりは、寒さが防げぬ。せめて、上人のお部屋でも先に」と、禅房の人々は、軒へ けつじよう
過去や、教義のことについて、膝を交えて語るのが何よりも楽しそうであった。 皆、つつましく唇をむすんでいた。しかし、この無言はいたずらな空虚ではなかっ た。誰も声は出さないが炉のまわりの者はこれで充分に語り合っているのである。 ほのお じっと、炉の中の美しい焔に眼を落したまま 外には落葉の音がする。冬の夜の訪れが、しきりと、禅房の戸をがたがた揺すぶって 「綽空どのは、頬のあたりがすこし肥えられた」蓮生房がつぶやくと、炉をかこんでい しんじゃく ねんあ ぜんしよう る心寂や、弁長や、念阿や、禅勝などの人々が、そっと彼の顔を見まもって、 「ほんとに」といい合った。綽空は、うなすいて、 「ここにいて、肥えなければ嘘でしよう」 「初めて、お見かけした時は、痩せておられた」 「あのころの私は、形骸だけでしたから。 今はこうして炉に向っていても、魂まで 。ゝ、ほこほこ温もるのを感じてきます」 心寂が、まるくしていた背をのばして、 「誰にも、一度はそれがあったのだ 「そうそう」と、念阿がそれを話した。 0 わしなども」恥かしそうに何か回顧する。 0
もんごん 信空は、上人の唇から、糸を吐くように出る文一言をそのまま筆写して行った。かない 長文であった。 : しばらく」と、信空は、上人の息もっかせない口述を待ってもらって、そっと 紙を出して、涙を拭いた。 こら 写してゆくうちに涙が出て、ともすると、紙の上へ落涙しそうになるのだった。怺豸 こら ても、怺えても、泣かずにいられない言葉なのであった。 それは、上人が、叡山の大衆に対して、誤解をとくために送ろうとするものであ ( た。言々、血涙の声だった。 ひたすらに、自己を責め、自己の不徳のいたすところであると上人はいっている。〔 時に、念仏門の真意は決して、とかくに臆測され、疑われ、邪視されているようなも ( るる ぎよう ではなく、浄土の行のほかに何らの他意のないことも縷々として述べている。 きしようもん なお、他に、七箇条の起請文を書かせて、翌る日、 「火急のことあり、禅房までお越し候え」と、門下のすべての者へ、使いをやって、 「何事」と、朝から、続々と、禅房の門には人々が集まってきた。 したた 上人は、前の日、認めさせた起請文を一同へ示して、 れんばん 「法然と同心の者は、これへ、連判なされたい」といった。ある者は、一読して、 「これは叡山に対する降伏状にひとしいものではないか」と蔭へ来て、無念そうな唇〈
みはやまごびよう 二人は坐ってしまった。御葉山の御廟のほうへ向って、われを忘れて、数珠の掌を¥ 、よろこ わせ、仏の弟子である欣びに声を出して念仏していた。 ちかっと、朱い光が、御葉山の肩に映した。 夜が明けたのである。 雲にも、野にも。二人のうえの氷柱の刃は、いつの間にか麗朗な珊瑚のすだれ ( ように輝いていた。 しゅん 春雷 いつまでこの春はこう寒いのだろうか。 ひとま しようしんば、ったんくう 門外の御弟子、聖信房湛空は、たまたまその夜、吉水禅房の一間に泊ったのであフ が、夜もすがら花頂山のいただきから吹きおろす風や、三十六峰の樹々の音や、戸を油 る針のような寒さに、 ものえりうず 「よく皆は寝ていられる」と、夜の具に襟を埋めながら思った。 ミリッと時折に、柱や梁が、乾燥した空気と寒に裂ける音を走らせる。 し・ようにん この禅房の建物も」湛空は、ふと、人間の寿命と、建物 ( 「上人もお年を老られた あか と つらら かん て
250 九 吉水の念仏道場は、およそ三つの房にわかれていた。二つ岩の房 ( 中の房 ) ーー松の 吉水の房 ( 西の本房 ) の三箇所である。 下の房 ( 東の新房 ) し、ようにん 上人は多く西の本房に住んでおられた。月輪殿はもう幾度かここを訪ねているので、 ながえ 轅をそこへ向けて、 「上人に拝謁申しあげた上、折入って、御垂示をねがいたい望みでござるが、御都合の 。しかがでござりましようか」と、供の者に訪れさせた。 お目にかかろう。という上人の返辞であった。 しかし今は、随身の人々へ法話の最中であるからしばらく一室でお待ちねがいたいと いう取次の者の挨拶なので、月輪禅閤は、庭前に小さな滝の見える一間に入って、法話 のすむのを待っていた。 、 , とこカ 春はもう去りかけている。滝つばには落花の芥が浮いたり沈んだりしてした。。 おいうぐいす で、老鶯が啼きぬくのである。 えとく ほうねん ただ今までの法然の話にて、ほば、往生の要に、二つの道のあることをご会得召 されたであろうと思う。往生とは、必ずしも最期という意義にはあらず、死にも非ず、 文字どおり、往きて生きること、すなわち、往生なのでござる。・・・ーー往きて生きんか くめ・キ一 みほとけ な、往きて生れんかな。御仏の功カーーー大慈悲の恵みこそはーーー生きんとする者にのみ はいえっ あくた ひとま
てから覚明が粥を持って行ってやると、充血した眼をにぶく開いて、 「粥 ? ・ : 粥ですか : いりません、食べられません」顔を振っていい張るのであ る、それでも無理に食べさせようとすると、彼は、大熱のあるらしい乾いた唇からさけ んだ。 「 : : : 駄目です、いただいても無駄です、私はもう助からない、死がそこに見えてい ひと る」うわ言のようにいって、かたく眼を閉じたと思うと、その眼から一しずく涙のよう なものを流して、 あるじ この草庵の主、善信御房はまだ旅からお帰りになりませんか。わたしは、善信御 房にお会いして、告げなければならないことがあるんです。 : おう、おう、吉水禅房 は "A ) , つ、なり士しょ , っ : このままに、手をこまねいていたら、叡山や南都の法敵のた * じゃくど めに、上人のお身も気づかわれます。せつかく、築きあげてきた浄土門の寂土は、あい つらのために、踏みあらされてしまうに決まっている : 私は、善信御房にひと目会 : それから死にたいのです : : : 善 って、私がさぐってきた叡山の様子をお告げしたい : 信御房は、まだお帰りになりませんか」 五 一人の侍女は、勝手元で朝餉の後の水仕事をしている。 すすぎ 玉日は、持仏堂や、居室の掃除を、日課としている。また、良人のものの濯衣など かしずき あき ) げ
じゃくめつ 往きて生きんーー往きて生きん むったり、寂滅の終りを意味する言葉ではない。 人生へのあくまで高い希望とつよい向上の欲求。それを往生とはいうのである。 吉水の講堂では、きようも厳粛のうちに和やかな半日が禅房のひさしに過ぎた。講義 しゆく よわ をしている上人の声は、粛としている奥の方から表まで聞えてくるのだ 0 た。あれが鰤 もすでに七十を出ている老人の声だろうかと疑われるくらいであった。 しかし、その老人から先になって、この浄土門では、 ( 往きて生きん ) の理想に専念しているのだ。 また、そのため、 ( 人間いかに生くべきか ) の真理を求め探してやまないのであった。 上人はそれに対して、 ( ただ念仏。一にも二にもただ念仏を ) と、教えた。ただ念仏のみが、最も前のふたっ み の人生の欲求を充たしてくれるものだと説いた。 そと せいせい 戸外の春も、一日ごとに、菁々と大地から萌えていたが、この吉水の禅房も、若草の から ようだった。新しく興り、新しく起ち、すべての旧態の殻から出て、この人間の世に、 あかし 大きな幸福の光燈をかかげようとする青年のような意気が、七十をこえた法然上人にさ えあった。 しようかくほういん れんしよう 他の年の若い弟子には勿論、聖覚法印とか、蓮生とか、分別ざかりの人々にも、な 、らく・く お、叡山をはじめ、ほかの歴史あり権威ある旧教の法城が、なんとなく、落莫としてふ えいぎん
€「そこらの納屋、床下など、ちょっと探させてもらうのじゃ」 にやくそう 「折悪しゅう、ただ今、主人の御房は旅に出て不在でござりますし、さような若僧も見 かけませぬゆえ、どうそ御無用になされませ」 「裏方、そう仰っしやられると、吾らはよけいに邪推をまわしたくなる。主人の御房が 留守であろうと、在そうと、それはおのずから別問題じゃ。実をいえば、その附近へ逃 てお げこんだに違いないその傷負いというのは、裏方とはご縁の浅くない吉水禅房の末輩 ちょうじゃ で、法然房が叡山へ諜者に放った人間なのじゃ」 しやペ ・ : 」玉日が、歩みかけると、喋舌っていたその法師は、先へ廻って、薙刀の柄 をわざと横に構え、 つつ ) 0 「お手間はとらせまい」と、 玉日は、貴族的な高い気位を知らぬ間に眉にも態度にもあらわしていた。下司を見く だす眸でじっと二人を凝視した。 「ははは、お怒りか」黄色い歯がまた飛出す。だが、法師の一人は絶えずうさんくさそ うに草庵の方を見るのである。玉日は、是非の判断なくいいきってしまった言葉のてま ・一うち え、その狡智な眼が怖くもあり、なんとしても防がなければならない気持に駆られた。 「半分実をいって、半分いわずにおいては、なにやら胸つかえがしてならん。事のつい でになにもかも吐いてお聞かせするがの、裏方」 つば 顔を近づけてきて唾まじりにいうではないか。玉日は、忌わしさに、体がふるえた。 おわ むな なぎなたえ
ねんあ 「綽空どの」屋根を仰いで、念阿が呼んだ。 「ーー上人が、お召しですそ」と、下からいう。 綽空は、屋根から下りて、流れで手足を洗ってから上人の室へ行った。熊谷蓮生がノ 「なにか御用ですか」 「うむ」上人の顔は明るい。ゅうべの暴風に禅房をふき荒されてかえって自身の風邪 ( 気はすっかり癒えたような顔つきである。 「 : : : 太夫房覚明という者が労仕の衆の中におるそうじゃの」 「綽空様からは、必ずとも、ここへも訪ねてくることならぬといい渡されているのだ、 ら、今日、俺がここで労いているのでも、あるいは、お叱りの種となるかも知れぬ。 うか、上人へおすがり申して、お声をかけて戴きたいのだ」 のり 「ははは。木曾殿の猛将といわれた太夫房覚明も、法の師には、気が弱いの。よしし し、上人にお打ちあけして、貴公の頼みをとりなしてみよう」 「たのむ」覚明がふたたび鍬を持って立つのを後にして、蓮生は、上人のいる室のほ , 一 び。ようぶ へ歩いて行った。そして、壊れたつま戸や屏風を立てまわして端居している法然の前 行って、何かしばらく話しているらしく見えた。 はたら